気づき
六月九日の月曜日。
週明けは、つらい。
さらに、土日の疲労が残ったままというか、先週の頭から休みなく動いていたまま月曜日を迎えた感覚で、やる気がまったくでない。
それでも、仕事はあるし、やることもある。
午前のうちに、できる限りの書類仕事や急ぎの仕事を進めておいて、十五時から十七時までの時間を意図的に空けた。さらに、仮の予定……本当はアポイントはないのだけど、取引先数社に訪問とだけ、共有カレンダーに登録をして外出をする。
オフィスが入るビルを出て、日本橋まで歩きながら、スマートフォンを操作した。
そしてビルの影、路地に入ったところで立ち止まった。
山田建設株式会社の尾道本社、その代表電話番号に発信をする。
ワンコールで、すぐに電話は取られた。
「お電話、ありがとうございます。山田建設総合受付でございます」
女性の声だ。おそらく、受付の人なんだろう。
俺は、意図的にヒカルの名前を名乗る。
最低なやり方だと、わかっている。けれど、普通に名乗っても相手にされないと思っていた。
「上田ヒカルと申します。山田会長と約束がありご連絡したのですが、お取次ぎをお願いします」
「承知いたしました。秘書課にお繋ぎいたします」
躊躇いもなく対応されたので、意外さに戸惑う。
ふつう、疑うだろ? あれかな? 会長宛はとりあえず秘書課につなげって言われているのかな?
少し待つと、秘書課の人が出た。
「もしもし、お電話かわりました――」
男の声だった。
どうしてか、聞いたことがあると感じた。
「――秘書課の山田と申します」
心臓が、ドクンと跳ねた。
……山田。
山田?
あ!
「あ!」
思わず、声が出た。
「上田様? どうなさいました?」
山田……先生。
これは、山田先生だ。
俺は考えがまとまらず、言葉を発せられない。
電話の向こうの、山田先生が話す声が聞こえる。
「どうなさいました? 上田……ヒカル様? どういったご用件でしょうか?」
……受付から、秘書課に電話が引き継がれ、上田ヒカルという人から会長宛に、約束があって電話が入っていると言われた。
それを聞いた山田先生……いや、もう先生じゃない。
山田建設の秘書課の山田が、これはまずいと電話に出た。
俺は、ゆっくりと言葉を出す。
「ご無沙汰しています、先生」
「悪戯ですか?」
悪戯。
二十五年前、俺を潰した言葉が、電話の向こうから戻ってきた。
「俺です。上田ヒカルの同級生だった、田中一郎です」
「……君は」
「覚えていなくてもいいです。山田先生、転職なさったのですね?」
「……ええ、そうです。それで、会長へのご用件と仰るのはどういった?」
山田先生は、おそらく周囲に人がいるので、このような話し方なのだろうと想像する。
「いえ、会長宛に連絡しましたが、本当に話をしたかったのは貴方です」
「……」
「ヒカルのことで、どうしても会って話したい。上田さつきさんにも会いました。断らないでください」
俺は、ずけずけと言えている自分に驚きつつ、相手の反応を待つ。
「かしこまりました。では、日程はいかがいたしますか?」
「六月十四日、土曜日です。尾道駅に行きますので、そこで待ち合わせましょう。十二時はどうです?」
「かしこまりました。では、それでお願いいたします」
「あ、まだ切らないでください。連絡先を、教えてください」
山田は、自分の携帯電話番号を言うと、「では、当日に」と言って電話をきった。
あいつ! 俺が確認する前にきりやがった!
