21、それならそれで
開かれたラトルの目に映ったのは、見慣れた天井だった。自室だ。一人で使うには少し広すぎる部屋の、広すぎる天井。いつだって持て余していた。誰かを招くことを止めてからは、特に。
どれぐらい寝ていたのかはわからないが、身体のどこにも痛みはない。上半身を起こすのにも苦労する辺り、筋肉が衰えてしまうくらいの時間は経っているらしい。
両腕で体重を支えられたことに違和感を覚え、左腕を眺めると、そこに傷は無かった。血も出ていなければ骨も見えていない。凍ってもいないし濡れてもいない。
皮膚の色が少し薄くなっている傷痕だけが、記憶が夢でないことを証明していた。
おそらく治癒系が活性化させるはずのラトルの自己治癒力が、極限まで弱まっていたせいだろう。あの時はもう魔力も体力も枯渇していて、まさしく死の間際だった。
胴体のどこかを貫かれた記憶もあるが、上半身のどこにもその傷痕は無かった。背中側ということはないだろうから、多分こちらは綺麗に治ったということなのだろう。
立ち上がる。床が随分と硬いように感じるが、これは足の裏が柔らかくなったということだろうか。なんだか来ている服も重く感じられる。自分はまた劣ったのだと、小さく嘆息。
誰もいない部屋を一周眺めて、椅子に座る。あの後何が起きたのかはもはやラトルにとって全く重要ではない。第二王子が死んでいようが、国王が辞任していようがどうでもいい。
一刻も早く、ミルとの婚約を解消しなくてはならない。
今回のことでどっちの家もわかっただろう。ミルという人間の優秀さ、行動力、影響力、その全てがラトルの隣にいるには秀で過ぎだと。もっと相応しい誰かがいると。
今まで『懸け橋』という言葉に縋って生きてきたが、もうそんなものは必要ない。ミルも自分のことを恋愛的に好きなわけではなく、玩具として好きなだけなのだから問題などない――。
ラトルは本気でそう思っている。そう思わせたのは今までのミルの言動だが、結局それは要素の一つに過ぎない。学園に限らずとも、才能の偏った組み合わせだという陰口などいくらでも叩かれてきた。
その度に途切れそうになる自らの意思を繋ぎとめてきたのが偏に『懸け橋』というただそれだけの責任感だった。ミルのことは好きだったが、それ以上に義務感が比重を占めていたのは間違いない。
そしてその義務と責任から解放された現在、ラトルの優先順位はミルの一強になっている。自分が投げだしたのだから、次はミルを開放しなくてはならない。
今回の件で具体的に何が起こったのかはわからないが、ミルももううんざりした頃合いだろう。こちら側の有責で、円満でも不満でもなんでもいいからさっさと解消してしまわないと――
ノックもなく、部屋の扉が開いた。
「……っ!? 坊ちゃん、起きられたのですか! どこかお身体に不調は!?」
「……その感じだと大分面倒かけたっぽいな……、ごめん。身体は特に問題ない」
全身で驚きを表現したクロノに謝罪するラトル。腰が低い――というよりは、もはや卑屈というべき精神性だが、いまさらそれに怯むクロノではない。目覚めたら開口一番謝罪くらいあり得るとは思っていた。
だから、クロノが引っ掛かったのは態度ではなく、雰囲気。いつも危うげだった空気、あるいは顔色というものが、やたらと晴れているような。まるで、悩み事が解消されたかのような。
それに新しい危なさを感じているのは、決してクロノの考えすぎではないだろう。倒れる前に起きたことは、ラトルの意識に嫌な雑音を差し込むのに十分すぎる事件だった。
意識を失った後のことを聞くでもなく、会話の切り出し方を考えている様子のラトルに言いようのない異様な不安が募る。とんでもないことを、口に出すような、そんな。
「父さんって今、家にいる?」
「旦那様ですか? はい、執務室にいらっしゃいますが……」
「そっか、ありがとう」
そう言うとラトルは服を脱ぎ、普段着に着替える。長い眠りから目覚めたばかりの病人を行動させるのはクロノの立場では止めるべきなのだろうが、どのような有無も言わせぬ雰囲気が今のラトルにはあった。
着替えに際して誰の手も借りないのは今に始まったことではない。あの日もそうだった。一人で起きて、一人で着替えて、一人で準備して、誰にも言わずに登校して、意識を失って帰って来た。
どこかで、止めるべきだったのだろうか。
「ちょっと行ってくる」
短くそう言うと、クロノの脇を抜けさっさと部屋から出て行ってしまう。慌てて後を追うが、迷いのない足取りはとてもつい今まで昏睡していた人間だとは思えない。
すれ違う使用人たちが一様に驚きの表情や声を上げても、軽く手を上げるだけで足を止めることはない。無視しきれない辺りに変わらない心根が表れているようで、少しだけ安心する。
執務室の扉を数回ノックして、返事がないままに開く。
急いでいると見るべきか、それとも。
「――ラトル? いつ起きたんだ? 大丈夫なのか?」
「大丈夫。ちょっと身体が重いくらい。ミルとの婚約を解消したいんだけど、問題ある?」
脈絡の無い発言に流石に怯む父――コート・シャッハトルテは、頭を下げながら息子に続いて部屋に入って来たクロノに目線を向けるが、自分以上に目を見開いている様子からするに何も知らないなあれは。
「……四か月ぶりに目覚めて開口一番がそれなのか?」
「四か月? 四か月も眠ってたのか……」
まるで興味の無い他人事のように独り言ちる様子に、再びクロノに視線を向けるが、小刻みに素早く首を振っていることから察する限り、説明する暇もないほどに急ぎ足でここに来たのだろう。
