130.姫神様とかつての友(前)
九摩留は加加姫の声を無視した。
言われたことに逆らうようにあかりを強く抱きしめる。すると頭を強く蹴られた。
「痛ってぇなババア。温めてやれって言ったのはお前だろ」
男は枕もとに立つ少女をにらみつけるが、少しホッとしてもいた。
頭を蹴られたおかげで股間のものは一気に萎えていた。
だが具体的にどうこうできないにしても、この場所を譲る気にはなれない。しかし彼女はさらに頭を蹴ってくる。
「どけ。交代だ」
「交代って、お姫は体温低いじゃねえかよ。そんな冷たい肌で……それにそんなちっこい身体でこいつをあっためられると思ってんのかよ」
加加姫は本性が蛇であるためか、その肌はいつもひんやりしている。
娘を温めるどころかせっかく上がってきた体温を奪ってしまうだろう。
「それにお前、寒いの冷たいのは大嫌いだろ? 今のあかりはでけぇ氷みたいなもんで、そりゃあもう冷たいぞ? ここは俺に任せといて……そうだ、お姫は湯を沸かしてくれよ。それが今のお前にできる唯一のことだな」
枕もとに立つ少女を見上げながら九摩留はにやにや笑う。
加加姫はフンと鼻を鳴らすとおもむろに腰紐を解いた。
小さな肩から襦袢が滑り落ち、目を丸くする男の前に少女の一糸まとわぬ姿が現れる。
十二歳ほどの外見どおり、わずかに膨らみだした胸にくびれていないまっすぐの腰、鹿のように細くしなやかな手足が外気にさらされた。
あっけに取られた九摩留が瞬きをした次の瞬間、その姿は妙齢の女へと変化していた。
「おババ……」
男は思わずつぶやく。
九摩留としてその姿を見るのは初めてだが、記憶のなかでは何度も目にした姿だ。
ある時から泰治の隣にあり続けた忌々しい姿。
しかし郷愁さえ覚えるような、あまりにも懐かしい姿。
「どうだ。これで文句はなかろう」
九摩留の驚きを面白がるように、女は手で長い白髪を払いながら小さく笑う。
わずかに邪悪さのにじむ笑みだが、それだけでゾッとするほどの色香が漂った。美女と名高い葉月でさえ彼女の前ではかすんで見えてしまうだろう。
整いすぎて気味が悪いとさえ思える美貌に新雪のような珠の肌。赤子の頭ほどもありそうな豊かな胸と弓のようにくびれた腰。そこから肉づきのよい腿がすらりと伸びて細い足首へと繋がっている。
その白髪もなまめかしく成長した肢体にあわせて床に届かんばかりに伸びていた。
どこもかしこも淡く光るような白に満ちて、だが眼と唇だけが鮮やかな赤を放つ。
一瞥ひとつで男を狂わせる魔性の権化に、九摩留の身体も否応なしに反応していた。
慌てて顔をそむけて舌打ちする。
「クソッ、ろくでもねえもん見せんじゃねえババア。とっとと服着やがれ」
返事はにやにやと笑う気配だった。
反応したくないのに反応してしまう自分が情けない。そしてそれを見透かされているのがたまらなくむかつく。
かつての自分は女にまるで興味がなかった。
でも今の自分は違う。
惚れた女はあかりだが、好みの女は葉月のようにメリハリの利いた体型の――今の加加姫のような女だった。
かつての恋敵に欲情するなんて、と九摩留は泣きたくなった。
「ほれほれ、この温度なら文句なかろう。わかったらとっととそこをどきやれ」
女のつま先に首筋をゆっくり撫でられて肩がビクッと跳ねる。確かにその足指は温かいどころか熱いほどだった。
「……別に交代しなくたって、そこからお前の力であかりを温めてやりゃいいだろ」
「わしは火や熱の操作が不得手だ。加減を間違えてあかりを丸焼きにする恐れもある。そうだ、どかぬならお前を丸焼きにしてやろうか」
「このクソババア……」
九摩留は舌打ちすると、しぶしぶあかりの身体から手足をほどいた。それからこっそり股間の具合を確かめて布団から這い出す。
正面に立った加加姫は恐ろしく背の高い女だった。その目線は自分とほとんど変わらないだろう。
「ブス。デカ女。可愛さの欠片もありゃ」
