第122話 陰鬱な孤独との戦いの終わり
武津薙の心境に変化が生じたのは兎厨芽と巡り合ってからだった。それは、ほんの些細な、瞬間的な出来事であった。
兎厨芽は誰に対しても優しい人間だった。口の悪い者はそんな彼女のことを八方美人と言った。
兎厨芽は、自分が好意を持てるヒトに対してのみ行う親切は本物の優しさではないという信条を持っていた。己の心が傷む程の慈悲こそが優しさであり、それを体現して築かれたヒトとの繋がりに意味を見出した。
村にいる大抵の者は、自分がとるべき最善の行動を理解していたとしても、感情や利害に負けて、個人的によく思っていない他者のためには行動を起こさず、そのため、自分が理想とする人物になることは出来ないでいた。しかし、兎厨芽はその最善の行動を選択できる人間であり、だからこそ彼女は高潔であった。
それは、銅鑼村で一年に一度催される祭りの日だった。
神社にお参りをするため村の中心に向かっていた武津薙は、腹の底に響く和太鼓の音を体感しながら、法被を着た村人に引かれているだんじりに目をとられ、足を滑らせて、水田の中に転んで泥まみれになった。
周囲にいた人々は駆け寄ろうと体を動かしかけた瞬間、転倒した者が武津薙であると分かると体を止め、ただ冷ややかな目を向けた。
そんな中、兎厨芽は祭りのために用意していた見事な浴衣が汚れるのを厭わず水田に入り、彼に手を差し伸べた。
武津薙は兎厨芽のしていることの意味が分からず、彼女の手を払いのけ自力で起き上がった。兎厨芽は袖で武津薙の顔に付いた泥を拭った。兎厨芽の袖で覆われた武津薙の視界が開けた先には、彼女の真剣な眼差しがあった。
兎厨芽の眼光は非常に鋭かった。それは、少しの力も込めず、重力にまかせるまま、すとんと落とすだけで、硬い胡桃の殻を両断してしまいそうな鉈の如き熾烈さがあった。武津薙は自分が助けられているのか、責められているのか分からなくなり、混乱した。
その時、武津薙はふと自分が迷子になっていることに気が付いた。ここは何処で、自分は何者で、いったい何をやっているんだろうと疑問に思った。そして、これまで感じたことのない奇妙な感覚が武津薙に舞い降りた。
何層にも堆積した地層の奥深い所で、こんこんと眠り続けていた化石が地上に晒された時のように、体の奥で目覚めを待っていた残りの自分が覚醒し、現在の自分と重なる確かな感触があった。それは、これまでの現実は夢の中の物語であり、今、目が覚めた様な感覚だった。
だんじりの和太鼓と人々の賑わいの音が徐々に聴覚を刺激し、それをはっきりと知覚した時、目の前に、不思議そうな目をこちらに向ける美しい女性が佇んでいることに気が付いた。
それは、武津薙の長く陰鬱な孤独との戦いが終わりを迎えた瞬間だった。




