87.事八日と針供養(後)
ぽかぽかした縁側で仰向けになって、一瞬頭が空っぽになった。
昼寝をしようとした数時間前と同じ体勢だけど、違うのは――わたしの両脇に手をついて見下ろしている泰明さんがいるということ。
明るい縁側でこちらを見下ろす彼は口元に小さく笑みを浮かべている。
目はどこか据わっていて、なにを考えているのか読み取れない。
「どっ、ドキドキしますねコレ! ドキドキしますよ!! ねぇ泰明さん、ちゃんとドキドキしましたよ!!!」
今しているのは加加姫様をドキドキさせる、その練習。
つまりわたしがドキドキすれば練習は終わりになる。終わりじゃなきゃいけない。
それなのに泰明さんはくすくす笑ってまた頬をなでてくる。
「んー。姫様は経験豊富だから、これくらいでドキドキしないんじゃないかな。もう少しいろいろ練習させて?」
「でもほら人がっ、誰かが来るかもしれませんよ? 今日はもうこの辺で――」
「誰も来ないよ」
冷ややかな声に、反射的に身体がすくむ。
と同時にバチッと音がして頬に触れる手が引っ込んだ。また静電気が起きたのかもしれない。
「ほら、今日は事八日だから。みんな家でゆっくりしてるんじゃないかな。山道を上がってくる人がいてもすぐにわかるから、あかりは気にしなくていいよ」
「ど……どうやってわかるんですか、そんなこと」
「それは内緒ー」
泰明さんが楽しそうに笑って、空気が少し軽くなる。
体勢はものすごく落ち着かないけど、ざわついていた胸がちょっと静かになった。
でも青年は相変わらずどいてくれない。
「今度一緒にセーターを買う時さ、ついでに口紅も買おっか。あかりに一番似合うやつ、選んでもらおうね」
「そ、そういうわけには……」
「駄目? でもこの前つけてた口紅は姉さんからもらったんでしょ?」
「あれは成人のお祝いでいただいたものですから」
「じゃあ僕もそれで」
「泰明さんも前にお祝いをくださったじゃないですか。もういただくわけにはいかないです」
状況を忘れて思わず呆れた声が出てしまった。
彼からは成人のお祝いとしてたくさんの花の刺繍が入った美しいショール、そして何度かお断りをしていた高価そうなペンダントまでいただいている。
泰明さんがあっと声をあげた。
「そういえば聞いた話なんだけど……たくさんキスすると唇が腫れぼったくなって、赤く熟れたような色になるんだって。それなら口紅もいらないよね。どんな赤になるか見てみたいなぁ。真紅、臙脂、柘榴、紅鶸、珊瑚……」
赤色の名前を並べながら、泰明さんがわたしの唇にまた触れる。
こちらも思わず彼の唇を見てしまい、薄く色づいたそれが鮮やかな色になるのを想像して――美しい青年の倒錯的な姿に頭が爆発するかと思った。
ダメだ。このままだと自分がもたない。
「ねぇ、練習しても――」
「ダメですよ!? それはさすがにダメですよ!!」
「えー……。本当に駄目? どうしても駄目?」
いけない。
そのうるっとした目は、甘えた声はとてもいけない。
早く話を変えないとなんだかよくわからないうちに許可してしまいそうで怖い。
「や、泰明さん。大学の先生ってすごく立派なんでしょうねぇ~」
「どうだろう。変な人が多いよ? 子どもっぽい人もいるし。それより――」
「わぁー気になるっ。先生の話、ぜひ聞かせてください! ぜひ!!!」
こちらの魂の叫びが届いたのか、青年は困ったように笑った。
ふーっと細く息を吐きだすとようやくわたしの上からどいてくれる。そのまま隣に寝転がると、肘枕をしてこちらを向いた。
相変わらずドキドキする状況ではあるけど、先ほどよりだいぶ刺激が弱いせいか抵抗感はなかった。
わたしも横向きになって並んで寝そべる。
「僕が大学に入学したときは終戦してまだ数年だったから、食料が少なくてね。だから敷地のあちこちで講座……専門分野ごとの組で畑を作ってたんだ。そんなある日、ある教授が仲の悪い教授が作った収穫間際のナスを根こそぎ奪ったことがあったよ」
「ど、泥棒じゃないですか」
丹精込めて汗水流して育てた農作物の泥棒。おまけに戦後間もなくときたら、その罪は極めて重い。
