アスタロトの真意
ボッシュの目前には土色の巨人が迫っていた。2体の巨人は3メートルほどあり、腰布を巻いただけの姿で棍棒を振り上げながら向かってきた。
トロールはそれほど知能は高くない種族だが力は強く、外見に似合わず俊敏でもあった。しかし、日光が苦手で太陽の下では極端に行動力が鈍り、本来の力を発揮することは出来ない。
それを承知でバルベリスはトロールを戦場に駆り出したのだが、それについてもボッシュは異議があった。
大剣を抜いたボッシュは、一瞬でトロール2体の間をすり抜けると、途端にトロールの動きがピタリと止まった。
ボッシュは後ろを振り返らずにバルベリスを見つめる。
「なるほど………」
バルベリスがそう言うと、動きが止まっていた2体のトロールは同時に倒れてその場で気を失った。
巨人が倒れた事で地面が揺れ、土煙が上がったが、ボッシュとバルベリスは全く見向きもしなかった。
「………やはり太陽の下ではトロールは役に立たないという事ですね?」
バルベリスがそう口を開くと、ボッシュはすぐに答えた。
「それは戦う前からわかっていたはずです………不幸にもそれを承知で駆り出されたトロールには少しの間眠ってもらう事にしました」
「ふっ………お前なりのトロールへの配慮という訳ですね?ですが、弱者にそのような配慮は不要だと言っているのに、どうしてお前はわからぬのです?」
「それは我ら人間もトロールと同じ立場だからです………悪魔であるバルベリス様の気分次第でザライドマセルはゴーレムにされ、トロールは弱点である太陽の下に晒され強制的に戦わされる。そして、今、私の魂もゴーレムにされ右手は切り落とされようとしています」
「その割には、全くゴーレムになろうとは思っていない顔をしていますね。むしろ、この私に勝とうとしている目です」
「それはそうです。このまま黙って死を受け入れる訳には参りません」
ボッシュはそう言うと大剣を上段に構える。
「いざ、参ります!」
振り下ろした大剣は衝撃波を発生しバルベリスを襲うと大爆発が起き、その姿は爆炎と黒煙に包まれた。
しかし、すぐに炎や煙は渦巻き状に上空へ消えて行くと、そこには平然と白馬に跨るバルベリスの姿があった。
バルベリスは無表情のまま口を開いた。
「無駄です。その程度の攻撃は簡単に相殺できます。それにすでに物理攻撃防御と付加ダメージ減少の魔法を行使済なので、その剣で私を傷つけることは不可能です………魔法を使えない時点でお前が勝てる見込みなど皆無なのです」
バルベリスは言い終わるのと同時に口を大きく開けた。
ボッシュはすぐに危険を察知して回り込むように走り出した。
バルベリスの口から勢いよく炎が噴き出され、ボッシュを追うように首を回しながら火炎を噴射する。
この地獄の炎は三日三晩消えることなく燃え続ける真性悪魔が持つ能力であり、ドラゴン族の『炎の息』<ファイア・ブレス>よりも瞬間的な威力は劣るが、その持続力により全ての物を灰にする事ができる。しかも地獄を統べるバルベリスは悪魔の中でも特に炎を自在に操る事ができた。
周囲はバルベリスが吐く地獄の炎でどんどん埋め尽くされて行き、まさに灼熱地獄と化していた。
ボッシュはなるべく地面が燃えないように、ジャンプを多用して空中に炎を吹かせるように動くが、人間である以上、それにも限界がある。ヒポグリフを呼ぶことも頭をよぎったが、どんなに神業的な手綱さばきを見せても、バルベリスの炎を空中で避け続けるのは至難の業だ。
逃げ続けていても勝機は無い───。
ボッシュは突然バルベリスに向けてダッシュをかける。