しねぇ、と言う九摩留の身体が吹き飛んだ。
壁に派手な音を立ててぶつかり、そのままずるりと崩れ落ちる。
「ん、む……」
布団の中であかりがもぞりと動いた。
「おぉよしよし、うるさくしてすまなんだ。どれ、今温めてやるからのぅ」
男の頭に裏拳をかました美女はそそくさと布団に滑り込み、すぐにその身体を抱きしめてやる。
確かに男の言ったとおり、娘の身体はまだ冷えていた。
だが体内の神気を活性化させた身体にはむしろ心地よい冷たさだった。
あかりも加加姫の肌が気持ちいいのか、むにゃむにゃと何事かつぶやきながら顔をほころばせている。
「はぁああ……かわいいのうかわいいのう。成体で嫁を抱くのもまた格別であるなぁ」
ついついきつく抱きしめると胸の谷間で苦しそうなうめき声が聞こえてくる。
慌てて腕をゆるめ、姫神は彼女の髪を撫でてやった。
「くっそ……どこまでもむかつくババアだな」
ようやく身を起こした九摩留は毒づきながら作務衣を着はじめる。
あの強烈な一撃で完全に煩悩が吹き飛んだらしく、頭も身体もすっかり落ち着きを取り戻していた。
枕もとにあぐらをかくと、加加姫が瞳だけを動かしてこちらを見上げてくる。
「九摩留」
「なんだよ」
「お前と重盛は……別ものだな」
重盛。
その名前に男はきょとんとし、でもすぐにあぁと声をもらした。
「そういやあいつ、そんな名前だったな」
加加姫はどこかぼんやりした様子の九摩留を――丹波重盛だった男を不思議そうに見つめた。
「なんだえ、名は思い出しておらなんだか?」
「名前っつーか……そもそも自分のことはほとんど思い出さねえな……。泰治のことはたまに思い出すんだけどよ」
そこまで言って男はふっと笑う。
首の裏を掻いて天井に視線をさまよわせたあと、ふたたび彼は女に目を向けた。
「つーか、お前やっぱり知ってたんだな。俺が重盛だったってこと」
「当たり前だ。わしは神だぞ。魂の変遷を視ることができる」
男の穏やかな声に、女も静かに言葉を返した。
前世からの因縁。互いにそれを黙っていたが、打ち明けたのはこれがはじめてだった。
「本当にお前……いや、重盛は執念深い奴であるな。まさか狐となってふたたびこの地に現れようとは思わなんだ」
「最初に声かけてきたのはお前だろ。執念深いのはどっちだよ」
「声をかけるより先に我が懐に産まれ落ちたのはお前のほうだろう」
九摩留は舌打ちするとむすっとしたように黙り込んだが、しばらくして目をあげた。
「なぁ」
「なんだえ」
「俺と重盛って似てんのか?」
際どい質問を受けて、加加姫は男をじっと見つめた。
九摩留は単なる興味本位で聞いているらしい。琥珀の瞳は澄んでいて翳りはない。
能天気な男に少し呆れた。
「見た目は違うが性格は少し似ておる。口の悪さはもっと似ておるな」
「ふーん」
「わしも重盛とはよく罵りあったものだ。それで最後はつかみ合いの喧嘩になって、二人そろって泰治の拳骨を受けたものよ」
「へぇ。仲が良かったんだな」
「……さて、どうだったかのう」
とにかく憎たらしい恋敵だった。
だが――悪友と呼んでやってもいいだろう。
頭にくることや邪魔だと思うことも多かったが、ともに過ごした時間は楽しかったと言えなくもない。なんだかんだで気に入っていたのは事実だった。
「お姫は……俺が重盛だったから下男にしたのか?」
加加姫はふっと赤い眼をなごませるとゆっくりかぶりを振った。
「いいや、それは違う。たまたま下男に適したお前がたまたま重盛と同じ魂を持っていた。それだけのことよ」
九摩留がこの山に産まれた時、彼の前世が重盛であることには気づいていた。
だが、だからといってかつての悪友を懐かしみ手元に置こうなどとはつゆほども思わなかった。
九摩留は九摩留だ。重盛の記憶と人格を持たないただの狐になんの興味を持つというのか。
――いや、ただの狐ではなかったなと姫神は思う。