言われた番号を、口にしながらスマートフォンを操作する。
発信ボタンを押して、ちゃんと電話が呼び出し中になることを確認した。そして、ショートメッセージを送る。
『よろしくお願いします、山田先生』
終わった。
いや、終わったわけじゃない。
さて、このことを皆と共有しておこう。
LINEを開いた時、ショートメッセージの着信があると通知が画面に表示された。
開くと、山田からだ。
『わかりました』
スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく考えた。
万が一、山田がまた親父に頼って、おかしな圧力があった場合、被害にあうのは俺一人にしておこう……ていうか、俺は東京だし、実家は福山で影響はないだろう……親父は福山の造船業のサラリーマンだし、おふくろは珍味の工場にパートで行っているので、建設業とは近くない。
山田と会って、完了報告をすることにしよう。
俺は、決めた。
ここで、どっと疲労感に襲われて、ビルの壁に手をついてもたれる。
スマートフォンを持っていた手のひらは、汗で濡れていた。
どこかのカフェで、少し休んでから会社に戻ろう。
俺は少しふらつきながら、大通りへと歩いた。
一週間、俺は仕事を懸命にこなすことで、不安や緊張を誤魔化して過ごした。
LINEグループでは、山田先生と連絡はついたかという俺への確認が何度かされたが、『まだ』『会社に電話するのはやっぱり厳しいな』と嘘をついた。
いちど逃げた俺を、受け容れてくれた彼らに嘘をつくのは、けっこうきついものがあった。
それでも、今はこうするしかないと思い、嘘を徹底する。
そして、六月十四日の朝、東京駅から新幹線に乗り、いつものように福山駅で山陽本線に乗り換えた。
電車が尾道の旧市街地に近づくと、海と空に挟まれた小さな町が見えてくる。
尾道駅のホーム。
電車を降りて、改札を通過する。そして、左手のスマートウォッチで時刻を確認した。
十一時四十分。
ワイヤレスイヤホンを片耳だけつけて、プレイリストを再生する。
駅の構内で、座って待っていると着信があった。
相手は、山田だ。
「もしもし、田中です」
「どうも。今、駅前」
「ちょっと待ってください」
俺が駅の外へと出ると、スマートフォンを耳にあてた中年男性が立っていた。
目があう。
あれが、山田?
……山田だ。
あの時から、少し太って、でも老けた感じはない。それでも、当時から二十五年だから、今は五十後半のはずだけど、それよりは若く見える。
俺が立ち止まっていると、彼のほうから近づいてきた。
「田中……君か?」
「ええ」
「どうする? どこかに入るかい?」
「あまり、人に聞かれないほうがいいと思うんですよね、お互いに」
含みのある言い方をした俺に、山田は少し目を細める。しかし何も言わず、海のほうを指さした。
「歩きながら、のほうがいいだろう」
「じゃ、そうしましょう」
俺たちは、ロータリーから海のほうへと歩道橋をわたると、駅前桟橋から西へと伸びる海岸沿いの遊歩道を歩く。
山田が、口を開いた。
「思い出したよ。田中君……思い出した」
「そうですか」
「それで、話というのは?」
「ヒカルと最後に会っていたのは、山田先生だと思ったから、話をしたかったんですよ」
「そうか……君だったもんな。私とヒカルが一緒にいたのを見たのは」
「はい。先生は、ヒカルと何を話していたんですか? おそらく、上田さつきさんとのことだとは思いますけど」
「先生は、もうやめてくれよ」
彼は苦笑いをして、少し悩む顔となる。
意外なのは、俺と会っているのに、山田は少しも緊張していないように見えることだ。
彼は、前を見ながら口を開いた。
「そこまで、調べて会いに来たってことは、ヒカルが行方不明になったのは、私のせいだと思っているんだな?」
俺は、慎重に言葉を選ぶ。
「基本的に……は、そう思っています」
「そうか……質問に答えるよ。当時、俺とさつきさんが、結婚を考えていたこと、聞いているね?」
「はい」
「うん……実は、そのことで父から猛反対をされていた」
山田はそう言うと、少し悲しそうな目で俺を見る。
なんだ?
この人は、本当にヒカルのお母さんとのことを、ちゃんと考えていたのか?
