88.オビシャの直会と雀たち
二月の第二日曜日はオビシャの日。
この日は村をいくつかの地区に分けて、地区内の神社で厄除けや豊作を祈願する的射の神事が行われる。
射手は七歳の男の子たちで、的は和紙に墨で大きく『虫』と書いたもの。篠竹を曲げて輪にしたところに和紙を貼って、遠くから的めがけて矢を放つのだ。
オビシャという名前の由来は日射とも歩射ともいわれるけど、実際のところはよくわかっていない。
祭りを執り行うのは神主さんだけど、この村で神主さんが常駐しているのは山の神を祀る田母山神社だけだった。
神主さん数人で手分けして祭典が行われることもあって、開始の時間は地区により午前か午後に分かれている。
神事に参加しているのは子どもたちと男性陣。
では女性陣はどこにいるかというと――。
「ちょっとこれ焦げてるじゃない! なんで誰も見てないのよ!」
「鍋吹いてる! 誰かその蓋取って!」
「大鉢足りない! 誰でもいいから家から持ってきてよ!」
土間に並んだ七輪三つを使ってお煮しめを作っていると、あちこちで大きな声があがった。
屋敷がある地区で今年当番になっているのは小暮さんのお宅。その台所は朝からちょっとした戦場になっていた。
地区内の若い主婦たちがせわしなく立ち回り、食材を切ったり料理をしたり、あるいは席の支度でバタバタしている。
的射の神事が終わったら、その後は二十戸程度の組に分かれて当番となったお宅で盛大な直会を行うことになっていた。
直会はお祭りのあとの宴会で、お供えした野菜や魚、果物などをみんなで食べて神様の力をいただこうというもの。お祭りという非日常から日常に直る、という意味もあるらしい。
間もなくこの直会がはじまるとあって準備も終盤に差しかかっていた。
直会に参加するのは当主だけ。とはいえ総勢二十名。
よく食べよく飲む男性が揃っているので料理もお酒も大量消費となる。
そのため小暮さん宅の文化竈や囲炉裏、七輪はもちろん食器類も数が足りずで、みんな自宅から必要なものを持ちよっていた。
土間沿いに伸びる広間には魚のすり身揚げや酢ダコにコハダ、野菜の天ぷら、みそ田楽、おでんなどがどんどん並んでいく。
「お煮しめできました! お願いします!」
「ありがとうね、あかりちゃん!」
わたしも担当していたお煮しめができあがり、板間の鍋敷きにドンと載せる。
それを席を作る担当の人がお皿に盛っては運んでいく。
料理はこれですべてではなく、冠婚葬祭や集まりの場には欠かせない太巻き寿司と撤下神饌――お供えしたもののお下がりを投入したお鍋が直会の途中で加わる。
となれば今度はその準備があるわけで、さらに同時進行で恐ろしい早さでなくなっていく燗酒作りもある。食器類だって限りがあるから、汚れたものは適度に下げて洗ってまた出して……という仕事が続く。
そうこうしているうちに、なにやら庭のほうからにぎやかな気配が伝わってきた。
「こんにちはー」
「お邪魔しまーす」
間を置かずして襖を隔てた広間の向こうから声が聞こえてくる。
男性陣を出迎える小暮さんの奥さんや娘さんたちの歓迎する声も紛れるように聞こえてきた。
「来たわね」
「今年もどうにか予定通りね」
近くの声につられて柱時計を見ると、針は正午の少し前を指していた。
この地区のオビシャは午前に開始する。直会の開始予定は正午だから神事のほうも無事に滞りなく運んだのだろう。
小暮さんのお家は台所やお勝手も兼ねている広間のほかに座敷と奥部屋の三部屋がある。
座敷と奥部屋を仕切る襖を外せば広間と同じ大きなひと部屋になるから、そちらが直会の会場になっていた。男性陣は土間続きの玄関を通らずに庭から直接座敷にあがることになっている。
準備に殺気立っている女性陣と顔を合わさなくてすむのが合理的だ。
全員が席についたのか、少しして襖の向こうから乾杯の音頭が聞こえた。
と同時にこちらの作業もいったんひと区切りつく。
「みんなお疲れさま! はいこれ、食べられる人から食べちゃって」
台所のそばで撤饌の野菜を切っていると、おにぎりの入った桶が運ばれてきた。
女性陣は直会の準備をするだけで参加はしない。よってお昼ご飯は酒肴なんかじゃなくて、手軽にぱっと食べられるおにぎりとお漬物だけ。熱々の番茶がお吸い物がわりになる。
手の空いた人から板間の縁に腰掛けておにぎりを食べだすと、誰ともなく恨みがましい声があがった。
