My Dearest Target.外伝『the first day of a November.』
果てしなく広大な海、足跡のついた白い砂浜、穢れのない澄んだ空気、そして真珠のように丸い月。幻想世界に迷い込んだのではないかと勘違いするほど出来すぎた月夜に、僕はたまらず感嘆のため息を漏らす。
砂浜にある二人分の足跡はきっと誰かが昼間に砂浜で誰かと遊んでいたんだろう、と適当に推測する。
ここはどこなのか、自分は何者なのか、何をしたいのか……何も分からなかった。ただ、いくつも浮かぶ本来解決すべきどの疑問よりも、一つの疑問が僕の脳裏を何度もチラついた。
そういえば今日は何日だっただろうか、と。
そんなことを考えていると、すぐ隣から誰かが茶碗を差し出してくれていた。
ありがとう、と視界の端にいる誰かに向かって言ってから茶碗を受け取り、いつものように月を見上げた。
はて、と何やら言い知れない違和感を感じ首を傾げてみる。
僕が普段月を見上げているのはたしか十月だった気がする。涼しくなった夜に月を見上げてお茶を飲む、それが僕の楽しみだったはずだ。
そういえば、今月は何月だっただろうか。
ひんやりとした潮風が肌を容赦なく突いてくる。
なんとなく今日はなんだか寒いなぁ、と呟いてみる。返事はない。そもそも誰からの返事を期待しているのか。
茶でも飲んで温まろうと、茶飲みを覗くと茶柱が一本プカプカと静かに揺られながら立っていた。これは幸運。早く知らせてあげよう。きっと喜んで────…………、
いったい僕は誰に知らせようとしてたんだろう?
茶柱が倒れないように静かに茶碗をお盆に置く。
海、砂浜、漣。船を導く灯台のあたたかな光。耳を澄ませば寂しげな海猫の鳴き声。静かに揺れる水面は不器用に月を映し出す。
この光景、どこかで? 違う。まだ、まだ何か足りない。誰かがいない。
「人は誰でもいい誰かを探しながら、誰でもない誰かを探している」
誰かの声が、僕の鼓膜を震わせる。優しく、懐かしい、温かな振動が僕の心に波を立てさせる。
心がざわつく。心臓がはねる。
僕の景色には、隣には、誰かが、彼女が必要なんだと、心が叫びをあげる。
「初めはなんでもない存在でした。誰でもいい誰かでした」
視界の端に、揺れる黄金の糸を捉えた。その色は懐かしい色だった。
「それがいつしか、あなたは大切な存在になった。誰でもないあなたになった」
そっと、消えてしまわないようにゆっくりと僕は隣に座る彼女へと視線を移す。
鈴の音を思わせるような澄んだ声。月明かりを弾く黄金の長髪。絹のように白い肌と夜に似合う月下美人の浴衣。
いつの日か、僕は彼女と、
「他の誰でもない、あなたを、私は──────」
大切な約束をしたのだった。
◆◆◆
パチ。
そんな音が鳴ったのを確かに聞いた。
視界いっぱいに広がっていたのは杉の木で精巧に組み立てられた天井だった。吊り下げられた照明は豆電球だけ点灯しており、部屋の中は薄暗い。それにやや肌寒い気がする。
いまだ霞がかかっている頭を懸命に働かせ、そういえば朝方まで起きていて、そこから寝たのだったと思い出す。
まぶたが開く音なんて聞こえるものなんだなぁ、と大きな欠伸をすると、布団から体を起こし、襖を開けて外の景色を見渡す。
「どうりで寒いわけだ」
ふわりと空から落ちる雪に草原が化粧をしていた。
それどころか月が空高く昇っている。つまり朝に寝て夜起きた、という事になる。ここのところ仕事続きでようやく取れた休みだったとはいえ情けない話だ。
「お目覚めですか?」
鈴のように澄んだ声に、思わず慌てて振り向いてしまう。いつのまにか部屋の中に入っていた彼女は目をパチクリとさせる。
「そんなに慌てて、どうかしたんですか?」
「あれ? あ、いや……なんでも、ない。と思う」
「ふふ、変な人ですね」
「はは……」
僕は笑って誤魔化しながら心中で首をかしげる。
どうして僕は慌てていたのだろう。何か、大切な何かを忘れている気がする。
「お茶、ここに置いておきますね」
はっと、彼女の声で意識を現実に向けると、彼女は湯飲みが二つと急須を一つ乗せたお盆を机に置いていた。
ぼーっと、まるで大切な何か……魂が抜かれたように彼女を見つめていると、彼女は心配そうに僕の顔を覗き込む。
