86.事八日と針供養(中)
針供養も無事に終えて、ふたたびぽかぽかの縁側に二人で戻る。
先ほどと同じように横並びで座って、さて夕餉の支度までなにをしようというところで、泰明さんが畳んで置いていたコートからなにかを取り出した。
「あかり。ちょっと遅くなったけど、はいこれ。いつも美味しいごはんを食べさせてくれてありがとう」
「わ、すごいですね! これも手作りですか?」
渡されたのは、神社やお寺の几帳につけるような美しい房飾りだった。
淡い黄色の組紐で作られた飾り結びの下に青いトンボ玉と房が連なっていてとても素敵だ。小ぶりで懐中時計にもぴったりの大きさだった。
「気に入ってくれた?」
「はい、とっても! さっそくつけてみていいですか?」
「うん。ぜひ」
断りを入れて中座し、自室の納戸から懐中時計と九摩留からもらった狐の根付、ついでに今日読もうと思っていた本も数冊持ってくる。
泰明さんがこちらの手元を見つめるなか、懐中時計の竜頭を囲む輪っかから鎖を外して二つの根付を取りつけた。
お母さんの形見の懐中時計に綺麗な飾り結びと可愛い木彫りの狐がついて、なんだかすごく豪華なものができてしまった。
「実は僕も自分用に同じものを作ったんだ。それは往診鞄につけようと思ってて。黒革に映えて目立つだろうし、きっといい目印になると思うんだよね」
「いいですね。患者さんとの会話の種にもなりそうですし」
「そうだね。本当に」
泰明さんはどこか謎めいた笑みを浮かべる。
「あかりは普段、時計は持ち歩かないんだよね」
「ええ。村の外に出るときは持っていきますけど」
「せっかくだし、時々持ってくれたら嬉しいな」
「……そうですね。そうしてみます」
確かにこれは持ち歩いて、みんなに見てほしくなってしまう。
そしてちょっとだけ自慢したくなる。
「どうもありがとうございます。大事にしますね」
お礼を言うと、青年はとても嬉しそうに笑う。
顔にじわじわと熱が昇ってきて、わたしは慌てて視線をそらした。
「そういえば持ってこられた本! それはどんな本ですか?」
話題を変えると、青年は風呂敷包みを二人の間に置く。そうして出てきたのは、わたしが今まさに読んでいる子ども向けの探偵小説――『我ら少年探偵組!』の最新刊だった。
「こ、これは……っ」
「この前本屋に行ったらたまたま目に入ってね。昔こういうの読んでたなぁって懐かしくなっちゃって、久しぶりに買ってみたんだ」
「わたしも! わたしも今まさに読んでます、これを!」
「え、本当? すごい奇遇だね。僕たち本の趣味もあうみたい」
破顔する泰明さんにつられてわたしも笑みがこぼれる。するとなぜか彼の顔が紅潮した。
そのまま無言でこちらをじーっと見てくる。
なんだかよくわからない圧を感じて少しだけ焦る。
「い、いいですよね、探偵組。洗練された美しい帝都を駆け回り、大人顔負けの頭脳と行動力と大胆さで犯罪王たる仮面の怪人に立ち向かう! 毎回その冒険にワクワクしますし、探偵組を率いる先生と怪人が格闘するところもいつもドキドキします。この怪人がまた魅力的でいいんですよねぇ。軽業曲芸お手のもの、ときには奇術でみんなの目をくらませて華麗に消えてしまうところもそうですし単なる極悪非道の犯罪者じゃなくて悪い権力者だけを狙うところも、その盗んだ金銀財宝を貧しい人たちにばら撒くところも義賊の王道をいくというか。あ、探偵組のリーダー大森少年をよく攫うのも意味深ですよね。監禁しても囚人みたいな扱いはしなくて、ちゃんと食事も出してくれるしなんなら午後のお茶に誘ったり一緒にチェスもしてますし。自分の計画を邪魔されないようにーとか恐ろしい目にあわせてやるーとかいろいろ言う割に親愛の情をすごく感じるんですよね。三巻で大森少年が別の悪人の罠にはまって火事に巻き込まれたときも先生より先に火の中に飛び込んでますし。大森少年は美少年と書かれてますしこれってもしかしてもしかしなくても禁断の恋みたいなのかなぁなんて思っちゃったりもして!」