大学の偉い先生がそんなことをするなんてにわかには信じがたい。
「それがねぇ。ナスをとった教授は、これは窃盗じゃなくて利子をもらったまでだって主張したんだよね。貸してる器械器具をいつまでも返さないから、その利子だって。これが利子じゃないならそっちが先にうちのものを盗んだことになるって言いだして、最後は乱闘になっちゃった」
「それ、子どもの理屈じゃないですか。というか子どもの喧嘩……」
「ねぇ。先生のなかでも特に偉い先生がそんなことしてるんだから、おかしいよね」
青年は楽しそうに笑うけど、あまり笑いごとではないような気もする。
ふと、横になる泰明さんの髪が乱れて少し目にかかっているのが気になった。
近すぎる距離よりそちらのほうが気になってしまう。
「食べ物といえば、ある教授はどうしても人の身体で試験したいって駄々こねてさ。それで当時すごく貴重だったメンチボールを自腹で数人分出前して、そのうちのひと皿にある菌をかけてジャンケンで食べることになって」
「それってかなり問題があるのでは?」
メンチボールはハンバーグステーキとよく似ているけど、形をボールのように丸く成形した洋食だ。
今はハンバーグステーキのほうが人気だけど、戦前はメンチボールのほうが人気だったらしい。
それを人体実験の道具にするなんて、作り手がわたしだったら泣く。それに、さすがに相手が偉い先生でも怒るかもしれない。
駄々をこねてというのもまた子どもっぽい。
「そう、あかりの言う通り問題だらけ。だからこっそりやろうとしたみたいだけど、メンチボールのいい匂いにつられて他の講座の奴まで殺到しちゃって。確率は五分の一だったし当たらなきゃすごくおいしい思いができるからって……。まぁ全部話を聞いたうえで本人も了承しているなら、ね」
泰明さんの手が伸びて、わたしの顔に落ちていた髪をうしろに流す。そのまま指の背で顔の輪郭をなぞられて少しだけくすぐったい。
一瞬ためらったけど、わたしも気になっていた彼の目元の髪をそっとどかす。
泰明さんが嬉しそうな笑みを浮かべた。
「おいしい思いって言っても、苦しい思いだってするかもしれないんですよね? 当たったときのことは誰も考えないんですか?」
「地獄を見るってわかっててもメンチボールの誘惑には勝てないんだねぇ。ほら、あの頃はみんな肉に飢えていたし。一応死ぬほどじゃないってわかってるし薬も用意されてるし、もちろん終わったあとに剖検なんてされないし。医師もそこらじゅうにごろごろいるから、下手な食堂より安心して食べられるぞーってなってたよ」
「えー……」
ちょっと、いやだいぶ理解できない。そんな博打に手を出すなんてどうかしている。先生が先生なら生徒も生徒だ。
泰明さんの指が頬を離れてわたしの手を取る。
少し手荒れの落ち着いた手の甲や指を眺めながらゆるやかに口角を上げた。
「あかりに身近な話だと……田植えして間もない田んぼを踏み荒らした先生もいたっけ」
「どういう神経してるんですかその不届き者は」
「あ、やっぱり怒るんだ」
「当たり前じゃないですか! なんでそんなことするんですか?」
屋敷がお米を作ることはないけど、その手伝いや関連する儀礼には参加している。
加加姫様は田の神様でもあるし、他人事ではなかった。
「実習でウシガエルとかの大きなカエルを使うことがあるんだけど、それを自分たちで確保しなきゃいけないときがあったんだよね。で、先生と一部の学生たちで捕まえに行ったらしいんだけど……なかなかいい大きさのやつが見つからなかったから、先生がどんどん田んぼの中に入っちゃったらしくて。それで根を下ろす前の苗がぐちゃぐちゃになって、大学からものすごく怒られたみたい」
「怒られただけですんでよかったですね」
その先生は身内に米農家の人がいなかったのかもしれない。いたら絶対そんな愚行はしなかったはず。
稲の生育が失敗すれば死活問題だ。
その田んぼの持ち主が虫や鳥、猪じゃなくて同じ人間が荒らしたのだと知ったら――鎌や雁爪で襲ってきてもおかしくはない。