通常の者であれば横方向から突然縦方向への高速移動に目が付いて行かないだろう。だが、バルベリスはそれも予測済だった。
腰に下げた細身片手剣を抜き放つと、連続で突きを繰り出した。
まるで衝撃波がマシンガンのように飛んでくるため、さすがのボッシュも直線的にバルベリスに近づくことは出来ず、迂回するような円運動を余儀なくされるが、辺りは地獄の炎が燃え盛っているためかなり行動範囲が制限されていた。
ボッシュの逃げ場がほとんど無くなった事は誰の目からでも明らかで、バルベリスは大きく息を吸いこむとトドメとばかりに地獄の炎を吹きつけた。
これまで以上の火炎放射がボッシュを襲うが、逃げ場がないボッシュはあえて立ち止まると、上段に構えた大剣を力の限り振り下ろした。
斬撃による衝撃波は地獄の炎を左右に切り割きながらバルベリスへ向かって直進した。
「!」
バルベリスは反射的に年代物のレイピアを振ってこれを受けようとしたが、対応が遅れた分だけ細身の剣への負担が大きくなり、レイピアの刀身の中ほどと剣先が折れてしまい、その破片がバルベリス目がけて飛んできた。
思わず反射的に上体を左へ倒しこれを避ける。
悪魔は通常の武器では傷つくことはない。悪魔が自ら作り上げた武器、もしくは神が作り上げた武器でなければ、基本的に悪魔は攻撃を避ける必要も無いはずだった。しかし、反応速度が高いという事は、避ける必要がない場合でもつい反応してしまうのだ。
今回のケースでも、自らが持っていたレイピアが破壊され、その破片が自分に向かって飛んでくることを瞬時に理解できたため、つい体が反応して回避行動を取ってしまったのだった。
バルベリスが視線をボッシュに戻した時には、すでに目の前にその姿があった。
ボッシュが持つ大剣は、その昔『神の知恵』を授かった人間が作った『悪魔殺し』の剣だ。バルベリスとしては、今度こそ絶対に避けなければならない攻撃だった。
この時のバルベリスとボッシュの距離は、ボッシュが振り下ろす刀身がバルベリスに直撃するほど接近した距離だった。『悪魔殺し』の剣は衝撃波ではなく、刃そのもので切り伏せた方が悪魔に対して何倍ものダメージを与える事が出来るのだった。
バルベリスは完全に左側へ重心が傾いており、瞬時に対応できる体勢ではなかったが、漆黒の翼を実体化すると凄まじいスピードで後方へ飛び退いた。
これによりギリギリの所でバルベリスは頭部への直撃を避ける事に成功したが、折れたレイピアを握っていた右手は肘の上あたりから切断された。
ボッシュがこのまま大剣を振り切った場合、バルベリスが乗り捨てた白馬まで切り伏せてしまう。
咄嗟にボッシュは大剣を空中で止めることに成功したが、剣圧によって、白馬は腹ばいのまま地面に激しく押し付けられたが、幸い大きなダメージにはならなかったようで、その後は何とか立ち上がった。
バルベリスは小さく呻き声を上げて右腕を押さえつつ、6枚の漆黒の翼で羽ばたきながら空中へ逃れた。
侮っていた───。
バルベリスは今更ながらボッシュの強さを知った。
これは悪魔全般に言える事だが、前の大戦で悪魔は神の助力を得た人間に勝利し、人間というものを熟知している事もあって、常に見下す傾向が強かった。
ソイマンが騎士団団長だった頃に、ボッシュが何気なく悪魔の人間に対する態度について意見を聞いた事があった。
ソイマン曰く、「これ以上我々に力があると認識されれば、疑われ、警戒され、監視される事になる。それを考えれば今の状況が一番良い」という事だった。つまり人間を侮ってくれているくらいが丁度よいという事なのだ。