話し出すとやめられない止まらない。ついつい早口で『我ら少年探偵組!』を語ってしまう。
案の定というか、泰明さんはあっけにとられたように目をぱちぱちさせていた。
でもこうなると自分でも止められないやめられない。
「禁断の恋?」
「ええそうです! 大森少年にその気はないかもしれませんが怪人はきっとその気ですよわーもうどうしましょうね親子ほど年が離れてて敵対してる先生の愛弟子でおまけに同性で! 障害が多い! でも怪人だったらだからこそ燃えますよねわかります! 彼はこの先一体どうするつもりなんでしょうかね!」
「うーん……。怪人は多分、恋とかじゃなくて……」
「え!?」
「あ、いや、なんでもな――」
「なんですか教えてください大丈夫ですなんでも言ってくださいぜひ聞かせてくださいさぁ早く!」
思わず青年の両肩をつかんで勢い込むと、彼の顔がますます赤くなった。
「え、えっとね。怪人て、もしかしたら大森少年のお父さんかも?」
「おとう……!」
全身に稲妻が落ちたような衝撃が走る。
確かに大森少年にはお父さんがいなくて先生が育ての親ではあるけど……その考えはまるでなかった。
泰明さんが既刊五冊の中で感じた違和感やそれをほのめかすような怪人の言葉を教えてくれる。
急いで納戸から本を持ってきて確かめると、なるほどと思わずにはいられない。
彼の考えを聞けば聞くほど、もうそうとしか思えなくなっていた。
そうなると今度は別の問題が出てくる。
「でも大森少年って先生の愛弟子でゆくゆくは後継者になるんですよね? え、実の父親と戦わなきゃいけないんですか? しかも怪人は彼を息子ってわかってて愛してて、でも大森少年は知らなくて憎んでてって……。わあぁどうしよう大変、というかなんでそんなことに――」
「この先生、もしかしたら一番悪い奴だったりして?」
「そんな…………!」
二度目の衝撃。
泰明さんの推理が当たっていたとしたら、大森少年がその真実を知ったときどうなってしまうのか。
大好きな先生が実は悪者で、さらに悪者と思っていた怪人が実の父だったなんて想像するだけで苦しい。きっと大森少年も辛くて苦しくて悩みに悩むだろう。
彼らはこれからどんな関係になっていくのか?
大森少年はたしてどちらを選ぶのか?
あぁ、妄想がはかどる。
早く続きを読みたい。
「あかりは物語を楽しむのが上手だね」
「へ?」
泰明さんの優しい声に、現実に引き戻される。
愛情深い眼差しと目が合って、それまでの荒ぶっていた気持ちが落ち着いていく。
「お話が大好きっていうのがすごく伝わってくる。本に夢中になってる姿も本当に可愛いね」
「かわ、え? いえ、そんな」
可愛いと言われて、そして取り乱したところを見られて今更ながら無性に恥ずかしい。
「すみません、大騒ぎしちゃって。泰明さんの読書、すっかり邪魔しちゃってますね」
「邪魔だなんて。本はいつでも読めるけど、あかりと二人きりでお喋りなんて滅多にできないもん。僕はこうしてるほうが嬉しいな。あかりの百面相も見られたし」
ほくほく顔で嬉しそうに言われて言葉に詰まる。なにか言いたいけど胸がいっぱいで、それに舞い上がってしまって頭がろくに働いてくれない。
あわあわと口だけ動かしていると、青年はくすっと笑った。
「最初に読もうとしてたのはどんな本?」
「あ、これはですね……」
先に持ってきていた本を二人の間に並べる。
ある表紙には野菊が、ある表紙には茜色の空に夕顔が、またある表紙には赤と白の椿が咲いていた。
泰明さんがなんとも言えない表情でこちらを見る。
「どれも年上女性に恋する男の話だっけ」
「そうです。少し男女の心の機微というものを勉強しようと思いまして」
恋がテーマのミュージカル映画は何度か観ているけど、恋愛小説はまだそんなに読んだことがなかった。馴染みがなくてちょっとだけ照れくさいというのもある。
でももうそんなことも言っていられない。