「気分が優れませんか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ……なんだろう。なんだか脱力感と言うか、何かが抜けてしまったような、そんな気がして……」
「そう、ですか」
彼女は顎に手を当ててしばらく考え込むと、何かを思いついたようで体の前で手を合わせると言った。
「きっと夢を見ていたんですよ」
「夢?」
「そう。無くしたのは夢の記憶、夢の世界」
彼女はそう言って縁側へ出ると草履を履いて縁側の淵に座り込む。
「夢とは心を写した世界です。待ち望む世界を描き楽しみ、恐ろしい未来を体験し予習する。貴方が見た夢はきっと、幸せな夢だったのでしょう。だから、忘れると寂しくなる」
「夢、か」
そう言われるとそんな気がしてくる。あまり深く気にしていても仕方がないことなのだろう。もし思い出すべきことならきっといつか思い出す。
急須で二つの湯飲みにお茶をそそぎ、両手で持つと熱いのを我慢して彼女の元へと早足で向かう。
湯飲みの内、片方を差し出すと彼女は「ありがとうございます」と、はにかむ。
月を見上げてお茶を飲み、隣には彼女がいる。きっと、今の僕は今までの人生で最高の時間を過ごしているのだとなんとなく思う。
「そういえば」
しばらく二人で月を見つめていると、彼女は言った。
「かの夏目漱石は『I love you』を『今夜は月が綺麗ですね』と訳したそうですよ」
「ああ、僕も聞いたことがあるよ。一説だと後世の作り話だ、なんて話もあるみたいだけど」
「ご存知だったんですね。私は今日初めて知りましたよ。なんだかロマンチックで、私は好きです」
「そうだね、僕も好きだよ。似たような話では小説家の二葉亭四迷がロシア語を訳したとき、日本語でいうところの『貴方に委ねます』を『死んでもいいわ』と訳したなんて話もあったかな」
「なんだか日本人らしい言葉ですね」
「そうかもしれないね」
そんな話をしていると、不思議と頭の中から疑問が湧いてきた。なんでもないことだが、なんとなく気になって彼女に質問をする。
「今日って、何月の何日だったっけ?」
突然の質問に彼女はキョトンとすると、すぐに嬉しそうに微笑んで答えてくれた。
「今日は霜月初めの日……十一月一日ですよ」
「あぁ、そういえばそうだった。どうりで雪も降るわけだ」
しんしんと降る雪の日。新宿のように綺麗な月を見上げて過ごす夜。
十一月は寒くなるので去年まではあまり月を見上げることはないのだが、今年は違った。彼女と寄り添い、互いの温度を交換し合う。
この想いを言葉にするなら、きっとこれ以上の言葉はないだろう。
「今夜は月が綺麗だ」
「ふふ……月はずっと綺麗でしたよ」
はにかむ彼女の横顔を視界の端で捉え、僕は思わず笑みをこぼしてしまう。
庭に咲く一輪の花が優しい風に揺れる。
彼女は揺れる花を見つめながら、重ねた手を絡ませて僕の肩に頭を預ける。
「花、咲きましたね」
「ああ……綺麗に咲いてよかった」
彼女の誕生日に植えた月下美人の花。たった一日だけ夜に咲くその花を見るために、今年は毎日月を眺めていたのだ。
庭に咲く月下美人の花は、白い花弁で月光を弾く。その柔らかな光は、まるで微笑んでいるように思えた。
本編では十月……即ち神無月の物語で、神様がいないお話でした。
神が不在の月、それ故に罪を犯しても咎めるものはいない。その代わり誰かを救うものもいない。そんな物語でした。
しかし投稿日が十月三十一日。夜が明ければそれは十一月じゃないかと気がついてしまった僕は今回の物語を思いつきました。
罪を犯したのは十月、命を落としそうになったのは十一月……かもしれない。もしそうなら主人公と鈴は助かった……かもしれない。
とはいえ本編中には一言も十月三十一日とは書いてませんでしたので、今回の話は『思いをのせた朝』の話かもしれません。
来世の話なのか、それとも二人は生きていたのか……それは読者の皆様の中で答えを見つけてもらえればと思います。
正答はきっとありません。感じた答えが真実なのだと僕は思います。
ちなみに不在の神様、誰のことなのか……言葉にするのは野暮ってものでしょうか。
それではまた次の外伝で会いましょう。




