〔伍〕浴衣の君は尾花の簪。
「天松くん? こちらにいらっしゃり?」
部屋の灯りと、廊下に脱ぎ置かれている上履きを見て気づいたらしく、ぶるりと寒気に肩を抱き、火鉢の炭を熾してやろうかと畳に胡坐を構いたところへ、足音もなく、不意に障子戸の向こう側から、小さく声を掛けられた。
「中に入っても?」
「ああ。はい。もちろんです。どうぞどうぞ」
すぅ…、と徐に開けられた障子戸の隙間から、途端、風呂上りならではの素敵な香りが流れ込み、むさ苦しい野郎が二人、味気なく殺伐としていた部屋の隅々までもが、まるで花屋のように明るんだ気がした。
ほんのりと湿った黒髪を軽く結い上げ、昼間、振袖と一緒に母から譲り受けたという藍染め菖蒲柄の浴衣に身を包んだ百合寧さん。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。あまりにも艶かしくて、ついつい、うっとりとした気分で見つめてしまう。
が、そんな男心は意にも介さず、ずばりと核心を突いてくる。
「先ほど何か言い掛けて、中途になってですましょう?」
そうなのだ。百合寧さんは、こうした些細にまで気遣いと気配りが出来る出来た女性。たまあに飛び出す、ちょっぴりおかしな日本語だって、僕としては、それも魅力の一つだと思っている。
「お出掛け先で何かあったの?」
「いや。まあ…」
瞳の奥底を覗き込むように真っ直ぐ真顔で訊ねられ、僕は、今さらながらに躊躇した。
仕方がなかろう。僕にだって事情はある。今さらながらに躊躇するだけの、言うなれば、忸怩たる思いってやつがあるのだから。
僕が初めて百合寧さんに会ったのは、まんまと口車に乗せられて行った由良家の別荘。忘れもしない、聖開に入学して一月ほど過ぎた、大型連休初日のこと。
以来、およそ二年半。百合寧さんには面倒を掛けてばかりいて、挙げ句に、足を向けては寝られないほどの、大きな借りまで作ってしまった。
そう。前述のとおり、去年の暮れなんざ、二度までも共に闇側へ渡り、その度に僕は、この華奢な体を張って命を救われ…。
だもの、これ以上の迷惑や厄介、徒に心配をさせたくないと思っている僕の口が重くなるのは、人間として当然だろうよ。
第一、人類の科学技術進歩とその発展は目覚しく、機械に行き先を入力すれば、車が勝手に走ってくれたり、出先にいたって携帯電話の操作一つで、自宅の風呂が勝手に沸いたり、洗濯までしてくれるっちゅうのに、そこへ時代錯誤も甚だしく、昔話が云々と、妖鬼が云々と、どんな表情して打ち明けりゃ良いのだ。
「…そ。それはそうと、ものすごく似合っていますよ。浴衣。とっても綺麗です、本当に。いつまでも、ずっとずうっと見ていたい」
「また誤魔化して。そんなふうに尋常でなく上手い言葉を並べて褒めても、何にも出してあげたりはしないのですからね?」
「こちらが出したいくらいです」
「もう…」
と百合寧さん、湯上りで上気している頬を尚さら赤らめ、その照れ入った表情を浴衣の袖で覆い隠しながら、そそくさと部屋を後にした―――ところへ入れ替わるように顔を覗かせた、他人じゃ見分けも付けられまい、揃いの浴衣を纏った双子の妹一号・二号。
「兄上。失礼して、お先に」
「頂戴致しましたわ、兄様」
妹達の浴衣姿は日常なので、別段、何とも思いはしないが、しかし、楽しみには思っている。あと何年かしたら、背丈や色々なところも大人になって、百合寧さんみたいに楚々とした色気が、自然と溢れ出るのかなと。
「お。そうだ。お前達。せっかくだし、百合寧さんに本格的な着付けを―――」