そう考えるとバルベリスは悪魔の中では騎士団の力を比較的正当に評価していた。だからこそザライドマセルをゴーレムにする事で、最強の岩人形を作り出せると考えたのだ。
だが、それこそが聖騎士団を侮っていたと言える。何故なら、簡単にザライドマセルの魂を制御できると考えていたからだ。しかし実際にはそう簡単には行かず、ザライドマセルをゴーレム化するために自身の軍のほとんどを生贄として捧げる結果となり、更にはボッシュの『栄光の手』を手中にしようとしたにも関わらず、逆に自分の右腕を切り落とされるという失態を晒すことに繋がったのだ。
───しかし、さすがはバルベリスと言ったところか………普通であれば怒りに任せて逆上してもおかしくは無いが、バルベリスは冷静を保っていた。
上空からボッシュを見下ろし、今一度、現状を分析すると、瞬時に勝利を確信した。ボッシュは一人火の海に取り残され、今やそこから移動することもままならないのだ。
ボッシュ自身もそれはわかっていた。だからこそタイミングを見計らってこの炎の中から脱出を試みようと考えていた。
すると、背後から大きな手がボッシュの左腕をがっちりと掴んできた。
「があああぁぁ!」
トロールの咆哮が轟く。
先ほどボッシュが気絶させた2体のトロールが正気に戻り、ボッシュを背後から動けないように掴んできたのだ。
「よくやりました、トロール。少しは役に立ちましたのであなた達の種族はこれまで通りの待遇を約束しましょう………」
バルベリスはそう言うと更に続けた。
「ボッシュ………これでわかりましたね?弱者に情けをかけた所で何の意味も無いという事を。何故なら弱者は常に強者の側につくものです。いくらお前が情けを掛けようと、強者で無い限りそれは何の意味もないのです。お前はその人間特有の感情のせいで、この私に敗北する事になるのです」
バルベリスはそう言うと大きく口を開けた。
「くっ!」
ボッシュは短く息を吐くと、大剣をくるりと逆手に持って右後ろのトロールの腹へ突き刺した。
トロールの体はくの字となりボッシュから手を離した。
ボッシュはすかさず大剣を引き抜くと、トロールは鮮血をまき散らしながら後方へ倒れて行ったが、ボッシュはそのまま右手を振り回しながら体を捻り、大剣の柄尻を左後ろのトロールの脇腹に叩きこんだ。
トロールは苦痛に顔を歪ませ、ボッシュを掴む力が緩む。
その時、バルベリスは上空からボッシュ目がけて地獄の炎を吐いた。
ボッシュは苦痛に耐えるトロールの懐に入ると、そのまま巨体を担ぎ上げた。
そこに地獄の炎が直撃し、トロールの絶叫が響き渡る。
ボッシュはそのままトロールの巨体を空中へ放り投げると、自らは大剣を背中の鞘に収めながらダッシュし、バルベリスの白馬に飛び乗った。
白馬はボッシュを振り落とそうと後ろ足で立ち上がり、前脚を高く持ち上げる。
ボッシュは手綱を引きながら大きな声で叫んだ。
「良く聞け白馬よ!死にたくなかったら私に従え!いいか!?勇気をもってこの炎の壁を飛び越えるんだ!」
だが、白馬は両耳をペタンと折って聞く耳を持たない。
そこでボッシュは白馬のタテガミを握りしめて、頭を引き寄せると更に叫んだ。
「逃げるな!ここで勇気を見せよ!!」
ボッシュはそう叫ぶと、白馬の腹を蹴って同時に白馬の頭を前に押し出した。
「行け!!!」
ボッシュの掛け声に反応して白馬は弾かれるように走り出すと、燃え盛る炎に向かって突き進み大きくジャンプをして飛び越えた。そして着地と同時に再びジャンプする。
「ハッ!」
