89.初午(前)
二月最初の午の日は、お稲荷さんで初午の祭礼がある。
お稲荷さんには宇迦之御魂神という穀物の神様が祀られていて、転じて農業の神様ともされている。今では商売繁盛の神様ともされて村では多くのお宅で祀られていた。
村に稲荷神社はないものの、山の神を祀る神社の境内にお稲荷さんも祀られているからこの日はお参りに行く人が多い。露店は出ないけど関係者による祭祀が終わったあとはお菓子や甘酒が配られるとあって、学校終わりの子どもたちも集まってくる。
わたしと加加姫様は子どもたちで混んでしまう前にお参りに向かっていた。
屋敷を出てしばらくすると道の脇に石造りの大きな鳥居が現れる。脇にある石柱には田母山神社と彫られていた。
その鳥居をくぐって山の中腹へと続く長い石段を登れば、やがて両脇の雑木林が開けて拝殿や手水舎といった建物が見えてきた。
「あ……田母山様?」
最後の一段を登りきってひと息つくと、参道の真ん中あたりに小さな陽炎のようなものが現れた。
それは景色をわずかに歪ませながらこちらにゆっくり向かってくる。
「お久しぶりでございます、田母山様。わざわざお出迎えいただきありがとうございます」
「やぁ田母山殿。遊びにきたぞ」
わたしたちの前でぴたりと止まった陽炎に頭を下げると、ふ、と空気が柔らかく揺れた。
田母山様はこの神社のご神使で、姫様の古くからのお友達だ。
見える人いわく少年の姿をしているらしい。
「田母山様。本日は初午のお祭り、おめでとうございます。稲荷社へお参りさせていただいたあと、少し若先生にお会いしたいのですが」
「いいよーゆっくりしていきな」
聞こえてきたのは正面ではなく隣から。声はもちろん姫様のそれ。
わたしは田母山様の気配を感じることはできるけど、その姿を見たり声を聞いたりということはできない。そのためいつも姫様が通訳してくれるのだ。
「それでは田母山様、失礼いたします。姫様、またあとで」
ご神使の許可をもらったので、まずは手水舎で手と口の清めをしてから神社の拝殿に向かう。
左右が緩やかに反る切妻屋根の下、拝殿前に置かれたお賽銭箱へ硬貨を入れて、大きな鈴をガランガランとしっかり鳴らした。
二礼二拍手してから胸の内でご挨拶と日頃の感謝を伝え、最後に一礼してから後ろに下がる。
姫様と田母山様はすでに移動したあとらしく、振り返った景色にその姿はなかった。
建物の脇へと足を進めてなんとなしに大きな社殿を眺めながら歩く。
この田母山神社は泰治様の勧めによって創建された、山の神を祀る神社だ。
でもご祭神は姫様じゃない。祀られているのは大山津見神という別の山神様だった。
ご祭神の大山津見神――山の大殿様は神話に名を連ねる神様で、その格式や力は姫様も遠く及ばない、らしい。
そんな大殿様が姫様の庇護者になることで、彼女はこの先もずっとこの地にあり続けることができるのだそうだ。
姫様がこの先誰からも忘れられて力を失くしても、あるいは土着の神霊を我が物にしようとする人間が現れても、大殿様によって護られるのだという。
そんな山の大殿様は基本的に神社に不在。
実質的な鎮守は姫様に任せていて、その補佐としてこの地で大殿様の眷属となった神使の田母山様が神社に常駐している。
ふと不敬なことを考えそうになって、わたしは社殿から目を離した。
でも広がりかけたモヤモヤは収まりそうにない。
姫様は庇護を受ける代わりに自身の神気を大殿様に捧げている。
でもその庇護は本当に必要なものなのだろうかと、ついそう思ってしまった。
彼女は村の人たちからの信仰も篤く、その力はとても強大だ。この先忘れられることなんてないと思えるし、悪い人が来ても問題なく追い払えると思う。
前に姫様は自身が疲れやすい状態にあると教えてくれたけど、もし大殿様に捧げている神気を回復のほうに使えたら……。
カラカラカラ、と鈴の音がして意識が引き戻される。
気がつけば本殿脇の奥に鎮座している稲荷社が目の前に迫っていた。
そこがいつもより明るく見えるのは、鳥居からお社までの短い参道に奉納されたばかりの真っ赤な幟旗がずらりと並んでいるせいかもしれない。
まだ混む前とはいえ、その参道にはすでに数人が列を作っていた。
「あら、あかりちゃん。こんにちは」
「こんにちは。今日も冷えますね」
雑念を振り払ってわたしも列に並ぶと、前の人やお参りがすんだ人が声をかけてくれる。
それに挨拶を返しているとすぐに順番が回ってきた。
初午祭は午前中に斎行されていて、それに参列するのは神主さんのほか総代さんや幟旗を奉納した人、日ごろから参拝している人など。
お祭りが終わった今は神饌も下げられていて、ぱっと見は普段のお社とあまり変わらない。でも新しくつけられたしめ縄や両脇の火が灯った灯篭が今日が特別な日であることを物語っていた。
それにお社の気配も清らかで澄みきっている。
稲荷社も田母山神社のときと同じようにお参りして、無事に一番の用事がすんだ。
稲荷社の横に祀られている姫様の小さな祠にも、気持ちを込めてしっかり手を合わせてお参りをする。
姫様の神社は今も昔も村にはないけど、かわりに彼女を祀る祠がこの神社の境内や他の場所に点在していた。それに、ある意味屋敷が彼女の神社ともいえる。
「さてと。とりあえず……社務所かなぁ」
次は若先生――同級生を探さないといけない。
