〔陸〕自覚はなくとも、罪は罪。
「兄上? そのような物を」
「一体、どうなさる―――」
「しっ…」
かちりと右手で鯉口を切った僕は、諸捻り巻の柄を左手に掴み、二尺三寸五分の刀身を、朴の白鞘から一度に抜いた。
重畳、重畳。相変わらずの美しい刀文。僅かな煤けも翳りも―――っちゅうか、粉打ちしてから日も浅く、早々、錆びてもらっちゃ困るが。
ちなみに、刀剣の手入れをする際は、懐紙を口にするのが作法。うっかり喋って唾を飛ばさないための心得で、昔ながらの仕来りである。
尚、本来は黒蝋色塗刀拵なのだが、わざわざ、そいつを白木の素鞘に納めていたのは、漆塗りの鞘だと気密性が高く、その蒸れが錆を誘うから。
折り返し鍛錬によって不純物が弾き飛ばされ、可能な限りの純粋無垢な鉄で鍛造られた真剣とは、つまり、それくらい錆び易く、僕が二号の言葉を制止したのも、その息や唾が刃に掛かれば、それだけでも、錆の浮く原因となるからだ。
僕は従来の黒鞘に刀身を納め、ふと、だらしなく口を開いて天井を仰いでいる、何とも寒々しい姿の由良に視線を落とした。
ま、風邪くらいは引くかも知れんが、このまま放置で問題ない。
むろん、これは、きちんとした根拠あっての判断だ。
そう。妹達が乙であるように、そもそも、僕のような人間自体が、極々、極めて稀少な存在。つちのこ―――いや。まあ、こうして実在している以上、つちのこは言い過ぎだとしても、天然記念物並みには稀少。また、だからこそ妖鬼はここまで来た。稀少な甲を探し求めて。
であるからして、懸念は一切何もなく、今すぐ、さっさと逃げ出したい。
いいや。一心不乱、一目散に、是非とも逃げ出すべきなのだ。
けれども、音の出所が判らない。妖鬼は、家の内なのか外なのか、何処から姿を顕わすのか、皆目、見当も付かないのだ。判っているのは、近くにいるということだけ。そんな状況で下手に動けば、蜘蛛の巣に掛かる蛾のように、飛んで火に入る夏の虫。末路は言うまでもないだろう。
「おい。お前達。由良を―――」
「いけません、兄上。幾ら屑でも」
「殺めれば、罪は罪ですわ、兄様」
昏睡するほど蹴り飛ばすのは罪じゃないのか。
「お前達の兄は、頭のおかしい殺人鬼か。馬鹿を言っていないで、ちゃんと由良のことを看ろ。お前達が蹴り飛ばしたんだろう?」
「はあ…」
「まあ…」
「なら、少しは責任を感じたらどうだ。ほら。意地悪をせず、布団くらいは掛けてやれ。それと、無闇やたらに蹴り飛ばすんじゃない。腹が立っても、なるたけ我慢するように。いいな?」
「…兄上。何やらよくわかりませんが、本当にお疲れのご様子で」
「少々お待ちください。すぐに寝床の用意を致しますわ、兄様…」
僕の台詞の何処を聞いたら、そういう結論に達するのか。
「いや。構うな。寝床の用意よりも」
留守を頼むという発言に、鳩が豆鉄砲な一号・二号。
「は? 留守? 今から何処かへ」
「お出掛けになられるのですか?」
「…ああ。どうしても、退っ引きならない事情でな…」
「もしや…」
「まさか…」
と姉妹は、兄の不審な行動言動に、鋭く何かを察したらしい。途端、表情を硬くした。
「兄上? もしかして、またもや闇の者達が?」
「ちょっかいを出して来ているのでは? 兄様」
闇の者達、…か。たしかに、闇に潜む者達には違いないが。
「いや。闇側は関係ない。知っているだろ。闇側だったら、三矢達が黙っちゃ…」
…そうだ。これだけの危機的状況になっても未だ、どちらも姿を見せやしない。
てことは、やはり闇側は関係ないのだ。でなきゃ、気づかないはずがない。僕を放っとくはずがない。何を放っても駆け付ける。
なら、何だ。結局、妖鬼って何なんだ。
乙にとって、そこに妖鬼は存在しない? それは、妖鬼の側も然りである?
