31、心を満たし
「……なあ、この作業本当に必要か?」
「作業って言わないでよ。夫婦の仲睦まじい交流なんだから、もっと俗っぽくいちゃいちゃって言って」
「そうは言っても……」
一つのソファに隣り合って座っている二人の間に距離はない。別にラトルにも空けるつもりはないが、仮に離れたとしてもミルが同じだけ近寄ってくることは明らかだ。
会話をしようと言ってラトルの部屋に二日続けてやって来たミルだが、しかし実際行われているのはいまいち真意を測りかねる作業、見る者が見れば奇行と言われるだろうものだ。
ラトルがミルの髪の匂いを嗅いでいる。
正しくは、ミルがラトルに髪の匂いを嗅がせている。
腰ほどまでに伸ばされた薄桃色の髪の毛は、どうなっているのかラトルの眼前に重力を無視する形で漂っている。こういう現象に改めて突っ込むのはラトルとしては飽きている。
部屋に入ってきて少しは別にまともだったのだ。向かい合って座って、特に会話もなくお互いの顔を見て紅茶をちびちびと啜っていた。
十分ほど経過して、何をやっているのかわからなくなったラトルが声を上げようとした瞬間、ミルが立ち上がりラトルの真横零距離に座った。そして言うのだ。
『今の時間で私の見た目は覚えただろうし、次は私の匂いを覚えてね』
いやどういう理屈? というラトルの疑問は無視され、鼻先にふわふわと漂う髪の毛にはその軽さとは裏腹に逆らえない謎の迫力が存在し、結果として今がある。
とはいえ、逆らおうとか、嫌だという気持ちはなかった。ラトルが感じているのはそういうものではなく、懐かしさ。
関係が歪む前の、突拍子もない時代のミル。
昔を再現しているのか、それともこれが今も本来なのかはわからないけれど。
「匂いったってこれ石鹸の匂いだろ? 同じの使ってる奴だっているだろうし、正直覚える意味がわからん」
「馬鹿だなあ。私にだって匂いはあるよ。それに、人の家の匂いってあるでしょ?」
「ああ、まあ、あるな」
「でも少し慣れると薄れていく。あれって安全な場所だって認識してるかららしいんだよね。つまり、私の匂いに慣れておけば、私の傍でラトルは安心できるって寸法よ」
「今全然関係ない真偽不確かな話をごちゃ混ぜにして説得力を嵩増ししなかった?」
「してないよ。仮にしてても何か不都合ある?」
正面からそう言われると答えに窮する。
いくら幼馴染みとは言え人並みの恥ずかしさはあるし、女子の匂いを嗅ぐという非日常が妙な居心地の悪さを作っているのだが、そう言ってもわかってくれないだろうなあと思い黙ってしまう。
しかしながら、内心ではミルも心臓がばくばくだ。そういえばラトルとここまで近距離で接触したのなんていつ以来だろうかと考えると正直覚えていない。
胸の一つでも押し当ててやろうとか考えてた自分がどれだけ浅はかだったのかようやく実感した。出かける前にコトノが呆れたような目で見てきたのはこれが理由か。
この分だと恐らく、『大いなる計画』を話した時には呆れるとか通り越していただろう。なにが退廃的だ。臭いを嗅がせるだけで赤面する女のどこに色気があるのか。
知らないから好き勝手言えただけで、色恋への免疫など皆無だったのだ。おそらくデネッセも気付いていたんだろうと思うと重ねて恥ずかしい。どう思われていたんだろう。
そうした裏事情など一切知らないラトルは、素知らぬ方向に顔を向けるミルに疑問を持つこともない。
「匂いよりも先に知るべきことなんかいくらでもあるだろ。例えば、好きなものとか」
「ラトル」
「じゃなくて、好きな食べ物とか」
「ラトル」
「おい」
「冗談だよ。冗談でもないけど。うーん、あんまり甘くないクッキーとかかな。前、デネッセと流行りのカフェ行ってさ、クッキーのセット頼んだらそれがもう舌が溶けるかと思うほど甘くて」
「舌が? ていうか嫌いなものの話になってないか?」
「続きがあるんだって。で、紅茶でその砂糖の塊を流し込んで店を出たらね、少し離れたところにお菓子を売り歩いてる女の子がいたの。口直しと思って買ってみたらそれが美味しくて」
「道端で知らない人が売ってるものを平然と食べるな」
仮に毒を盛られたとしても腹の一つも壊さないだろうとわかってはいるのだが、苦言を呈さずにはいられない。知らない人間に虐げられた経験は消えない。
往来の誰もが悪人だとは言わないが、悪意などどこにでもあるし、誰でも持っている。ラトルがそれを知っていることを、ミルは知っている。
だから、言っていることは受け入れられる。
だが、そこは価値観の相違だ。
明確な被害者としての立場にはなったことがないミルとしては、人の善性をなるべく信じたい気持ちがある。学園で煮詰まっていた悪意は、学園だからこそ起きたことだ。
とはいえ、別に自分が倒れて後悔する夫を見たいわけではないので、素直に従っておくことにする。あの時の女の子は、なかなかどうしていい子だったけれど。
疑いようがないほどの、圧倒的ないい子に見えた。
まあ、それももう二年ほど前の話だが。
「安心してよ。それ以降は自分で作ってるから。今度持ってきてあげる」
「そりゃ嬉しい、ありがとう」
予想だにしない素直な言葉にミルの脳が一瞬止まる。別にいらないという返事を想定していたわけではないが、こうも何の捻りも無いままに受け取ってもらえるとは思っていなかった。
ミルは未だに少し勘違いしているが、ラトルは物心ついたころからずっとミルのことが好きであり、今まではその矢印が一方通行だと思っていたから精神的に離れていたにすぎない。