“ ぎぎっぎょりっぎょりっ ”
一瞬、ぎくりと肝を冷やしはしたが、どうやら由良の歯軋りで、悪気がないのはわかっちゃいるが、今回ばかりは、本気で首を絞めたくなった。
「兄上? どうかなさいまして?」
「お顔が良くありませんわ、兄様」
色な。色。
「いや。今日は色々とあったから、ちょいと神経質になっててな。それだけだ」
「兄上。そういうときは、お風呂に浸かって」
「ゆっくりなされたほうが良いですわ、兄様」
「まあな。けど、それも億劫なくらい疲れてて。こりゃ、さっさと寝ちま―――」
“ ぎっぎぎぎっぎょりっぎっ ”
「兄上?」
「兄様?」
「気にするな。何でもない。気のせいだ。気のせい」
…だよな。由良だよな…。
「まあいい。とにかく、もう今夜は寝―――」
“ ぎぎぎっぎぎっぎょりっぎょりっぎっぎっ ”
僕は跳ねるように立ち上がり、転げるように廊下へ出た。
…違う。由良ではない…。
馬鹿な。馬鹿な馬鹿な。何故だ何故。どうして。
由良でもなく、気のせい、空耳でもないのなら、紛れもなく例の歯軋りだ。
ならば、何故。どうして妖鬼が。美咲先生は何をやって―――いや、違う。そうじゃないだろ。そんなことより、美咲先生はどうなったのか。
“ ぎょりっぎょりっぎっぎっぎっぎぎぎぎっ ”
まだそれなりに距離があるらしく、指で耳を塞ぐほどではない。
しかし、それが何だというのか。近くでないから、どうだというのか。
「兄上? あの。何をそんなに」
「あわてているのです? 兄様」
一先ず。一先ずだ。一先ず僕は安堵した。心の底から、ほっとした。
なるほど。美咲先生の言うとおり、家系も血筋も関係ない。普遍である。甲は、何をしようと甲であり、乙は、何をしようと乙である。
音は、妹達の耳には届いちゃいない。つまり、乙。即ち、魔の手が伸びることはない。
そう。妖鬼が標的にしているのは、甲である僕だけで、これは僕だけの問題だ。取っ捕まったら僕の負け。上手く逃げ切れれば僕の勝ち。まさに、生死の懸かった鬼ごっこ。尤も、随分と分の悪い勝負ではあるが…。
“ ぎぎっぎょりっぎょりっぎょりっぎぎぎっ ”
判る。判るぞ。音の大きさと強弱で、じりじり、確実に近づいていることが。
ちゅうても、それだけだ。距離や位置、方角すらも不明だし。
「お前達。僕に構わず、もう寝なさい」
言うだけ言って、僕はずかずかと桜の間へ戻り、ばんっと力任せに次の間の襖を開けた。
桜の間は、客間である。故に、客人が宿泊するための寝間が一室、襖の奥に設けられている。
が、立花家にそんな上等の来客なんざありゃしないので、普段は使わない日用品やら衣類やら、先祖代々の我楽多やらが所狭しと詰めてあり、物置き小屋のような立ち位置だ。
僕は部屋の片隅で佇む正絹の刀袋に手を伸ばし、五日ぶりに紐解いた。
それは、僕が母の腹中にいたとき、父と祖父とが仕事そっちのけで十日あまりも槌を打ち続けという、万魔退滅の精魂が籠められた一口、《鬼斬り包丁・松風》。僕の守り刀である。
むろん、こんな物で妖鬼に挑むほど、無謀な性格はしちゃいない。
されど、丸腰よりは幾らかましだ。何せ、こいつには闇側でも随分と助けられている。
いや。たしかに神様なんざ存在しない。それは、誰が何を何と言おうと、揺らぐことのない事実である。
だけど、こんなときくらいは僕だって、験の一つも担ぎたくなるさ。所詮は弱い人間だし―――って。まさか、抜いたら錆びていたましたとか、そういう安い下げではあるまいな?




