〔廿柒〕嫌なものは嫌。それが猫。
「よろしくて? あれこそが切り札、奥の手の正しい使い方ですわよ?」
「なるほどね。まさか、あいつにそんな仕掛けがあったとは…」
限りなく真裸に近い美咲先生。その露わな艶姿に百合寧さんの白い外套を肩から羽織り、手を借りながらゆっくりと、牛の歩みの如く扉へ向かう。
美咲先生一人くらい、背負うなり腋下に手を入れて持ち上げるなり、百合寧さんならば幾らでも、素早く移動させる手段はある。
だが、それをしないということは、それが出来ない状態ということか。
まあ、無理もない。何たって、あの妖鬼に二度も胸を衝かれたのだ。自力で立ち上がり、歩けるほどにまで回復はしても、痛みや影響は相当に残っているだろう。
急かしたい気持ちは山々なれど、無茶なことはさせられない。
いつ妖鬼が動き出すかと気が気でないが、ここは待つしかあるまいよ。
「いいな。良いと言うまでだ」
このままでは、みけを手玉の無差別攻撃に巻き込んでしまう。僕は外套に付いている帽子の中に、再び深く潜らせた。
「絶対に顔を出すんじゃないぞ。でないと酷い目を見るからな」
僕としては百合寧さん達と共に行かせたかったが、みけは頑なにそれを拒んだ。猫のときも人間のときも、かなりの頑固者なのである。
「あなた、ちっとも愕いていませんわね?」
「へ?」
「それとも猿レベルに頭が悪いから? あんな易しく噛み砕いた説明を受けても、やはり理解が追いつきませんのね?」
「いやいや。もちろん愕いていますよ、しっかりと」
「そうですの? その割には、随分と淡白いリアクションでしたわね?」
「ただ、たまに目玉が動くので、何かあるとは思っていた。だからですよ」
例の発光直前だ。妖鬼は器と定めた百合寧さんを衝くべく、軽く右腕を振り上げながら、ずいと半歩ほど詰め寄った。
その際、妖鬼は文字どおり、龍の逆鱗に触れたらしい。
龍の逆鱗。それを賢者の諸君に説明するのは甚だ僭越に過ぎるので、ここは省略させてもらう。もしも解さない者がいれば、そのときは遠慮せずに辞書でも何でも引いてくれ。
ちゅうわけでだ。触れられて激怒した龍が雷撃を放ち、それをまともに喰らった妖鬼も堪らず、その場に膝から崩れ落ちた。
尤も、唐突に龍がどうのと言われたところで、こればかりは知恵者の諸君でも、さすがに悩んでしまうだろう。けど、是非とも思い出してほしい。
そう。ここで言う龍とは、天井に描かれた龍である。
だとしたら何処に? といった疑問も多々あれど、美咲先生は全部で八十一ある鱗のうち、喉元の一枚、逆鱗を予め身体の何処かに隠し持っていて、じわりと迫り来る妖鬼の隙を見計らい、するりと足元へ滑らせた。
当然、そんなこととは露知らず、妖鬼もまんまと罠に掛かった。
まあいい。それは。皆が問題視しているのは、その後だ。
これまでは例外なく、どんな体格の妖鬼でも大の字で床上に倒れ込み、中には、こちらが手を下すまでもなく、その衝撃で勝手に塵と化したのもいたという。
なのに今回の妖鬼と来たらば、軽く片膝を突く程度。ただの妖鬼ではないという言葉に、心底納得してしまう。
「そもそも、その猫ちゃんは何ですの?」
「と訊かれましてもね。ま、話せば長い事情でして…」
「どんな事情ですの?」
だから、話せば長い事情ありだっての。
「それはそうと、百合寧さんのことは何故? どうして案ずるなと?」
「何じゃ、小僧。まだ拘っとるのか」
「そりゃ、そうでしょう。何の説明もなく漠然と言われても、はいそうですかとは行きませんよ」
「仕様のない小僧だの。そんなことよりも今は―――」
「いいじゃないかさ。なあに、じつに単純な話さね」
「単純な話?」
「勘だよ。勘。女の勘」
おいおい…。
「理由は判りゃしないがね。あたい達は誰一人、お咲には憑けなくなっちまった。けど、どうだい。お咲きは妖鬼に二度も衝かれたってのに、器を奪われちゃいないだろ? ならばさ。あたい達が憑けなかった、あのユリネって娘さんも同じはず。女の勘なんて言ったがね。ちゃんと、理屈と根拠もあっての結論さね」
「…あの。すみません。理屈って、それだけ…?」
「これ。小僧。いつまで喋っとる。妖鬼のことに集中いたせ」
おい。座敷わらし。おめい自信満々に言ってたよな。あたかも、まともな根拠がありそうに。
「立花さん。今のうちに手鏡を。いつでも取り出せるようにしておかないと…」
いかん。それもそうだな。あんな痛い思いは二度と御免だし。
「あなたって、本当に学習能力がありませんわね? 猿以下?」
「キミ。彼女に言われたでしょう。自覚はなくとも、体力は低下したままだって」
「…でしたね。うっかりしてました。気をつけます…」
「あら? うっかりだなんて、どうやら何も理解っていませんわね?」
何が。
「せっかくだから先に忠告しておいて差し上げますけど、あなたにうっかりなんてありませんのよ?」
はい?
「うっかり何処かを怪我しても、癒しの言霊を詠むわけには―――ううん。べつに詠んで差し上げるのは構いませんわよ? ですけど、これだけ体力が低下した肉体ですと、すべての言霊が砕け散った途端、激痛のあまりショック死ですわよ?」
「やめとけやめとけ。言うだけ無駄だと思うがの。こうした懲りぬ男には」
「しゃあないさ。いつの世も、馬鹿は早死にってもんさね」
「キミ。ご愁傷様」
「ならば、介錯は某が」
いや。たしかに理解ってなかったけど、そんなふうに皆して一度に責めるなよ。
「むむっ? 皆、お静かに。彼奴の気配が変わり申した。あの様子ならば、おそらく直に…」
女子が警告した直後。膝を突き、項垂れていた妖鬼は徐に首を擡げ始めた。
どれだけ効いているかも判らなければ、どこまで回復したのかも判らない。
それでも僕の見た限りでは、すぐに立ち上がることはなさそうだ。
百合寧さん達も、あと二、三歩もすれば迷路の扉に手が届く。ぎりぎり間に合いそうである。
「さあて、小僧さん。いよいよ正念場さね。気合入れて金玉袋を引き締めな」
けっ。馬鹿め。んなもん今さら引き締めなくても、とっくに縮み上がってらい。