「この前わたし、泰明さんのお邪魔虫をしちゃったじゃないですか。だからこういう本をたくさん読んで勉強して、泰明さんを応援しようと思ったんです。これからは期待しててくださいね」
「期待……」
力を込めて言うと青年の笑みが薄くなる。
どこか途方に暮れたような目が、ふいにキラリと光った。
「じゃあさ、あかり。練習相手になってくれない?」
「練習、ですか?」
「姫様は泰治様と大恋愛をしてきたわけだし、夫婦でもあったでしょ? それに比べて僕はそういった経験がまったくないからさ。ちょっと練習したいんだ」
そういった経験、と聞いて自然と首がかたむく。
彼の大学の同級生――今度お見合いする女性と恋人を演じていたと言っていたから、まったく経験がないことにはならないような。
そう思ったのが顔に出たのか、青年は苦笑した。
「偽物の恋人はいたけど、たまーに二人で買い物したり大通りを練り歩くくらいしかしたことがないよ。そのときの会話も試験対策とか読んだ論文の話ばっかりで、浮ついた話なんて全然してないし。だからどうしたら女性にドキドキしてもらえるかわからないんだよね」
「ははぁ……なるほど」
ドキドキさせる練習の相手。
それは受けてもいいものだろうか。
具体的にどういうことをするのかはわからないけど、なんだかちょっと後ろめたい気がする。それにいつかこのことを姫様が知ったら、傷ついたりしないかな。
「ほら、見当はずれなことをしたら経験豊かな姫様に笑われちゃうかもしれないし。ガッカリされるかもしれないし」
「……うーん……」
「こんなこと頼めるの、あかりしかいなくて。……駄目かな?」
首をすくめるようにして泰明さんがこちらをじっと見つめてくる。
美しい青年の儚げな上目遣いが直撃して、思考が一瞬吹き飛んだ。
この破壊力ならただ相手をじっと見つめるだけでじゅうぶんドキドキさせられる気がする。
「ね……お願い?」
「~~~~わかりました。ただし今だけ、ちょっとだけですよ?」
悲しそうなか細い声に白旗をあげるしかなかった。切実に頼られてる以上、断るわけにもいかない。
仕方なくうなずくと青年の顔がパッと明るくなる。
「ありがとう! あかりって本当に優しいね」
泰明さんは二人の間にあった本を脇にどけると、肩同士が触れそうな距離に座りなおした。
え、と思う間もなく頬に手が添えられる。
思わず固まると青年が苦笑した。
「さっそくだけど練習させてね。ほら、こっち見て」
ささやくような声にうながされてその目を見る。
黒曜石のような綺麗な瞳は優しげだった。それでいてどこか熱っぽくて、飢えた色をしていた。
泰明さんはなにも言わない。
無言でただじっと見つめられて、口の中が妙に乾く。
気のせいか、わずかに顔が近づいた気がして身体を少しうしろにかたむけた。
するとまた少し顔が近づいた気がして、またうしろにかたむけて――次第に腹筋が苦しくなっていく。
「あ、あの、一回座りなおしませんか?」
やっぱり気のせいじゃなかった。
今やうしろに手をついて倒れそうになるのを我慢していた。そして同じくらい、泰明さんもこちらに身を乗り出していた。
青年は相変わらずなにも言わない。そのかわり、頬の上を親指がゆっくりと滑っていく。
なにか、なにか会話をしなきゃ。
「そ、そうだ泰明さんっ。泰明さんの大学生活って、どんなでしたか?」
「んー……? 中学とそんなに変わらないんじゃないかなぁ。あかりのほっぺた、柔らかいね。それにすべすべしてて気持ちいいな」
「だい、大学の勉強ってさぞ難しいれひょッ、でしょうね!」
「そんなことないよ。ねぇ、この前つけてた口紅、似合ってたね。他の色も見てみたいな」
頬をなでていた親指が下がって唇に触れた。
感触を確かめるように真ん中を軽く押して、口の端をかすめていく。
くすぐったさに肩がビクリと跳ねた。
青年の目が細くなる。
「口紅を! 取ってきます!」
「駄目。ここにいて」
とん、と軽く肩口を押される。あっと思ったときには仰向けになっていた。




