第一章 暴力の海に浮かぶ、理想という名の「バグの島」
追放、そして泥にまみれた呪文
ルナミス帝国との国境線。
車輪がきしむ不快な音と共に、一台の馬車が乱暴に止まった。
「降りろ、無能。ここがお前の新しい赴任先だ」
帝国兵が、魔導ライフルの重厚な銃床で僕の背中を小突く。
整備された帝都の石畳とは違う、ぬかるんだ土の上に僕は無様に放り出された。
「魔力ゼロ、闘気ゼロ、おまけに固有スキルも無し。そんなゴミが、皇帝陛下の『効率化政策』に口出しした結果がこれだ。せいぜい、この辺境のド田舎で野垂れ死ぬんだな」
兵士たちは下卑た笑い声を上げ、馬車を反転させる。
(……怖い。足が震える。あのライフルの銃口、さっきからこっちを向いてたじゃないか。死ぬ、本当に死ぬかと思った……!)
心臓が喉まで競り上がってくるような恐怖。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、胃袋が裏返りそうだ。
だが。
僕は泥にまみれた作務衣の裾を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、去っていく馬車の背中に向かって、これ以上ないほど優雅に、深々と一礼した。
「――長旅の護衛、誠にありがとうございました。道中、お気をつけて」
「……っ、気味が悪い奴だ。さっさと出せ!」
僕のあまりに不自然な「礼節」に気圧されたのか、馬車は逃げるように走り去った。
僕は顔を上げ、眼前に広がる景色を見渡した。
「ポポロ村」。
三カ国の軍勢が睨み合う最前線の緩衝地帯。だが、そこには皮肉なほど豊かな緑と、のどかな静寂が広がっていた。
(ついに、来たんだ……)
内心の恐怖とは裏腹に、口角が自然と上がってしまう。
帝国の無機質な魔導回路に塗り潰されていない、生命力に満ちた土の匂い。
かつての日本に存在したという、失われた「美しき日常」の原風景。
僕は、膝の震えを悟られないよう、一歩ずつ村の中へ歩き出した。
村の入り口。農業用水路の前で僕は足を止めた。
水路には泥と枯れ葉がぎっしりと詰まり、水の流れが完全に死んでいた。
どろりと濁った水面からは悪臭が漂い、これでは作物を育てるどころではない。
僕は迷うことなく袖をまくり、ヘドロの中に両手を突っ込んだ。
「うっ……冷たい。そして、本当に臭いな……」
(嫌だ。帰りたくなる。でも、『農民芸術概論』にはこうあったはずだ。労働を芸術に変えろ、と。ここでドブを浚えない人間に、新しいコミュニティを創る資格なんてないんだ……!)
ぐちゃり、と重い泥を素手で掴み、岸へと放り投げる。
闘気による身体強化が使えない僕の非力な腕には、泥の塊が鉛のように重い。
数分も経たないうちに指先は小石で切れ、爪の間からじわりと血が滲み出した。
「……あんた、何してるの」
ふと、頭上から鈴を転がしたような、それでいて芯の冷たい声が降ってきた。
顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
頭に生えたピンと張った兎の耳。動きやすいラフな服装。そして、背中には一撃で城壁を穿つという巨大な鋼鉄のダブルトンファー。
(……この村の村長、キャルル。「雷神の月兎」!)
一歩踏み込めばマッハ1に達するという、生存する災害。
彼女の機嫌一つで、僕の首など瞬きする間に塵になる。
「帝国から追放された内政官って聞いてたけど。……いきなりドブ浚いをして、村人からの同情でも引こうって魂胆?」
キャルルの赤い瞳が、冷徹に僕を射抜く。
皮膚が粟立ち、本能が全力で「逃げろ」と警報を鳴らしている。
しかし、僕は泥だらけの手を休めることなく、微笑んだ。
「同情なんて不要ですよ。水が死ねば、土が死ぬ。土が死ねば、美味しい野菜は育たない。……この村の野菜、本当はもっと美味しくなるはずなんです」
「はぁ? あんた、血が出てるじゃない。魔力も闘気も無いんでしょ。バカなの?」
キャルルはため息をつきながら、水路の縁にしゃがみ込んだ。
そして、僕の泥だらけの傷ついた手を、彼女の驚くほど細く白い指が包み込んだ。
その瞬間、淡い月光のような魔法陣が空中に描かれた。
ヘドロの悪臭を、陽薬草の甘く清涼な香りが優しく塗り替えていく。
彼女の手から伝わる魔力は、冷えた僕の指先に体温を戻し、傷口を瞬時に塞いでいく。
「……痛いなら、痛いって言えばいいのに」
彼女の兎耳が、戸惑うように微かに揺れた。
その瞳の奥には、暴力でしか自分を証明できなかった者特有の、孤独な影がある。
僕は、逃げ出したい本能を「教養」という名の自己暗示で抑え込み、彼女の目を見た。
「痛くありませんよ。……なぜなら、『労働とは、目に見える形にされた愛』なのですから」
「……え?」
「この泥を退ければ、水が流れる。水が流れれば、誰かの食卓に美味しい芋煮が並ぶ。その笑顔を想像すれば、この程度の泥、芸術のための絵の具みたいなものですよ」
泥まみれの作務衣。血の滲んだ手。
だが、僕の言葉には、帝国が押し付ける冷たい「効率」とは全く違う、圧倒的な熱が宿っていた。
キャルルは息を呑み、吸い込まれるように僕を見つめた。
彼女の指先が、僕の手に触れたまま、ほんの少しだけ震えて強張る。
「……変な人」
キャルルは顔を真っ赤に染め、乱暴に僕の手を離して立ち上がった。
その兎耳は先ほどよりも激しく、パタパタと落ち着きなく動いている。
「ま、まあいいわ。村長のキャルルよ。とりあえず、歓迎してあげる。……でも、怪我を治すまで、泥遊びは絶対に禁止だからねっ!」
彼女は背を向け、逃げるように足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は大きく息を吐き出し、その場にへたり込んだ。
(……死ぬかと思った。本当に、心臓が止まるかと思った……!)
僕――草壁颯真。
武器も魔法も持たない、ただの凡人。
手元にあるのは、古びた数冊の本と、少しばかりの「教養」だけ。
これは、暴力が全てを支配するこの世界で、たった一人の「弱者」が非暴力という名の狂気をもって、最強のバグを創り上げてしまうまでの、最初の一歩である。