「その田んぼは大学の試験場だったからまだなんとか許してもらえたんだろうね。もしこれが農家さんの田んぼだったらと思うと……先生は血濡れの案山子にされていたかもしれない」
「妥当だと思います」
「あははっ、厳しいなぁ」
楽しそうな笑い声に、わたしも思わず笑ってしまう。
横に寝そべる青年は繋いだ手に目を向けながらほほえんだ。
「ね、変な人や子どもっぽい人が多いでしょ?」
「そうですね……大学の先生に思い描いたものがガラガラと崩れた気がします」
わたしは中学までしか学校に行っていないけど、教育熱心で真面目な先生が多かった。
先生同士で幼稚な喧嘩をしているのは見たことがないし、生徒を恐ろしい実験台にする先生も、神聖な田んぼを荒らす先生もいなかった。
「もちろんどの先生も講義や実習のときはちゃんとしてるし、すごく人格者な先生もいるけど……やっぱりどこかずれてる人が多いかな。勉強のしすぎはよくないね」
「ふふ、でもちょっと人間味があっていいですね。勝手に仙人みたいな……聖人君子みたいな印象があったので。ちゃんと同じ人間なんだなぁって、なんだかほっとしました」
「俗世にまみれた部分もちゃんとあるよ。派閥とか権力闘争とか、結構どろどろだよー」
「そうなんですか? もっと聞きたいです」
映画や小説のような大人な世界に胸が躍る。
いやもちろん、自分も大人ではあるけれど。
「落ち着いた?」
「え? なにがですか?」
「ううん。なんでもない」
青年がふにゃっと幼く笑い、それからあくびをかみ殺すような顔をした。
「この縁側ってすごく暖かいですよね。姫様もいつも奥座敷じゃなくてここで寝そべってるんですよ」
「確かにここにいると……眠気に勝てそうにないかも」
「このまま寝てもいいですよ?」
「でも寝るの、もったいない……あかりの話も聞きたい……」
言いながらも、泰明さんの目蓋が少し下がる。
たくさん昼寝をしたわたしですらちょっと眠くなってきているのだから、彼はもっと眠いのかもしれない。
なにか目が覚めるような話はなかったかな。
「あ。泰明さんは鱈を捌いたことはありますか?」
「ううん、やったことない」
「じゃあ、あとで一緒に捌いてみますか? オスの鱈があるんですけど、お腹からドロロッて出てくる白子とか、いろんな色のでっかい内臓とか……初めて見るとびっくりすると思いますよー」
鯵や鰯と違って鱈はすごく大きい。なのでその中身も当然大きい。苦手な人なら悲鳴をあげるかもしれない。
ふっふっふ、と笑うと青年はうっすら笑みを浮かべた。
「鱈はないけど人間なら経験があります」
「……そうでした。お医者様ですもんね」
「じゃあ今夜は白子ポン酢が出るのかな? 楽しみだなぁ」
「実はカワハギもあるんですよ。それは肝和えにする予定です」
「すっごく楽しみー」
くつろいだようにゆっくり喋る泰明さんの目がとろりとしてくる。
「はぁ……なんだかしみじみ幸せだなぁ。ポカポカしてて、あかりと寝転んで、お喋りして……」
「わたしじゃなくて姫様だったら、もっと最高でしたね」
「もう。あかりだからいいんだよ」
呆れた声とともに、こちらの手を握る力が強くなる。
どうやら気を遣わせてしまったらしい。
「ね……さっきはドキドキしてくれた?」
ささやくような声に、コクコクと何度もうなずく。
目と鼻の先にある端正な顔に甘やかな笑みが咲いた。
「よかった。また練習させてくれる?」
ぐっと返答に詰まる。
「駄目?」
「それはあのー、そのー」
「駄目?」
「えーと、なんというか、うー」
「駄目?」
「…………じゃあ、誰もいないとき……ちょっとだけですよ」
「その言葉、忘れないでね」
言葉の途中で青年の長いまつ毛が黒い瞳を完全に覆ってしまった。
すぐに安らかな寝息が聞こえてきて、くすっと笑う。
初めて見る彼の寝顔は少年のようにあどけなかった。
艶やかな黒髪が日差しを受けてキラキラとまぶしい。人形のように整った顔も柔らかな光に照らされて、白い肌がほのかにクリーム色になっていた。
優しい色味に触れてみたい。
でも理性を総動員してそれをこらえる。
見つめているうちにわたしもあくびが出てきて、少しの間だけと思いつつ、目蓋を閉じた。




