[完結]1―C 第4話 道化が持った 果実の色は
黒いもやの中に入ってみると、思っていたほど不快感は無かった。鼻を刺激する煙たさや、目に染みる痛さも感じない。さらに踏みしめる地面は固く、先ほどまでいた螺旋階段の床よりも歩きやすい。
不満があるとすれば、ただ暗く、黒く先が見通せない点か。
もやの中に入る前、夜といっても明るい月に照らされていたからなのか。もう数分は黒いもやの中を歩いているが、目が暗さに慣れてくれない。こうなると耳を頼りに進みたいものだが……
(静かすぎる)
辺りは不自然なほど静かだ。鳴っているモノと言えばナルミの足音くらいなものではなかろうか。
「これが五里霧中ってやつなのかな……たぶん違うか」
不安を押し殺すために冗談を言ってみたものの、聞き止めてくれる人は誰もいない。発した声は辺りに響かず、黒いもやに吸い込まれていった。
(うーん、たぶんにここは広いな。まあもちろん、あのドアが素直にマンションの中に繋がっているとは思っていなかったけど)
やはり自分が思っていたとおり、この空間は特殊だ。螺旋階段からマンションの中に繋がるドアを開いて、自分の声も響かない場所に着くハズがない。
(問題はどっちに進んだらいいのか分からないところだな)
やみくもに歩いていても、どこにも着く気がしない。困ったナルミは一度歩みを止め、目をつむった。右手の人差し指と親指で目頭をおさえ、軽くほぐしながら考える。
(この世界は僕がいつも暮らしている世界とは違う。それは理解した。もしかすると因果も違っているのかもしれない)
もしやこの空間は、歩いたからと言ってどこかに進んでいけるわけではないのか? ナルミは先刻見た落下ビトを思い返す。
(落ちて散らばったモノは? 僕がいた世界では勝手に動いたりはしない。なら落ちたヒトは? いや、あの高さから落ちたら即死しているだろう。ここは落ちたナニかが突然消える世界だ。なら、この世界特有の、ナニか違う法則があるに決まってる)
普段住んでいる世界とは、ナニかが違う。法則が違うのだとすれば、今まで培ってきた考え方では駄目かもしれない。この空間で起きたことを、最初から考え直してみよう。
(最初は、あの階段。それで案内人さんに会って、それから……)
すこしばかりの時間思案していると、ナルミの脳内にある言葉が閃いた。
それは別れる前に案内人が言っていた言葉。
(『おめーさんは自分で選択した』……そう、この言葉だ。どうにも引っかかるのはここだ。自分で選択した。自分で、選んだ。逆に考えれば自分で選ばない、選択しない……とどうなるんだ? もしかして、選んでいない状態が今なんだとしたら……まさか自分で選べるのか?)
他人任せでいてはいけないという意味に捉えていたのだが、なにか違う意味も含まれている気がする。ナルミの直感が、この世界にピントを合わせていく。
(そう考えれば、落ちていった人が嘘であって欲しいと思ったら、消えた。下に行かずに済むように、上にもどこかに通じるドアが欲しいと思ったら、あった)
これかもしれない。今までこの世界で起きた事象に、共通点を見出すとすれば。
(だとすると、今は歩けばどこかに着くだろうと思って歩いているから、どこにも着かない? 何が起きて欲しいか決めてないのがいけない? なら限定して、行きたい場所を自分が願えばいいのか?)
ひとしきり考えた後、ナルミの口から1つの願いが声になった。
「そうだな……今僕は、誰かが、いるところに行きたいかな……?」
そう口から言葉が出尽くした直後に。
辺りのもやが白く変色し、さらに光り輝き出した。
突然の変化に戸惑ったナルミは、とっさに強く目をつむる。
次に目を開いた時、そこには
「あれ、ここって……」
広々とした夜空が広がっていた。光を感じて頭上を見れば、空には赤みがかった月が1つ。怪しげな光がナルミを、街を照らしている。目を細めるナルミのほほを、夜の冷えた風が優しくなでていった。
「外、だよね」
さっきまでの閉塞感はどこへやら。いつの間にか辺りを覆っていた黒いもやも晴れていた。
突然の変化に対して、ナルミは驚きよりも喜びが先に立つ。
(よし! やっぱり間違ってなかったんだな、こうして違う場所に着いたんだし!)