「なんとか説得して……私なりにいろいろとしてたんだけど、父は……なんというか、君たちが考える父親と、私たち兄弟との父の関係は、違うんだよ」
彼はそこで、向こうから歩いて来た人たちに道を譲るように立ち止まる。そして、すれ違った後、続けた。
「まぁ、これは君には関係ない。反対されていて、結婚ができなかった……それを私は、さつきさんに話せていなかった。そんな時だ……あの日……ヒカルが、私に話があるって言って職員室に来た」
俺は、相槌も挟まず、黙って彼の話を聞く。
「……彼は、私が自分のお母さんと結婚することを、同級生には知られたくないみたいで、ころころと話す場所を変えた……校舎裏ならと思ったら、君がいたんだよ、それが、あの時だ」
俺は、頷きを返すだけにした。
山田は、歩きながら俺を横目で見る。
「結局、祠のところでその話になった」
祠。
やはり、裏山までは行っていなかった。
山田は立ち止まり、海への転落防止の柵へと手をかける。そして、尾道水道を眺めながら、言った。
「お母さんを、大事にしてくださいって……お父さんになるなら、お母さんを大事にしてくださいって、俺に頼むんだ」
「先生は……なんて?」
「……約束するよ……て答えた。とても、言えなかった……父に反対されていて、結婚できないなんて、とても言えなかったんだ」
彼はそこで、柵に手をかけたまま膝を折り、しゃがむ。
俺はその横に、立った。
「そうしたら、ヒカルは……ありがとうございますって……優しい……子なんだ」
「ええ……知っています」
山田はそこで、俺を見上げる。
彼は少し、目尻を濡らしていた。
「これで、いいか? もう……思い出したくないんだ」
「先生、どうして、職員室にいたと嘘をついたんですか?」
「知られたくなかったんだよ。生徒の母親と……そういう関係でいたってことを他の教員に……結婚したなら話は別だ。堂々とね……でも、あの時の私は、父に逆らって結婚するなんて考えもしなかった。いや、今もそうだ。教師を辞めて、秘書課にいるのも父の命令だから」
「でも、傷心のさつきさんに、別れ話を持ち出したのは先生ですよ。同情はしません」
「君に同情なんて、してもらおうとは思わないよ……それに、あれは彼女も悪い」
ん?
「さつきさんが、どう悪いんですか?」
「約束が違う、話が違うと、俺に掴みかかってきた。どうして、一人にさせた、どうして一緒に帰らなかったって、俺を罵倒して……疲れ果てた。警察には、してもいないことで疑われて、同僚たちからは白い目で見られて……彼女にまで責められて……疲れたんだ」
この人は、自分を守るために、ヒカルの母親を切り捨てたんだと感じた。
しかし、それを責めるのではなく、今の話のなかでひっかかる箇所を尋ねる。
「一緒に帰らなかった? というのは、そういう約束でもあったんですか?」
俺の問いに、立ち上がった山田が言う。
「ああ、さつきさんから頼まれてたんだ。絵で遅い時は、下校を見守ってほしいって」
夜の新開で、二人が目撃されたのは、つまりこれだったわけだ。
「それで、山田先生とヒカルが新開を歩いていたんですね?」
「それも知ってるのか……そう。彼女、怒っていてね……遅くにならんようにしてくださいってお願いしているのに、ヒカルが熱心で本人が望んでいるからって言われて……相手は担任だから強くも言えなかったみたいで」
相手は担任……。
遅くならないようにと、ヒカルのお母さんは金子先生にお願いをしていた。
しかし、金子先生は、ヒカル本人が望むことだからと、それを拒否していた。
ヒカルのお母さんは、金子先生は担任だからと遠慮して、それならと山田に下校時の見守りを頼んだ。
ヒカルを、夜遅くまで学校に残らせたのは、金子先生?
俺は、心臓がドクンと跳ねた感覚で、手で口を押さえた。
「私も一度、注意したんだ。生徒が望んだとしても、先生がそれを止めてあげないとダメでしょうと。そうしたら、金子先生は怒ってしまって……」
俺が応えられないでいると、山田は勝手に記憶をたどり、思い出したことを続ける。
「あれは参ったな……私にとっては先輩だから、そこで止めた。それまでは、金子先生が送っていたみたいだけど、さつきさんから言われていたから、俺が声をかけて、帰るようにしたんだ」
俺は、聞いてはいけないことを、聞く。
「ヒカルも、遅くまで教室で絵を描きたいって、先生に言いましたか?」
山田は、少し悩んでから、答えた。
「さぁ? でも、金子先生が帰らしてくれないっていう愚痴を聞いたことはあるな」
山田と別れた後、遊歩道を東方向へと戻りながら考える。
ヒカルは、同級生に山田との会話を聞かれたくなかった。それは、自分の母親と、学校の先生が結婚するということを、あまり知られたくなかったというものだ。さらにいえば、その父親になるかもしれない男性に、ヒカルは勇気を出して、母親のことをお願いしますと伝えていた。
これは、絶対に聞かれたくない。
仮に、大人であってもそうだろう。
ヒカルは、展望台でキノに複雑な内面を見せていたにも関わらず、自分のことじゃなくて、母親のために勇気を出した。
俺が知っているヒカルなら、自然なことだと感じる。
山田が嘘をついているとは、思えないほど、彼の話に出てきたヒカルは、ヒカルだった。
桟橋を通り過ぎて、海に面した駅前広場を歩く。
俺の思考は、そのヒカルを夜遅くまで居残らせた、金子先生へと向かっていた。
絵を、熱心に教えていたのは、金子先生。
山田が、下校時に一緒に帰る以前は、ヒカルを家まで送っていたのも、金子先生。
さつきさんが、警察に連絡を入れるのを止めたのも、金子先生。
保護者へ、さつきさんが警察への連絡を嫌がったと嘘を話したのも、金子先生。
……改めて、考えてみると、俺を転校させたのも、金子先生じゃないか?
