ストックホルム症候群
美純はまず、
娘が屋敷の中に入るのを見計らい、
そして、
庭で吐き掃除をしている使用人へと、話しかけた。
「そこのあなた。
お金を払いますから、ちょいと屋敷の外に出てくれないかしら。
これだけあれば、半年は遊んで暮らせますわよ。」
「え…!?あんたみたいなボロガキが、なんでこんな大金…。
まさか、どこかからくすねてきた金じゃないだろね!?」
「受け取らないのね。じゃあ死になさい。」
美純は背中から短刀を取り出し、使用人に突き付けた。
「ひぃ…!受け取るから、受け取るからやめて!」
「わかっていると思うけど、警察に連絡なんかしたら命はありませんからね。
私のような粗末な子供が、これだけの大金と、そして刃物を持ってきた。
それがどれ程のものか分からないほど、馬鹿ではありませんわよね?」
「…わかったわよ。そのかわり、私に迷惑が掛かる事だけはしないでよ!」
「私の邪魔さえしなければ、約束します。」
『予定通り。』
農薬まみれの薔薇屋敷とは違って、簡素なつくりの屋敷。
使用人が家を守ってくれると、高を括っているのだろう、
重々しい木のドアは案の上、施錠されていなかった。
階段を上り二階へ上がると、
廊下に並んだ三つの部屋のうちどれかから、
ピアノの音が聞こえる。
『標的は真ん中だ。』
躊躇なく扉を開け、目の前にいる少女へと刀を向ける。
「な、なに?だ、だれ?」
明らかに狼狽えている。やりやすい。恐怖で怯えていれば、
却って悲鳴は上げづらいだろうから。
「こんにちは、お久しぶりね。私は北条美純。覚えているかしら?」
「あ、あなたが…?」
当然だろう。北条美純だとわからぬように、姿を変えたのだから。
「悲鳴を上げたり大声を上げるようでしたら、あなたの首を斬り落としますからね。
命がおしいのなら、すべて私の言う通りになさい。」
少女の眼球に向かって、刀を向ける。口をパクパクさせ、歯が震えている。
「私の目的はひとつだけ。
あなたのお父さまを警察に自主させること、たったそれだけですわ。
それが成功した暁には、全身無傷で解放してあげますよ。」
「パ、パパはそんな人じゃ…」
「どんな人かは関係ないのよ。
これ以上無駄口を叩くようなら、まずは人差し指から切断します。」
「ひぃ…!」
「騒ぐな。騒いだら殺す。」
「…」
「さて…。まず、あなたにやって欲しい事があるの。
あのお屋敷での事を覚えているかしら?
私とアナタと残りのお嬢様二人で、
宝石を強請る方法について楽しくお話したわよね?
あの二人の電話番号をご存じかしら?」
「…はい」
「そこに黒電話があるでしょう?早速二人に、この家に来るよう連絡なさい。
言っておくけど、助けを求めたりなんか」
「求めません、だからお願いです、たすけ―――」
まるでウインナーに切り込みを入れるように、少女の指に縦筋を開く。
サイズオーバーの指輪がころりと音を立てたのち、
傷から血が滲み出て滴り、床に小さな赤いシミをつくる。
呆気にとられる少女。血が滴るにつれギョッと傷を凝視し、ズキッとした指の痛みに気づく。
もはや痛み以上に恐怖が心を支配し、動くことさえままらなない。
「無駄口を叩くなと言ったわよね?
次騒いだら、指輪をはめられないようにするわよ?」
少女は、怪物でも見る様な目で美純を凝視し、コクリと頷いた。
震える手で黒電話の数字を弾き受話器を持ち、耳に当てる。
一人を遊びに誘っては、黒電話の数字を弾きまたもう一人。
少女は努めて明るい声をつくり、二人の従姉妹を自宅へと招いた。
「こ、これでいいですか…?」
「ええ、結構です…。ごめんなさいね、指を切ってしまって…。
だけど、あなた、よくやってくれましたわ。
ほら、キャンディを召し上がりになって。
ドイツの有名な、キャンディショップのものですよ。
怪我をさせてしまったお詫びに、受け取って頂けないかしら。」
「あ、ありがとう…」
少女は、ぎこちなく微笑んだ。
「本当に、ごめんなさいね。
だけどわたくしは、父を失ったことが、悲しくてたまらないのです。
そして、あなたのお父さまが、私の父を殺した事を知って…。
あなたのお父さまが、ゴディバのチョコレートに毒をいれて、私の父を…。
そう、あなたのお父様は、私の父を毒殺したのです!
私はその事が悲しくて悔しくて…気が気じゃなかったのです、
だから、こんな乱暴な事をしてしまったのです。
本当はね、
あなたのお父さまが、
自分の罪を認めて、
自首してくれたなら…
すべてを許す気でいたのです…本当よ…」
「…」
「だけどあなたのお父様は、罪を認める事はおろか、
私のお母さまを容疑者にしたてあげましたのよ!
私のお母さまは、そんなことをする人ではないのに、
私もお母さまも、お父様の事が、大好きだったのに…!
だというのにみんな、私やお母さまの事を犯人呼ばわりして、
家にゴミを捨てたり、花や木を踏みつけたり、石を投げたり…!
もう限界なの!だから…だから…、もう、こうする他ないの!
私だって、本当は乱暴なんかしたくない!
…これも全部、あなたのお父様が、私のお父さまを殺したせいよ!
私もあなたも、あなたのお父様のせいで、苦しんでいるのよ!」
美純は感傷的になり、その場で泣き崩れてみせた。
少女の眼差しが、恐怖から、同情へと変わる。
「私のパパは、殺人を犯したのね…。娘として、家族として…
絶対に、自首させますわ!…その、なんというか、わたくしがこんな事を言うのは、
思い上がりなのかもしれませんが…ごめんなさい…!
私の父のせいで、辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい!」
「いいえ、いいのよ…。あなたは何も、悪くないのだから…。
悪いのはあなたではなくて、あなたのお父さまなのだから…。
だけど、ありがとう…気を遣って頂いて。優しいのね、あなた。
怪我をさせてしまって、本当にごめんなさい…。」
少女の瞳にも涙が零れる。極限の状況下で頭がすっかり混乱し、
美純の境遇に、すっかり入れ込んでしまったらしい。
美純は、勝利を確信した。
「だから、あなたの協力が必要なのよ…!
あなたがいないと駄目なの!…協力してくれる?」
「…次は、何をすればよいの?」
「二人が来たら、このガムテープで腕と体を縛って欲しいの。
安心して。危害を加える気はないわ。もちろん、あなたにもね。」
「はい…!」