まずは状況確認だ。首を振り、体を動かし周囲を観察する。
すると近くの建物に、見覚えのある階段が1つあった。
ピンク一色に塗装され、マンションに隣接するように後付けされたような螺旋階段。あんな趣味の悪い階段は、そうそうあるものじゃない。
(えーと、落ち着けよ。あそこに見えてる階段が、さっきまでいた階段だとして……)
頭の中で位置関係を入れ替えてみると、自分の居場所にアタリがついた。
ここはマンションのすぐ近くに建っていたビル、その屋上だろう。
(どうしてこんなところに飛んできたのかな? ……ああ自分が誰かがいるところに行きたいって言ったからか。なら、誰かがいるハズなんだけど……)
とりあえず動いてみようと、ナルミは足を前に踏み出した。その時
「ストップ。そこから進むと危ないよ?」
背後から、誰かの声が突き刺さる。
「ッ!?」
驚いたナルミが振り向いた先には、ビルの屋内へと続く建物があった。
平たいビルの屋上に、たんこぶのように一箇所だけ飛び出た立方体。
その1面にドアを1つ、違う1面にハシゴを1つ取りつけただけの、簡素な作り。
そんな大きな箱の上に、足を投げ出し座っている、1人の少年がいた。
月でも眺めているのだろうか。仰向けに寝そべった体勢から、腕を支えに上半身だけ起こして。少年は空を見上げていた。
(誰……いや待て、マトモじゃないぞこれは)
ナルミは喉から出かかった言葉をグッとこらえる。
少年が身にまとう雰囲気は、明らかに普通ではない。この対峙しただけで心の内を締め付けられるような感覚には覚えがある。
(そうだ、この感じは階段であった案内人さんと同じ――もしかすると)
ナルミはなるべく言葉を選び、おずおず少年に話しかける。
「もしかして、案内人……さんですか?」
「……へぇ。なんで分かったのかな?」
すると少年から反応があった。少年は上を向いたまま、目線だけをナルミに向けた。
「さっきここに来るまでに、似た雰囲気の人と会いましたから。それに加えてあの人がこの世界には俺以外にも案内人がいると言っていたので、もしかしたらと」
「なかなか聡いね。警戒しながらな辺りもなかなか」
「(褒められているのか?)……ありがとうございます。あの、さっき言ってた危ないというのは、一体」
「ああアレ? アレはね……うん? ごめん訂正、そこでも危ないからもうちょっとこっちに来た方がいいよ」
少年は目線を上に向け直すと、左手をナルミに向けて上げ、手招きをした。
(上? には何もないけど)
つられてナルミも上を向くが、見えるのは赤い月といくばくかの星くらい。どこにも危険は見当たらない。
「? えーと一体……?」
少年の意図が掴めない。困ったナルミは少年に話しかけるが
「うーんちょっとマズイね。もう時間が無さそうだ。僕の足元にあるドアが見えるよね? この辺りまで来た方がいい」
少年はまともに応答してくれない。やはり上を向いたまま、ナルミを手招きするばかり。
(からかわれているのか? それとも何か間違えたのかな)
ナルミは少しむっとしながら、語気を強め再度問いかける。
「すみません。僕には何が危ないのか――」
「もう一度だけ言うよ」
しかしナルミが発言し終わる前に、今度は少年が言葉を挟んできた。
口調も先ほどまでとは違い、起伏に乏しい、高圧的で厳しい物言いに変化している。
突然の変化にナルミの肩がビクリと跳ねた。あわてて少年の方を見ると、先ほどまでとは体勢も違っている。上を向く姿勢を止め、ナルミと正面から向き合う体勢に変化していた。
赤い月光に照らされ、淡く輝く白髪の合間から。鈍色の瞳が、じっとナルミを見つめてくる。
「時間がないんだ。そこは、危ないから、もっとこっちに来い 分かる?」
有無を言わさぬとはこの事か。少年にまっすぐ見つめられると、見えない何かに包まれているようで息が詰まる。初対面であろう相手、ろくな説明もなく命令された。なのに、ナルミには逆らう意欲が不思議と湧かない。
(何なんだ一体)
心の中で軽く悪態を付きながらも、ナルミは大人しく少年の言に従うことにした。
大人しく2、3歩ほど前に進んだ、ナルミの背後を――
ナニかが通り過ぎていった。
直後に生じる、異音と異臭。パァン、と。何かが弾けるような音と共に、背後から吹き抜けてくる風に、嫌な臭いが混じり始める。
(――!? は? いや何がいやどこから? 一体何が――)
振り向いたナルミの思考が凍った。突如現れた異物を、脳が認識したがらない。
目の前には、黒が広がっている。人に見えるナニかと、そのナニかからあふれ出る黒が。どんどん、どんどんナルミの視界を埋めていく。
おかしい。おかしいところが多すぎて、何から考えていけばいいのか混乱する。目の前の視界が歪み始めた。落ちてきた異物に既視感を覚える。覚えたくもないのに。
「っ……あっ……ッ」
何かを喋ろうとしても、口から出る音が声にならない。何度声を出そうとしても、かすれた叫びを発するばかり。
(一回、消えてくれたじゃあないか……なんでまた来るんだ。なんでコレなんだよ)
一体どこから降って湧いたのだろうか。ナルミが上を見渡したときには、何もなかったではないか。誰も、いなかったではないか。
(……そうだ。目や、鼻から出てるのが黒いじゃないか。これはきっと血じゃないんだ。だからこの人も、人じゃないんだ)
人じゃないと思えたら、どれだけ楽か。でも、そう思い込みたい自分を、どこか冷めた自分が見ている。心の中から努めて冷静に。これは人間だと、聞きたくもない正解を、ナルミに突きつけてくる。
『自分が見えないくらい上空から降ってきたのなら、もっと散らばるのではないか? 五体がそのまま残っているのに、目や鼻や耳からあふれ出るこの黒い液体。これは血に何かが混ざったのではないか?』
聞いてもいないのに、嫌がる自分を無視して。冷静に状況を確認し、思考を止めない自分がいる。
(分かってる。自分でも、おかしな考えだと分かっているよ、だけど。だって、だってそうだろう!? なんで何度も何度も)
どう見てもこれは、ナルミのよく知る――
どことも知れぬ、空の上から。
1人の男性がナルミの側に、《《再び落ちてきた》》。