ボッシュの掛け声に合わせて炎の壁を次々と飛び越えて行く白馬。
そして遂には地獄の炎地帯を抜け出すことに成功すると、ボッシュは白馬から飛び降りてその頭を撫でながら言った。
「良くやった!お前はもう勇者の一人だ!」
そう言うと、白馬の尻を叩く。
「よし、行け!出来るだけここから離れろ!そして生き延びろ!」
白馬は一つ嘶くと東に向かって走り去った。
ボッシュはその姿を横目で見ると、すぐに上空のバルベリスへ視線を移し背中の大剣を抜刀する。
「ふむ」
バルベリスはそんなボッシュの姿を見下ろしながら状況を分析していた。
「………東方人が現れてからボッシュは失われたはずの『人間らしさ』が顕著に現れ始めているようです。これはいけませんね………人間はすぐに他人に感化される生き物………そうなればすべての魔族の人間へ伝染してしまいます………そうなる前に元凶となるボッシュにはこの場で死んでもらう必要がありそうです」
バルベリスはそう判断すると、魔法の詠唱に入った。
上空には徐々に巨大な魔法陣が形成され始める。
「まずい!」
ボッシュはすぐに現状を把握するとヒポグリフを呼んだ。
甲高い咆哮と共に太陽の光を背にしたヒポグリフは、バルベリスに向かって急降下を開始した。
バルベリスはそれを予知していたように空中で舞うように避けると、更に詠唱を続けた。
地上では風が吹き荒れ、地獄の炎は渦を巻きながら上空へ昇って行き、いくつもの炎の竜巻が発生していた。
ボッシュはヒポグリフに飛び乗るとすぐに上空に舞い上がり、地獄の炎の竜巻を避けながら高度を上げて行く。
しかし、四方八方から延びた炎の竜巻はボッシュを取り囲むように上空に延びて行き、頂点で全ての炎が一つとなってヒポグリフの頭上を塞いだ。
「鳥かごに囚われた気分はどうですか?」
バルベリスは嬉しそうに問うと、ボッシュからの回答を待つ訳でもなく更に続けた。
「地獄の炎と風魔法『ストーム』の競演です。このまま炎の鳥かごの中で焼け死ぬがいい!」
バルベリスの声と共に、頂点で一つになっていた炎が一気に真下に向かって鳥かごの中全てを覆うように噴射を始めた。
ボッシュは急いでヒポグリフを急降下させるが、すぐに地表が迫る。上からは地獄の炎が迫り万事休すとなる。
「く……!!」
ボッシュとしては最後まで抗うしかなかったが、今となってはそれさえも許されないほど打てる手は残されていなかった。
右手で大剣を抜き放つと、迷うことなく一本の炎の竜巻に向かって全力で打ち下ろした。
耳を劈く衝撃波が放たれると、炎の竜巻を切り割き、地面に激突して大爆発する。
ボッシュはその爆発の中にヒポグリフを突入させると手綱を目一杯引く。
爆風の中から飛び出したヒポグリフは、土煙を上げながら地表ギリギリの所を飛行してから急上昇し窮地を脱した。
「ま、まさか………我が風魔法を破っただけではなく、地獄の炎をも打ち消したと言うのですか…………そんなばかな………」
さすがのバルベリスも驚きを隠せなかった。
神々が命を与えた種族の中で頂点に君臨するドラゴン族でさえ、魔法を打ち消すには同等以上の魔法を行使するしかなく、まして真性の悪魔だけが使える地獄の炎を消し去ることなど出来やしないのだ。それなのに、たかが人間如きが魔法と地獄の炎の両方を一瞬で消し去ったなど、到底考えらないことなのだ。
───危険だ!
バルベリスはそう直感した。
───このまま東方人に感化され続け、人間として本来の感覚を取り戻した時、あのボッシュの力は間違いなく我々悪魔の障害となるだろう。ならば完全に覚醒する前にここで始末しなければ!!