「このおにぎりもおいしいけどさぁ。がんばって作ったご馳走を一口も食べられないってのも悔しいわよね」
「男どもは飲めや歌えやのお殿様やるだけでよくって、女は飯炊きに給仕に後片付けだもん。雑役ばーっかり」
「世の中まだまだ不公平よねぇ」
毎年恒例の会話に苦笑する。
昔はそれが当たり前だったから文句を言うなんてもってのほか、だったらしい。
でもここにいるのはいわゆるお嫁さん――シャモジ渡しがまだの若い女性たちだ。お姑さんたちは家で他の家族の面倒を見ている。
準備は大変でも同年代だけで集まれる機会があまりないぶん、ガス抜きにちょうどいいのかもしれない。
「いくら民主化だ婦人解放だーって言ったって、どうせ都市部の人たちの話だもの。この辺はこの先もずっと封建的なのよ、きっと」
「あーやだやだ。それで男のほうが大変なんだ偉いんだってふんぞり返ってるんだから嫌になるわ」
「こっちだって毎日野良仕事して、男どもが煙草や昼寝してる間も子どもあやしながら台所仕事してさ」
「針仕事だって山ほどあるから夜なべもしなきゃいけないし。あたしたちのほうが大変だってのよ」
ねー、と賛同する声があちこちからあがる。
わたしは野良仕事や子育てがないこともあってちょっとだけ肩身が狭い。未婚で参加しているのは一人だけ、そしてこの中では最年少ということもあってなるべく気配を消しておくことにした。
「オビシャだってそうよ。あたしも的射したかったのに、あれって男子しかできないし」
「あ、わかる。私も弓矢使ってみたかったなー。なんならチャンバラだってしたかったし」
「あんたたち男勝りねぇ。私はああいうの全然興味なかったけど?」
「ま、人それぞれよね」
きゃらきゃらと笑いあって、そこからはいろんな噂話に花が咲く。
なんとなしに耳を傾けながら包丁の手を動かしていると、ふっと影が差した。
「ほら、あかりちゃんも食べてきなさい。あとはこっちで切っとくから」
「そうそう。しっかり食べて次に備えるわよ」
声に顔をあげると、屋敷のご近所さんがそばに立っていた。
二人とももう食事がすんだらしい。
「すみません、ありがとうございます。ではちょっといただいてきますね」
お礼を言ってからおにぎりの桶に近寄り、とりあえずひとつを手にする。
板間の端のほうに行こうとするとすかさず服を掴まれた。なんだか嫌な予感がする。
「あかりちゃーん。ここに座ってお食べなさいな」
「あ、ありがとうございます」
一人がとってもいい笑顔で板間の縁をぽんぽんと叩く。その一人分の空間を囲むように、縁にも土間にも女性陣が集結していた。
顔はみんな笑顔だけど目がギラギラしていて少し怖い。
「ねぇ、こないだデパート行ってきたんですって? 噂の色男くんと」
「噂の色男くん、ですか?」
最近一緒にデパートに行った人物といえば一人しかいない。九摩留だ。
噂になっているうえに色男とは、と遠い目をしたくなる。いや、まぁ、確かに格好いいとは思うけども。
「そうそう、なんでもずいぶん色っぽい男なんですってね」
「私、ちょっと前にその色男見たわよ? レモンでコーヒーいただいてたら奥から急に出てきてびっくりしちゃった。葉月ちゃんと喋ってすぐまた奥に引っ込んじゃったけど、あれは確かに色男だったわぁ」
「えーずるーい。私も見たーい。ねぇねぇ、どんな感じだった?」
「えっとー。先生と同じくらい背が高くって、ちょっと強面だけど雄々しくって……見るからに精力的な感じ」
んまあああぁぁぁ! となぜか嬉しそうな歓声があがる。
純喫茶レモンで働く弟は、いつの間にか注目の的になっていたらしい。
わたしはおにぎりを一口いただいた。ほんのり塩味でおいしい。
心を無にしてさらにもう一口かじる。
「やだあかりちゃんたらもー隅に置けないわね。夜になったら浮気の虫が騒いじゃうんじゃないの?」
「せっかく結ばれたっていうのに先生も気が気じゃないわね。早く一緒に暮らせるようになるといいけど」
「え、待って。結ばれたってなに? あたしその話知らない」
「だからね、先生と――」
「バカッ、二人はみんなに内緒のつもりなんでしょ? そこは知らんぷりしてあげなきゃ」
「あ。そうだったわね」
「ごめんねーあかりちゃん」
「もー! だからそういうことは言わないの」
こちらが口を挟む隙もなく話は怒涛の勢いで進んでいく。
先生とはどの先生のことだろう。それになんとなく話にひっかかりを感じる。