一体寝ている間に何があったのかを、本人が語ってくれることはないと思った方がいい。そもそも、あの泣き叫びの後も、相談の一つも家族に持ちかけなかった息子だ。信頼を求めることは、高望みなのかもしれない。
「まあいいや。ミルなら新しい相手もすぐに見つかるだろうし、別に問題ないだろ? 俺はまあ、どうにでもしてくれ。大したことは出来ないけど、労働力くらいにはなる、かな? 腕も動かしにくいわけじゃないし」
「…………」
さて、四か月は短い期間ではない。それなりに色々あったし、それなりじゃない色々もあった。ラトルが当事者である色々もあって、それはラトルの望みと相反する色々だ。
こういうとき、真正面からそれを伝えるのが愚策だというのをコートは深く理解している。そうでなければこの年まで生き残れていない。生存競争に勝ち残れていない。
だが、じゃあ遠回しに迂遠に伝えるのが正しいのかと言えば、それは否だ。
「……解消は無理だ。諦めろ」
「は? なんで? 父さんとカラヴァダさんの同意があればできるだろ? 今回の件――いや、四か月前の件でわかっただろ、俺じゃミルと釣り合わない。望まれてた懸け橋にはなれない。だからもう無駄なんだよ。父さんだってそう思うだろ?」
その言葉に少しだけ目を見開くコートだが、それをラトルには見せない。動揺を隠しきれ。あくまでも冷静に、説き伏せるように語れ。
そもそもカラヴァダ――ミルの父親であるカラヴァダ・ベリヤフラムも、それに応じるとは思えない。あいつは何より、娘の幸福を優先する人間だから。
それと同時に、ふと思う。
自分は、息子の幸せをどこまで考えていたのだろうかと。
「……もう遅い。その話はいまさらだ」
「遅い? あ、俺が起きるかどうかも分からなかったからもうとっくに解消されてるって話か? それならいいんだけど――」
「もうお前とミルちゃんの結婚は成立している。三か月半前にな。今のお前はラトル・シャッハトルテではなく、ラトル・ベリヤフラムだ。……離婚させろ、なんて言ってくれるなよ」
「…………何言ってんの?」
コートの言葉が全てだ。ラトルが意識を取り戻すことなく半月が経過した段階で、ミルが望む形で二人の結婚は受理された。離婚は不可能ではないが、貴族のそれは今後の大きな瑕疵になる。
なにか生活面、性格面における不備があるのではないかと警戒される一要因になり得るし、それを差し引こうと、ミルの知名度があろうと、新たに求婚してくる人間はいないだろう。
そのために、ラトルの意識が戻らないうちに強引に話を進めたのだから。
ラトルの顔から感情が抜ける。予想だにしない展開に思考が追い付かない。じゃあもう遅いのか。また俺は取り返しがつかない段階まで呆けていたのか。また足を引っ張ったのか。
今から自分が何をしてもミルに大なり小なりの禍根を残すことになるのは間違いない。まただ。また、自分は遅れた。取り返しがつかなくなってから気が付くのだ、いつでも。
「――ふざけんな!! なんで止めなかったなんでやめなかった! 父さんが認めなきゃ意識の無い人間の結婚なんてすんなり通るわけがない!」
「わかってるじゃないか。俺もカラヴァダも認めた。だから通った。これ以上がいるのか?」
「いるのかじゃねえだろうが! 何の意味があるんだこんなもん! ミルに負債を押し付けただけだろ! 俺みたいなのを抱え込まされてミルだっていい迷惑――ぐっ、うぅっ!?」
ピシッ、パキィ!! と、怒りの放出先として机に叩きつけられたラトルの左腕を氷が覆う。左腕の傷痕を始点として、まるで四か月前のように。だがその時とは決定的に違う。ラトルの意志ではないし、なにより一切の制御が効かない。
魔力が際限なく漏れていき、それは既に肩まで侵食している。滴った水が凍っていくように、どんどん膨れ上がる魔力の氷は今や執務室の家具をも巻き込み、移動することも叶わない。
「ラトル! なんだ、どうなっている!」
「わかんねえ! 駄目だ、止まらない! 早く部屋から出てくれ二人とも!」
床に到達している氷のせいでもはや振り向くこともできないが、コートとクロノが入り口付近に避難していることはわかる。流石にそこまで離れれば影響を受けることもないはず。
体感的には体内の魔力の七割近くが既に氷に吸い取られているが、それが収まる気配はない。このままだと干乾びるまで搾り取られるだろうことは直感的だが確信できる。
どういう現象なのかはわからないが、これはもう魔力制御云々でどうにかなる事態じゃないと判断したラトルは、逆に全身の魔力を全身全霊で氷に注ぎ込む。
もしミルほどの魔力があったならば、それはまさしく屋敷全体を凍らせるような被害を生んだだろうが、ラトルのそれは部屋の半分近くを埋め尽くしたところで成長を終えた。
ラトルの左半身はほとんどが氷に呑まれており、身動きを取るどころかまばたきすらろくに出来ない。寒いという感覚がなぜか無いのが救いだが、このままだったら全身凍傷で死ぬんじゃないのか。
それならそれでいい――と思ってしまうあたりがラトルのラトルたる所以だが、残念ながらそう上手くは運ばない。魔力切れでラトルが意識を手放した瞬間、室内の氷が全て溶け、それに伴って大量の水が入り口から廊下に流れ出る。
氷から解放され、運良くソファに顔から崩れ落ちたラトルに駆け寄る二人は、思ってもみなかった厄災に苦悶の表情を浮かべながら、静かに目を見合わせた。
目覚めてから十分程度で再び意識を失ったラトルの顔は、誰が見てもわかるほどの、悲愴に満ちていた。