まずは社務所に行ってみようかと思っていると、運よく相手が遠くにある拝殿の角から姿を現した。
もしかしたら田母山様が知らせてくれたのかもしれない。
「和ちゃん!」
声をあげると、白衣に浅葱色の袴をつけた同級生が手をあげて応えてくれる。
やって来たのはそばかす顔の青年。小学校中学校で同じクラスになることも多かった同級生だ。
「よう山上、じゃねえやこんにちは山上さん」
呼ばれたのは屋敷の屋号のほうだった。
わたしの名字は倉橋だけど、村には倉橋姓が多い。だから同級生からは下の名前であるあかりか、屋号の山上と呼ばれていた。
一方の彼は同級生から下の名前である和嗣から和ちゃん、あるいは名字の久保と呼ばれている。今は家業の神主さんになったこともあって若先生と呼ばれることも多かった。
この場では若先生と呼ぶほうがいいのに、うっかり和ちゃんと呼んでしまって少し反省する。
「若先生。本日は初午のお祭り、おめでとうございます」
「ありがとうございます。本日はようこそお参りくださいました。……山上、今日はひとりか? お山様と九摩留狐は?」
「姫様は田母山様のところにいるよ。九摩留は屋敷でお留守番なの」
同級生だし昔から家同士の親交もあったので、挨拶がすむとお互い早々に普段の話し方になってしまう。
この村ではお山様や山神様というと姫様のことをさす。姫様の血縁であれば彼女をお山様ではなく通り名である加加姫様と呼ぶことが多かった。
田母山さんというと田母山神社――ひいては大山津見神をさす。
でもわたしや姫様、神主さんたちが田母山様というときはご神使を、大殿様というときは大山津見神を意味した。
「ふーん。なぁ、九摩留狐って大人の姿になったんだろ? 俺まだ見たことないんだよな。どんな感じなんだ?」
「見た目は三十歳くらいかなぁ。和ちゃんより背が高くなって、それにちょっとムキムキしてるかな。狐なんだからあの子こそ初午祭に出たほうがいいのにね」
稲荷社に行こうと誘ってみたものの、彼には案の定行かないと言われてしまった。
というのも九摩留は田母山様が苦手なのだ。
田母山様はかつては山に暮らす野犬だったそうで、大殿様がこの地に勧請された際、才を見出されて眷属となり、修行ののちに神使になったという。
そのせいか種族は違えど境遇が似ている九摩留が気にかかるのかもしれない。九摩留いわく顔を合わせれば終わりの見えないお説教がはじまるという。
なので九摩留が田母山神社に行くことはまずない。
たまに田母山様が屋敷に遊びに来ても、気配を感じた時点でいなくなってしまうくらいだった。
「九摩留ってお山様の眷属だろ? 他の神様の祭りに出ていいものなのか?」
「うーん。姫様も参拝するように言ってたし、多分大丈夫なんじゃないのかな。ほら、姫様の本性って蛇だし、豊穣の神様だし。お稲荷さんの御神と仲がいいのかも」
「蛇だと仲がいい? なんで?」
「なんでって……」
稲荷社に祀られているのは宇迦之御魂神。穀物や農業の神様だ。
その神様は、どうやら蛇と縁があるらしい。
宇迦之御魂神を主祭神として祀るお稲荷さんの総本山、伏見稲荷大社では狐の他にとぐろを巻く蛇を描いたお絵札が配られているというし、宇迦之御魂神と同一視される宇賀神という神様は人頭蛇体だという。
それに宇迦之御魂神は姫様の庇護者である大殿様の子孫だ。
山や田の神であり豊穣神でもある姫様と役割が似ているし、女性のようだし、あれこれ接点があるから仲はきっといい……はず。
和ちゃんにその辺のことを説明すると、彼はへぇーと他人事のように言った。
「さっすが世話役様、詳しいじゃん。全然知らなかったわ」
「もー。若先生はもう少し勉強したほうがいいんじゃない? 先生なんだから」
「俺が勉強嫌いってこと、山上も知ってるだろ? 毎日親父とじい様にしごかれて大変なんだよ。昨日のオビシャだって帰ってから説教されるし。今日も午前中はあちこちで初午祭してきたんだけどさ……また今夜も怒られるんだろうなー」
「ふふ、大変だねぇ。でももう一人前になったんだから頑張らないと」
村には他にも十数社の神社があるけど、神主さんが常駐している神社は田母山神社だけ。なので和ちゃんたちは他の神社の神主さんも兼務している。
すべての神社の管理に祭礼祈祷、そして個人宅からも初午祭のような宅神祭、地鎮祭やお祓いなど様々な依頼があるというから大変だ。
早く即戦力になってくれないといろいろ困るのだろう。
和ちゃんは中学を卒業してからずっと見習いという立場だったけど、成人して結婚して資格も取って、ついに去年から一人前と認められたのだった。でも彼のおじい様やお父さんは不安なのか、抜き打ちチェックが入るらしい。
思わず苦笑すると、和ちゃんは急にまわりをきょろきょ見渡した。
「つーかさ、お前大丈夫なの?」
「なにが?」
「そんな野郎と一緒に生活してて大丈夫かってことだよ。ほら……先生とかうるさいんじゃないの?」
「先生? どの先生?」
先生と呼ばれる人は村に何人もいる。
和ちゃんは若先生だし、彼のお父さんは大先生で、おじい様は老先生。
倉橋医院には院長先生がいるし、泰明さんもみんなから先生と呼ばれている。
小学校中学校にはそれこそ大勢の先生がいた。
「いや、まぁ……大丈夫なら別にいいんだ。なんでもない」
なんともいえない顔をする和ちゃんに、わたしははてと首をかしげた。