……でもうかつになにか言うよりは曖昧に笑っておくのが正解、のはず。多分こちらの返答も期待されてないだろうし。
と思ったところで横から強い視線を感じた。
「で、あかりちゃんはどっち派?」
「と言いますと?」
「泰明先生と狐の九摩留くんのことよ。どっちが好みなの?」
四口目のおにぎりは、幸いにも飲み込んだ直後だった。
でなければ確実に粗相していたと思う。
「…………はい?」
「馬鹿ねぇアンタ。好みもなにも、あかりちゃんは先生一択に決まってるでしょ」
「でもあんな色気ある男と一緒に暮らしてたらわかんないわよー?」
「やだ、先生だって色気の塊じゃない。雅やかな美貌に翳りのある切れ長の目、あの静かな微笑……まさにこの世の神秘よ」
「院長先生と並ぶとまたいいのよねー。二人ともピシッとネクタイ締めて白衣着てさぁ、なにかの相談事してる姿とか、もうほんとに絵になるわ」
この場にいるほとんどの女性がほうっとため息をつく。
残りの数人は不満そうな声をあげた。
「気持ちはわかるけどさー。狐くんだってムキムキで精悍で格好いいのに」
「お人形さんみたいな男よりワイルドな男のほうが本能にぐっと訴えて――」
「こない。貴公子みたいな美男子こそ至上なのよ」
「私は先生があかりちゃんと一緒にいるときの感じが好きかな。いつもちょっとしか笑わないのに、あかりちゃんが一緒だと人が変わったみたいに表情豊かになるし。そこがすごく可愛いのよね」
「あーわかるわーそれ。普段が普段だけにもうその落差にやられちゃうわよね」
わたしの名前が出てきて変な汗が出る。
それは気のせいでは? と言いたいけど口にご飯が詰まっていて喋れない。
「ふん、わかってないわねみんな。狐の彼を見てないから先生派なんでしょうけど、あの外国人みたいな彫りの深い顔立ちに官能的な雰囲気……あれこそ日本でそうそうお目にかかれるもんじゃないわよ」
「なによ先生だってそうよ。どんなに美形な役者もモデルも先生の前では恥ずかしくなって顔伏せちゃうわよ」
「でも――」
「そこの雀たち! ピーチクパーチクくっちゃべってないで手を動かす! お酒が足りないわよ!」
貫禄のある声に全員がビクッと振り返る。
直会でお酌をしていた小暮家のお姑さんとお嫁さんが大量の徳利をお盆に載せて立っていた。
準備を取り仕切るお姑さんにみんなの顔が引き締まる。手にしていたおにぎりを一気に平らげると、めいめいが動きだした。
わたしもおにぎりを完食して、流し台のそばに積まれていた鍋などの調理器具を洗いはじめる。
先ほどよりは忙しくないせいか、うしろでは引き続きお喋りの輪があちこちでできていた。最初こそ泰明さんや九摩留の話題であるものの、すぐに興味はあちこち飛んで全然違う話題がいくつも咲いては混ざって分裂してを繰り返している。
鍋底の煤をひたすらこそいでいると気持ちがだんだん落ち着いていく。
さっきまでは胸が妙にざわざわしていたけど――やっとそれが静かになってくれた。
二人とも人気なんだなぁ、となにを思うでもなくぼんやり手を動かしていると、ご近所さんの一人が空いたお皿を重ねて持ってきた。
「あかりちゃん、これもお願いね」
「はい。すぐに片づけますね」
汚れ物を受け取ると彼女は流し台にとどまり、洗い終わった食器を拭きだした。
ふいにキョロキョロしたと思うと肩を寄せて辺りをはばかるように声をひそめる。
「さっきの話だけど……あかりちゃんはあの二人のこと、どうなの?」
「そうですねぇ……泰明さんとは良い親戚付き合いをさせていただいてますし、九摩留もとってもいい子で自慢の弟だと思っています」
「んもーしらばっくれちゃって。蛇派? 狐派?」
「わたしは蛇も狐もどっちも大好きですよ。……あ、でもやっぱり蛇かもしれません」
大好きな姫様の顔が思い浮かんで訂正すると、彼女はにっこり笑った。
「そっかそっか、やっぱり蛇かぁ。これで村も平和だわね~」
そう言うと彼女は拭いたお皿を重ねて直会会場へ運んでいった。
平和をもたらしてくれる蛇様もとい姫様はきっと今頃、あちこちのオビシャを見てまわっているはず。
わたしにできるのは直会の手伝いくらいだけど、それも大事なオビシャのひとつと思えば大量の洗い物もなんのそのだった。
男性陣のご機嫌な笑い声を聞きながら、女性陣の声高な恨み言を聞きながら。わたしは洗ったお皿を脇へ並べていった。