バルベリスは空中で静止した状態で左手を払うと、ボッシュによって破られた炎の鳥かごはもう不要とばかりにパッと四散し、地獄の炎は元通り地表を焼き続けるだけの状態となった。
その頃にはボッシュはヒポグリフを上昇させ、バルベリスと同じ高度にまで達していた。
「殺す!」
バルベリスは遂に全力でボッシュを倒しにかかる。
これまでは自分の力を誇示するような攻撃に終始していたバルベリスだったが、純粋に相手を殺すためだけの攻撃をする決意をしたのだ。
バルベリスは左手を勢いよく突き出して力一杯開いた手を握ると、まだかなり距離があるはずのボッシュは見えない手に頭部を掴まれて苦しみだした。
真紅に装飾をされた特製ヘルムは鈍い音を立ててひしゃげると、勢いよく弾け飛んだ。
ボッシュの金髪が風でなびくと同時に、その頭を見えない手で掴まれ、ギリギリと頭全体を締め上げられた。
頭蓋骨がバキバキと悲鳴を上げる。
「ぐぐぐ………!」
実体が無いものに頭を締め上げられているため、ボッシュには逃れる術がなく、ただ苦痛に耐える事しか出来なかった。
「ふふふ、どうですか?ボッシュ………人間如き、殺そうと思えばいつでも簡単に殺せるという事を、その身をもって味わいながら死ぬが良い」
バルベリスはそう言いながら、空中でさらに左手に力を込める。
ボッシュは激痛によって意識が薄くなり握った手綱が緩み、ヒポグリフはゆっくりとらせん状に降下を始めた。
それを見てバルベリスは楽しそうに叫んだ。
「ふははは!弱い!弱すぎるぞ!人間!」
『誰が弱いのですか?』
「!?」
突然、耳元で囁かれるような感覚にバルベリスは驚いて飛び退いた。
そこには6枚の漆黒の羽を広げた裸体のアスタロトの姿があった。
「い、今頃になってどうして現れたのですか!?アスタロト!?」
バルベリスは冷や汗を流しながらアスタロトを睨みつける。
だが、アスタロトは涼しげな表情でバルベリスの姿と、ゆっくりと降下を続けるボッシュの姿を交互に見る。
「ふふふ、バルベリス。ボッシュを侮って痛い目に遭ったようですね?」
「な、なに!?」
「だからムキになって私の可愛い配下であるボッシュを殺そうとしているのですか!?私の断りも無く!?あなたの独断で!?」
アスタロトの瞳がスッと細くなる。
「貴女がいない間にボッシュは私の配下となっています!そのボッシュがこの私に楯突いたのです!悪魔に逆らうなどあってはならない事!………死して償うのが道理というものです!」
バルベリスが力一杯、自分の正当性を主張する。
確かに悪魔が力で支配するこの大陸においては、バルベリスの主張は正論である。だが、アスタロトとしてはバルベリスの主張などどうでも良いのだ。
「ボッシュが理由もなく逆らう事などありません。おそらくその原因を作ったのはバルベリスの方にあるはずです。しかも、悪魔に逆らうなどよほどの事があったのでしょう………」
「アスタロト!あなたも悪魔であろう!?どうして人間に肩入れをするのですか!?」
「肩入れ!?………ふふふ………」
アスタロトは悪魔としては珍しく笑ったが、次の瞬間険しい表情となった。
「私の計画を成し遂げるためには、今ボッシュに死なれては困るのです!むしろバルベリス!貴公の方が私にとっては邪魔な存在………」
そう言いながら、アスタロトは右手をバルベリスへ向けた。
バルベリスは汗を滴らせながらも強がって見せた。
「や、やはり………まさかと思ってはいましたが、アスタロトよ!あなたは………!!!」
バルベリスの話はアスタロトによって強制的に途中で打ち切られた。
アスタロトの攻撃によってバルベリスの頭は消し飛び、残った体は首が無いまま空中で5秒ほどホバリングを続けていたが、やがて羽ばたいていた翼が止まり、燃え盛る地上に向かって落下して行った。
ボッシュは九死に一生を得ると、地獄の炎の範囲外まで東へ移動してから公路上にヒポグリフを着陸させ、鞍から飛び降りて地面にひざまずく。
そこへアスタロトが上空からゆっくりと降下して来た。その背後にはワイバーンが付き従っている。
アスタロトは片膝をつけて畏まるボッシュの姿を見て、かなり消耗している事を瞬時に理解した。
ワイバーンが先に公路上に着地すると、ゆっくりと舞い降りてきてその鞍に横向きで脚を組んで座るアスタロト。