それが両方向からのものだと理解した今、夫が妻を邪険に扱う理由はない。
誘われれば喜んで向かうし、クッキーをくれると言えば感謝して食べる。
そしてなにより、距離感が九歳の頃から更新されていないゆえに、そういう言動に関してはラトルに恥じらいはない。自分が何か変なことを言ったとも思っていない。
ミルの話を聞くだけだった時間が長すぎたのも影響しているだろう。どういう言葉が適切なのか、ようやく恋愛の一歩目を踏み出したラトルはまだ学び始めたばかりだ。
しかしながら、無自覚とは恐ろしいものである。
「……どうした?」
「いや、別に。なんでもない」
「……まあ、お前が変なのは今に始まったことじゃないけど。そういえば、ドゥンの奴を生徒会に推したのってミルなの?」
「うん、どこから掴んでくるのか、どうも悪意の残党みたいな連中を根こそぎ私に教えてくれてね。本人はラトルへの罪滅ぼしとか言ってたけど」
「罪滅ぼしねえ。あいつはそんな殊勝じゃないし、単に気に食わない奴らを追い落としたかっただけだろうな。で、断られたと」
「正直な話、断られるの前提で推薦しておいたんだけどね。軽く調べたけど、あの生まれじゃどっちみち他の役員と仲良くもなれなかっただろうし。副会長――次期会長は別として」
「……良かったのか? 会長辞めて」
それはラトルがずっと気になっていたことだった。ミルが自分のために四か月の間、骨を折ってくれていたのは流石に理解していたが、それを除いてもミルはそれに足る器だと思っている。
自分と結婚したからって辞める必要はないとどこかで言わないとと思っていて、今がいい機会だった。
第二王子の後継のような立場になったのは不本意だっただろうが、近い内にベリヤフラム家の当主になるのだから、会長を務めるのも悪い話ではないと思った。
なので、不満気な顔を向けられるとその予想外さに思わずたじろぐ。
「……なに、ラトルは私が会長やっててもよかったの?」
「え? だって将来的にカラヴァダさんの跡を継ぐまでのいい経験になるんじゃないか? お前が未経験だからって上手くやれないとは思わないけど、なっといて損ってもんでもないだろ」
「損だよ。めっちゃ損。得なんて一つもないね。徳を積んでも得は特に無いね」
「一応学園の頂点的立ち位置のはずなんだけどな……」
「だってあんなの続けてたら放課後とかラトルと一緒にいられないじゃん? さすがにラトルを生徒会に引っ張るわけにはいかないしね」
成績的にも心情的にも、という二重の意味だが、どちらにしろそこに込められた真意は同じだ。
可能な限り一緒にいたい。
そう言われるともうラトルは何も返せない。わかりやすい照れこそ表に出ないものの、そこはかとないむず痒さが口を閉ざし、同時に心を満たしていく。
口元に軽い笑みを浮かべたラトルは、ミルとの距離を零にするほど近寄る。
「うぇっ。えっ、どうしたの、その、近くない?」
「近いな。でもいいだろ? 夫婦なんだから」
「まっ、まあそうだけど、そのどうして急に」
「さあ? なんだろうなあ」
良い匂いがする。これは石鹸だろうか、それともミルだからそう感じるのか。この匂いに慣れたら、仮にミルが何日も風呂に入っていなかったとしても良い匂いに感じるのだろうか。
膝に置かれていたミルの手を、勇気を振り絞ってそっと握る。振り払われたら謝るつもりだった。だがミルは、少しだけ肩を上げた後、きゅっと握り返してきた。
恥ずかしい、照れくさい。
だが、どこか安心する。
そういえば昔は、手を繋いであちこちを走り回っていたっけ。
今はもう、あんな風に周りの目を気にしない振る舞いは出来ないだろうが、それでもようやく、あの頃に戻れた気がした。
もっと仲良くなれたらいいな、もっと近づけたらいいなと、子供ながらに願っていたあの頃に。
小さく、柔らかく、温かい。
きっとラトルはこれから先、何度もミルに守られるだろう。だがそれでも忘れないようにしよう。どれだけ強くとも、どれだけ賢くとも、どれだけ頼れても、この手の弱々しさを。
自分だけに見せてくれる、弱みとも言える可愛さを。
忘れないように、ずっと握っていこう。
「……ミル、好きだ」
「……私も。好きだよ、ラトル」
自らの愚かさで離れてしまった愛しさが、今は確かに自分の隣にいる。
幸せな記憶でも、あくまで過去は思い出だ。
目を閉じた時に浮かぶものが、これから先の未来であるように。
自分が引っ張っていくために、この手は決して離さない。
それでも、握った手から伝わってくる温かさがあまりに心地よくて。
いつの間にか目を閉じてしまった妻を、夫が嬉しそうに見つめる。
幸せそうに微睡む少女は、少年の肩に頭を委ねた。
これにて二人の話は完結になります。いうほど二人の話でもありませんでしたが。
書こうと思えばいくらでも書き足せるとは思うのですが、必要以上に書いても蛇足感が出そうなんですよね。
正直書いている最中、これは『恋愛』ではなく『ヒューマンドラマ』なのではないか? と思ったこともありましたが、主軸は恋愛だからと自分に言い訳して突っ切りました。
数日だけジャンル変更していた時もありましたが。
面白かったとかつまらなかったとか、星かなんかで評価してくださると助かります。次回以降の作品で何か改善していきたいので。当然、星一つでも構いません。
それでは、ご読了ありがとうございました。
皆様の今後に、よりよい物語との出会いがあることを祈って。