待て……落ち着け。
俺は、何を考えている?
でも、あの事件の歪さの中心にいるのは、金子先生じゃないか?
どうして?
金子先生は、どうして?
……もし、金子先生がヒカルを手にかけたのなら、どうしてだ?
いつ? 手にかけた?
山田とヒカルが、別れた後だと考えるのが妥当だ。
あの時、焼却炉の場所で、俺が見たかもしれないと思った相手が、金子先生だったとしよう。
金子先生は、俺に見られたと思ってすぐに隠れた。見られてはいけなかった……二人の後をつけていたから……どうして?
今はまだわからない。
けれど、とにかく見られてはいけなかった。
最初の……警察の質問……俺は、質問に対して答えようと一生懸命に記憶をたどった。大人に、次々と質問されて、必死に記憶をたどっていたんだ。
金子先生が、それを止めた。
止めてくれたんじゃない。
止めたんだ。
俺が、余計なことを言う前に。
背筋が、ぞくりとする。
金子先生、俺があの席に参加するとなった時、最初は断ったが、かけなおしてきて、了承している。
ミノリ……なんて言われた?
スマートフォンを手に持ったが、止めた。
ダメだ。
彼女に聞いちゃダメだと感じた。
ミノリを、この嫌な気持ちで汚すのは避けようと思えたから。
思い出せ……ミノリは先生との電話で、何と答えていた?
それ以上のことは……だ。
あの時、ミノリはたしか……それ以上のことはと言った。
二人を俺が見たという話は出たか? それ以上、何かを話していたか? という質問を、金子先生がしたのではないか?
無理は……ないように感じる。
俺の中で、疑いはもう金子先生へ向かっていた。
あの人は、ヒカルが行方不明となってから、生徒たちをコントロールし、保護者にもそうした。カホのおじさんが言っていたこと……おそらく、中学受験を予定している家庭に対して、このままだと調査書に何を書かれるかわからない、とでも匂わせたのではないか?
親切を装って、脅したのだとしたら?
動機は……どうして、ヒカルを?
絵を熱心に教えていた相手……子供の母親が不安に思う時間まで、居残らせて絵を教えていた相手を、どうして?
そして、どこで?
山田先生とヒカルが別れた後……どこで?
俺はこの時、脳裏に祠を描いていた。
山田とヒカルは、おそらく一緒に校舎まで戻った……はずだ。山田はヒカルに、校舎に戻ろうと誘い、ヒカルも話は終わったのだから、応じた。
そうだ。
そしてヒカルは、俺たちが帰った後、教室に戻った。
そこでヒカルは、絵を描き始めた。
チヒロが教えてくれた、あの夜のように、絵を描いていたんだ。
そこに、金子先生が来る……。
山田とヒカルが、祠にいたことを金子先生は知っていた。
金子先生は、そのことをヒカルに話した?
何のために?
俺は、手に持ったままのスマートフォンを操作する。
呼び出し音の後、相手が出た。
「おお、お疲れ。どしたん?」
「キノ、悪い。誰にも言わないと約束して」
「……なに? どうしたん?」
「約束してくれ、頼む」
電話の向こうで、キノが黙った。
数秒が、とても長く感じられる。
彼は小さな呼吸音の後、言った。
「わかった」
「ありがとう……金子先生の家、教えてくれ」
俺は海を睨んだまま、言っていた。
そのまま、返事を待つ。
「わかった。ただし、条件がある」
なんだ?
「俺も行く。一緒に」
キノはそう言うと、黙る俺にさらに言った。
「お前が、そう言うってことは、ヒカルのことだとわかっとる。それを、皆に言わんと、俺に言うてきた……一人で行かせん」
「……わかった」
俺が答えると、キノは溜め息をついた。
「はぁ……ったく。どうせ、皆に黙って帰ってきとるんじゃろう? どこ?」
「尾道駅前」
「十五分で行く。待っとけ」