ボッシュは頭を下げたまま口を開いた。
「アスタロト様、ご無事で何よりです。先ほどは加勢いただきありがとうございました」
毅然とした姿ではあったが、幾筋かの血が頭部から顎にかけて流れ、鮮血が滴っていた。
「私の方こそ到着が遅れてしまい、お前たちには苦労をかけてしまったようですね………」
「いいえ、滅相もございません」
「では、現状を報告していただきましょうか?」
「はっ!」
ボッシュは東方人により挟撃されたことや、バルベリスがザライドマセルをゴーレム化した事などを報告した。
「なるほど………」
アスタロトは頷きながら鞍に括られていた荷物の中からワンドを取り出すと、右手に持って振りかざしながら詠唱を開始した。
ボッシュはすぐにその魔法の意味を察すると、目を閉じ頭を深く下げた。
「ヒール」
アスタロトがワンドをボッシュに向けると、途端にボッシュの傷口は塞がり流血は止まった。
「私めに貴重な魔法を使ってくださり感謝いたします」
「構いません」
アスタロトは短く答えると、荷物から黒のローブを取り出して素早く纏っていつも通り深くフードを被った。
「予備のローブをお持ちになっていたのですね?」
だったらどうして今まで裸だったんだろう?と思いながらボッシュは尋ねた。
「あなた達種族は、何故か本来の姿を晒すのを避けようとするので、私も仕方なく予備のローブを持つようにしたのです。私からすれば人間の裸など、他の生物の裸の姿となんら変わりはないのですがね?」
「ご配慮いただきまして、ありがとうございます」
ボッシュはそう言って頭を下げる。
そこへ漆黒のヒポグリフが舞い降りてきて、マールシェとコスメールが地上へ飛び降りると、すぐにボッシュの隣に並んでひざまずいた。
「揃ったようですね?」
「「はっ!」」
マールシェとコスメールが同時に返事をした。
アスタロトは相変わらずワイバーンの鞍に座り三人を見下ろしながら口を開いた。
「バルベリスは不慮の死を遂げました………ですが案ずる必要はありません。まだ後方にはネビロスの部隊が控えているので問題は無いでしょう。ですがその前にネビロスとベルゼブブには直接会って話をする必要があるでしょう」
「具体的には、我々は今後どのように動く手筈でしょうか?」
ボッシュが質問すると、アスタロトはそちらに視線を移して静かに言った。
「ネビロスにはバルベリスの所在が不明とだけ伝え、それ以上詳しい話はせず、単に粛々と東方人を攻撃するように命令します。続いてベルゼブブの元に向かい、この度の作戦失敗の責任を追及します………」
「ですが、ネビロス様であれば東方人を根絶やしにするのは容易いこと………であれば当初の目的を達したことになりますので、ベルゼブブ様の責任を追及するのは難しいかと………」
魔族は大陸を力で支配している以上、最終的に力でねじ伏せる事が出来ればなんら問題はないのだ。もしもその過程で死者が出たとしても、それは単に力が無かっただけであり、そのような者は魔族にとっては不要な者なのである。
アスタロトはゆっくり首を振ると口を開いた。
「ネビロスが勝った場合は………ですね?………だが、もしも敗れれば、力で制するという我々の基本的な理念が崩れることになる。その事実があればベルゼブブを失脚させるなど容易な事なのです」
遂に自分の野望を打ち明けたアスタロトだったが、ボッシュらは平静を装っていた。
「アスタロト様はベルゼブブ様の地位をご所望だという事を理解しました」
「ふふふ。理解が早くて助かります………さて、ボッシュ。そうとわかった今、あなた達騎士団はどうしますか?」
「是非もありません。バルベリス様から救っていただいたご恩は返させて頂きます。それにアスタロト様の真意を知った以上、ここで離反の意思を示せば、我々はこの場で命を失う事でしょう」
ボッシュはよどみなく言ってのけると、アスタロトは満足気に頷いた。
「良いでしょう………では、騎士団に命令します。ネビロスと東方人の戦いを見守り、東方人の軍が崩れネビロスが追撃戦へ移行するのを見計らって、ネビロスの背後に回りこれを討ち、その勢いのまま東方人も討ち滅ぼせ」
「!!!」
ボッシュは思わず顔を上げてアスタロトを見上げた。
「どうしました?ボッシュ。返事がありませんが?」