んじゃ、あれか。二次元の存在は三次元の存在を認識しないとかいう、馬鹿げた架空の理論ってやつが、現実に目の前で起きているってのか?
…ったく。仮に、そうならば、これから必ず矛盾しますと断言した美咲先生の、予告どおりというわけだ。
甲である僕は、妖鬼と同じ次元の住人。
故に、妖鬼の姿も認識可能。歯軋りの音も鼓膜が拾うし、物理的干渉に於いても問題ないのは、すでに実証済みである。
その点、乙である一号・二号は、妖鬼を認識していない。何故なら、同じ次元にいないから。
まあいい。ここまでは。
しかし、だ。だとしたら何故、妹達は僕という存在を認識している?
とまあ、矛盾も矛盾。架空の理論云々どころか、屁理屈にすら成らないし。
“ ここっこっこっこっこここっこっ”
ぎょっとして僕は、慌てて部屋を飛び出した。
幅一間ほどの、薄暗い板敷き廊下である。そこへ乾いた音が反射する。
“ こっこっこっこここっここっ”
間違いない。妖鬼の鋭い鉤爪の先が、床板を小突く音である。
良くも悪くも、何れにせよ、歯軋りのような曖昧さはなく、明確に鼓膜へと届くその音で僕は、妖鬼の位置現在を把握した。
もう、すぐ目前。妖鬼は、回廊を折れた先にいる。
あ。駄目だな。この位置じゃ間に合わん。どうあっても逃げ切れんぞ…。
と状況を瞬時に理解した僕は、唖然として見る一号・二号に厳命した。
「お前達。絶対、何があってもだ」
「は?」
「ほ?」
「部屋を出るな。一歩たりとも、そこを動くな。絶対、僕に近寄るな」
「あの。兄上? それは一体」
「どういうことです? 兄様」
「それが、不慮の事故であったとしてもだ。お前達だって…」
剣の達人なら、いざ知らず。大刀を振り回せるような広さはない。
僕は、柄を握る左手ではなく、鞘を掴んでいる右手のほうを、やや後方へと引くように抜刀した。
次いで、空いた黒鞘を腰の右側に挿し、怪訝な表情の妹達に続ける。
「…嫌だろう? 兄に刀で斬られるのは」
“ ぎぎっぎっぎっぎっぎぎぎっぎょりっ”
もういい。何故とか、どうしてとか、そんなことは些事である。
美咲先生の安否は気になるが、そいつも現時点は、どうでも良い。
来やがった。身の丈、およそ七尺。本堂で討った妖鬼を漆黒とするなら、今度の奴は、薄っすらと青緑味を帯びている。しかも、圧倒的な威圧感と存在感は遥かに格上。恐ろしいそれ、が表情なのか顔立ちなのかは判らんが、こちらを睨んで仁王立ち。これがアニメや漫画なら、描写は【ゴゴゴゴゴゴォ…】といったところか。
はて? ところが、どうしたことだろう。緊張しまくる僕の警戒心とは裏腹に、聞いていたような電光石化の動きは見せず、じぃっと立ち止まったまま。
…何だ。こいつ。こいつは何をやっている。どうして動かない。
んんっ? ひょっとして、もしかしてだが、何かを待ってやがるのか? まさか僕のほうから? 攻撃するのを? 待っている?
「天松くん」
「っ…!」
やれやれ。こんなことばかり続いたら、心臓が幾つあっても足りないぞ。
背後から不意に声を掛けられた僕は、素で飛び上がるくらい愕いた。
「あ。これが有名な生剝げね?」
「へ?」