自分をまるで恐れない、霊狐の素養を持つ特別な狐だ。
だからこそこの狐を捕まえた。屋敷で不足している男手を解消するために、下男とするべく捕まえたのだ。
そして『九摩留』という名と神気を与え、己の眷属にした。
加加姫はあかりの髪を撫でながら小さなため息をついた。
「ちと癪ではあるが……お前には謝らねばな」
「あ? 下男にしたことか?」
「違う」
「違うのかよ」
「重盛であったときの記憶が蘇るなど、本来ならば起こりえぬことだ。わしの影響が少なからずあるのだろう」
屋敷に来た当初、この狐は生まれてまだ二年かそこらだった。
里にも降りたことのない彼が人間の暮らしを理解し慣れるまで、はたしてどれほどの時間を要するか――。先代世話役の泰吉と懸念していたそれは、しかし杞憂に終わった。
九摩留は最初こそ無理やり変化させられた身体や人の文化に戸惑っていたが、あっという間に屋敷での生活になじんでいった。
それは持ち前の賢さや柔軟性というより、もともと知っていたことを思い出していくかのようであった。
そしてこの頃の九摩留は時折自分を「おババ」と呼ぶ。
その呼び名は重盛が使っていたものだ。
薄々気づいていたことだが、それが決定打となった。
どうやら加加姫が与えた神気や霊場でのこもりで高められる霊力が、狐のかつての記憶を――人間だった頃の記憶を呼び覚ましているらしい。
「…………すまぬ」
それは加加姫としてもまったく予期していないことだった。
たとえ神であっても相手の前世の記憶や人格を意図して呼び覚ますことはできないのだ。
それらは現世に引き継がれることなく地層のように積み重なっていくもの。だが自分のせいで地殻変動が起きた。
記憶を引き継ぐだけならまだいいが、もしその人格まで引き継いでいくようなら――それは重盛の複製となりはしないだろうか。
この狐は己が懐で産まれた命。しかも己が眷属となった者。つまり我が子も同然だ。
そんな我が子の本来の自我を親たる自分が潰したのであれば、さすがに良心の呵責も起きる。
「お姫は俺が重盛になるほうがいいんじゃねえの?」
九摩留は加加姫の言わんとすることを正確に読み取った。そのうえで意外そうに目を瞬かせる。
彼女はそらっとぼけた。
「なにを言っておる。かつての恋敵を蘇らせたがるなど、酔狂にも程があるわ」
「でも、気に入ってたんだろ?」
男は少し意地悪そうに笑って言う。
姫神は黙ってその琥珀の瞳をじっと見つめていたが、やがて観念したように笑った。
「そうだな。あぁ、確かにわしは……あの男を気に入っておったよ」
九摩留の笑みが小さくなる。
どこか寂しそうにも見える曖昧な笑みに、加加姫は布団から手を出して男の膝にぽんと載せた。
「だがな、九摩留よ。わしはお前のことも気に入っておるのだ。クソ生意気で馬鹿な狐ではあるが……なにせわしの身内であるからな。友ももちろん大事であるが、家族もまたわしにとって大事なものよ」
男の視線を受けて加加姫は優しく微笑んだ。
「九摩留よ、お前は重盛にならなくていい」
男は驚いたように目を瞬かせると急にふくれっ面になる。
その頬はわずかに赤くなっているようだった。
「神ってやつは本当に身内贔屓がすげえよな。重盛にはこれっぽっちも優しくなかったくせに、九摩留にはずいぶんと甘いこと言いやがる」
「真面目に答えてやったというに、この狐は」
加加姫は九摩留の膝をギリッとつねった。
男が小さく悲鳴をあげて反射的に姫神の頭をはたこうとする。だがその手は彼女に触れる寸前で炎に包まれた。
ふたたび九摩留が悲鳴をあげ、弾かれたように部屋を出ていく。
加加姫が何事もなかったように娘の髪を撫でていると男が恨めしそうな顔で戻ってきた。
かばっている手からは水滴が滴っている。
「このクソババア……あとで覚えてろよ」
「カカッ。覚えていたところでお前はなにもできぬよ」
二人はそれきり喋るのをやめた。