アスタロトはワイバーンの鞍に座り静かに問いかけた。
ボッシュは一拍おいてから意を決して口を開いた。
「………一つ、確認したき儀がございます」
「何でしょう?」
「この命令を遂行するにあたり、我らのサタン様への忠誠に傷がつくという懸念がございます………」
このボッシュの発言にピクっと僅かに反応するアスタロト。
「つまりボッシュ。あなたは私の命令はサタン様への反逆にあたると言いたいのですか?」
「そうではありませんが、もしもゲッシュに抵触することであれば、我々には強制力が働いてアスタロト様のご期待に応える事ができなくなりますので………」
「心配には及びません。何故なら、この私もサタン様へは絶対的な忠誠を誓っています。むしろ、サタン様のためにもっと働きたいと考えているからこそ、今回の行動に出たと考えてください」
「承知しました」
ボッシュは頭を下げてアスタロトの命令を受けた。
アスタロトはワイバーンの鞍に跨り直して口を開いた。
「私はこれからネビロスと会って時間を稼ぎます。これは私達のケット・シーに対するゲッシュの有効期限が切れるタイミングで、ネビロスが東方人らと戦闘になるようにするためです。その後私はベルゼブブの元に向かいます。あなた達は東方人を殲滅した後は『天地の塔』に来てください。そこで会いましょう」
「ところでアスタロト様、ケット・シー族も殲滅対象でしょうか?」
「東方人に協力している種族はケット・シー以外にも存在し、それら種族は逆賊です。これを討ち滅ぼすことに何ら問題はありませんが必須ではありません。あくまでも優先目標は東方人の殲滅です」
「承知しました。それでは戦いが始まるまでのしばしの間、東の館に潜むことにいたします」
3人の騎士団は頭を下げるとスッと立ち上がり、ヒポグリフに飛び乗った。もちろん、コスメールはボッシュの背中にしがみついている。
「5色騎士団はこれより移動する!」
ボッシュの声に赤と黒の装甲装飾を施された2体のヒポグリフが、夕暮れ迫る黄金色の空へと舞い上がると、公路に沿って東に針路を取った。
アスタロトはその姿を見送ると、自らもワイバーンを上昇させ西へ向かって飛び去った。
ボッシュはヒポグリフの上で考え込んでいた。
アスタロトは密かにNo.2のポジションをベルゼブブから奪う事を考えていたのだが、それを実行するきっかけを与えたのが自分のバルベリスに対する行動だったのかと思うと、非常に複雑な気持であった。
───もしも私がバルベリス様へ反抗するような事をしなければ、アスタロト様はバルベリス様を殺すような行動に出なかったのではないか?私の軽率な行動によって、ネビロス様とも戦わねばならないとは………。
ボッシュは自分を責めていたが、例えボッシュがバルベリスと戦う事が無かったとしても、アスタロトはバルベリスを殺していただろう。このタイミングで行動に移さなければ、アスタロトにはもう蜂起するきっかけが無くなっていたはずだ。
だとしてもボッシュは騎士団を率いる者として、今回の行動は軽率だった。
アスタロトの行動はサタンの命令よりも完全に私利私欲を優先させたものだ。東方人の殲滅はあくまでもついでであり、No2のポジションを奪う事を最優先している。
力こそ正義というのが大陸の原則だとしても、成り行きとはいえ、ボッシュはアスタロトの捨て駒的な立ち位置になってしまったのが不本意なのだ。
「このままネビロス様と合流して東方人を殲滅するのもありか………」
そう。馬鹿正直にアスタロトの命令に従う必要は無い。ネビロスと共に東方人を殲滅して堂々と凱旋すればいい。
その場合、アスタロトはベルゼブブから不信感を持たれる可能性があるが、特に大きな罪に問われることは無いように思える。
そう考えればアスタロトへの協力はしない方がいいだろうが、それ以降、アスタロトに命を狙われながら魔族内で生きて行けるのだろうか?………いや、無理だろう。
バルベリスと敵対した事実を知るアスタロトには弱みを握られており、公表されれば魔族の人間は根絶やしにされるだろう。つまり人の種を存続するためには、今のところはアスタロトに協力するしか道は無いのだ。
ボッシュは失意のまま東の屋敷に向かったのだが、この時はまだ、自分に降りかかる更なる試練を知る由もなかった。




