〔廿捌〕科学は諸刃の剣である。
「あなた、何を恥ずかしがっていますの? そんなふうに嫌々詠んで、効果の質が落ちても知りませんわよ?」
早く。早く。妖鬼が立ち上がってしまう前に…、と百合寧さん達を逸る気持ちで見守る中、日傘が不意に言ってきた。小筆の用意をと。
女子曰く、今のままでは歯が立たない。迂闊に近づき、策もなく手を出せば…、
と言葉を濁すほどの怪物だ。僕は少しでも戦いが有利に傾くのならと、二つ返事で小筆を手にした。
さて。効力を発動させるには、僕も詠唱しなけりゃならない。
まあいい。それは。ところが今回、日傘が即興で詠んだのは、気障だの歯の浮くような―――なんてものではなかった。それこそ腐って抜け落ちやしないかと辟易するほど、甘く切ない求愛寸劇。僕としては、そいつを二回も詠む気になれない。諸君には済まないが、自由気ままに想像してくれ。
その白く淡い光の言霊は、手の平に乗る二つの手玉を覆い尽くすと、程なくして徐々に輝きを失った。そのせいで、手玉は牡丹餅のように黒ずんだ。
そうした様子を見届けた後に、小筆を外套の隠しに仕舞い、代わりに手鏡の柄を掴んだところで、あどけなくも尊大な言葉が脳内に響いた。
「小僧。忠告―――いや。警告しておくでの。心して聞くが良かろう」
ゆらゆらと不規則に揺れる蝋燭の炎は、変わりなく奇妙な文字を紡ぎ続け、その灯火に照らされた板張りの壁は、すっかり色が煤けている。
百合寧さん、そこに美咲先生の背をそうっとゆっくり寄り掛からせると、次いで直ぐ様、観音扉の前に立った。
一方、幸いにも妖鬼は、未だに片膝を突いたまま。我が身に何事が起きたのか、それを確認するように、ぐいと天井を仰ぎ見ている。
「くれぐれも、間違っても浴びてくれるなよ」
「はい?」
彼女ら六人の関係に、上下があるとは思わない。
それでも、見た目は年端も行かない幼女だが、常に冷静な態度で現場を仕切り、皆からも頼りにされている。
その支柱的存在であるところの座敷わらしが、堪り兼ねたように呟いた。何とも忌々しげに、腹の底から吐き出すように。
「奪うことしか知らぬ餓鬼め。目に物見せてくれるでの…」
これまでと違い、まったく一筋縄では行かない化け物に、どうやら相当な焦りを感じる傍ら、美咲先生を傷つけられたことで、怒りも相当なようである。
「邪悪な外道に加減は要らぬ。小僧。赤と青を同時に投げよ」
「同時? …だと何か特別な?」
「そうさの。閃光が紫に変化するらしい」
らしいって何だ。そもそも、すごいことなのか。それ。
「つまり、アレじゃ。アレ。混ぜるな危険? 相反する性質の融合何たらがナニをナニして、超高温度の熱を放射する」
超高温って。本堂、木造なんだけど…。
「しかしよ。龍の雷撃は三万度。あれを受けても、あの程度ではの。表面ばかりをどれだけ焼いても、無駄な足掻きかも知れぬがの」
「はあっ?」
非効率的なことを今さら言われて、僕は思わず声を荒げた。
「そんなっ。なら、こうして待っているのは何のため―――」
「キミ。急っ勝ちしない。最後まで聞く」
と少ない言葉で呆れたように僕を宥めた後も、これより先は自分の専門分野だと言わんばかりに、何処となく得意気な口調で化学が続けた。
「真の狙いは熱攻撃に非ず。平たく言うと、可視光線の外側よ」
ふうん。ま、可視光線だか蟹工船だか知らんけど、火事だけは御免だぞ。
「てことは、赤外線とか紫外線?」
「誤りではないけど、五十点。紫外線を含む、極めて波長の短い電磁波。最終的にガンマ線の域まで達するわ」
ほう…、と感心したように頷いてから、やめときゃ良いのに僕は訊ねた。
「…で? 何です? それ」
「たった今、電磁波と言ったばかりだけど。キミ。高三よね?」
たまに自分でも疑うよ。
「キミも判っているでしょう。眼球までもが真剣の刺突を跳ね返すほどの高硬度。落雷の直撃でも倒れない耐久性。負傷しても直ちに修復、回復をする生命維持力。そのどれもが脅威ではあるけれど、戦いに於いて何より最も厄介なのは、例の移動能力だと」
まったくだ。あの瞬足を使われたら、十倍速でも厳しかろう。
つまりは、こちらの希望的憶測どおりに、二人が器を奪われることはないのだとしても、妖鬼は本堂に足止めておく必要がある。何故なら、まず間違いなく妖鬼は百合寧さん達の後を追うし、そんな近くに二人がいたんじゃ、戦闘どころではあるまい。この僕に、巻き込まず戦う自信はないぞ。
「そこで彼女の言霊よ。妖鬼が脅威の脚力を使うとき、また、使った後にも多くのエネルギーが必要ならば、そこに回すだけの余裕をなくす。それが目的」
やっぱりな。判っちゃいたけど、全部おめいの入れ知恵か。
「鉄や鉛の皮膚でもない限り、ガンマ線なら内部まで届いて、深刻な破壊が内臓の各器官に及ぶわ。人間なら体液が瞬時に沸騰して、即死する量の放射線よ。それが体内に留まり、消滅することなく延々と細胞を破壊し続ける」
まるで由良と会話をしている気分だ。妖鬼に同情なんざする気はないが、何とも残忍な計略である。
「尤も、超速で修復するでしょうから、致命傷にはならないだろうけど、それならそれで構わないわ。そのことに精一杯で、動きは確実に鈍るはずよ。そこをキミが仕留めなさい」
「なるほど。それなら、こうして待つ甲斐も」
ありますねと言い掛けて僕は、極めて重大なことに気が付いた。
「いやいや。ちょっと待ってくださいよ。そんな危ない電磁波を、こんなちっこい手鏡で?」
「だから、警告してやったじゃろ。くれぐれも浴びてくれるなと」
あまりにも雑な計画に、またもや僕は声を荒げた。
「馬鹿なっ! 冗談じゃないっ! いくら警告されたって、こんな手鏡で―――」
「立花さん…」
それはそれは、ぞくりと寒気の込み上げる、心臓を突き刺すような声音だった。




