第三十三話 救援要請
先送り優先の救援命令は、裂けた継ぎ目を止めるためではなく、誰の印で呼び戻したかだけを先に整えたがる。
春祷祭の急報が照合板へ掛かってから、まだ一刻も経っていない。旧記録室の北壁では、原本、回付本、振替票、今朝の急報が細紐に揺れ、机の上にはクラウスが書きかけた応急資材の控えが広がったままだった。
そこへ、北門の鐘がまた短く二つ鳴った。
ミアが戸口へ顔を出すより先に、私は掛け紐の方を見た。三角札つきの封筒が一本。さっきの急報より厚い。封蝋は王城の百合印で、その下へ細い金線が一本だけ巻いてある。命令書の束ね方だ。
「また王都です」
ミアが封筒を抱えて走り込み、ネラが受け刻みの札を下げる。私は封蝋の角を指でなぞった。厚く盛ってあるのに、紙の中身は軽いと分かる。こういう綴りは、たいてい要ることより急がせたいことだけ先に書いてある。
クラウスが封を切った。中から出た羊皮紙は二枚。最初の一行を読んだだけで、彼の眉間に縦線が入る。
「王城維持局緊急通達。旧宮廷結界保全部技師リネット・アルヴァを、王都復旧補助のため即時帰還させよ」
帰還。
その字だけが、紙の上で妙に白かった。西棟第二接合部も、第一防壁北東面も、その下へ小さく添えてあるだけだ。必要資材、閉鎖範囲、いま止めている列、切れない線。そういう、現場で先に読むべきものがどこにもない。
ユリウスがそこで息をついた。
「話が早い。君が戻れば済む」
「済みません」
紙を受け取り、私は二枚目を見た。『祝祭復旧優先』『王城導線優先』『現地判断は上席確認後』。止めるための文ではなく、取り戻したい見映えの順だった。
「これでは直せません」
「王城からの命令だぞ」
「命令ならなおさらです。どこを閉じて、どこを生かしたままにするかがない」
セラフィナが私の手元を見ていた。白い杖の先は今日は上ではなく床に近い。
「西棟と防壁の場所は書いてあるわ」
「場所だけでは人を動かせません。南庭の排水を先に開けるのか、供物列を切るのか、北東角楼の信号を生かすのか、祝灯線を落とすのか。誰の印で切るかがないと、現地でまた『後で決める』になります」
『後で』の字に、クラウスの肩がわずかに固くなった。照合板の右には、その字で薄くされた回付本がまだ吊ってある。
私は机の下から細板を一枚引き出した。高窓の下へ立てかけてあった余り板だ。ミアへ顎を向ける。
「小釘を五本。青紐も」
「五本?」
「欄を増やすの」
北壁の照合板の下へ、細板を横に渡した。釘を等間隔へ打ち、青紐へ小さな札を掛ける。
壊れ箇所。
止める線。
切れない線。
要る資材。
責任印。
ネラが最後の札を見て、小さく読む。
「……責任印」
「ええ。頼むだけなら誰でもできます。切る場所を決める印がないと、また現場へ戻される」
私は王城からの通達を、照合板の急報の右へではなく、新しく作った下段の空欄へ掛けた。壊れ箇所だけは埋まる。西棟第二接合部、第一防壁北東面第四継ぎ目。けれど、その下の札は四つとも空いたままだ。
それが、この紙の足りなさだった。
アルノルトが戸口脇の壁へ腕を預けたまま、命令書を見た。
「戻れ、だけか」
「はい。誰が何を切るかがありません」
「第七から人も材も持っていかせる気だな」
その言い方に、ユリウスがすぐ顔を上げる。
「王都が危急なんだ。当然だろう」
「当然なら紙に書け」
アルノルトの声は低かった。怒鳴り返したのではない。ただ、北門で縄の幅を決めるときと同じ声だった。
「門前の綱ひとつでも、どこまで開けるかを決めずに引けば馬が詰まる。砦司令に断りもなく兵と銀線を抜くなら、それで何が止まるかも書け」
セラフィナが白い手袋の指を組み直した。
「……供物列は、切れます」
部屋の中で、その一言だけが先に落ちた。
彼女は自分でも驚いたように一度まばたいたが、目は逸らさなかった。
「今朝の急報で止まったのなら、もう守れていないもの。白布を掛け直しても、列の足元が沈むなら意味がない。礼拝回廊も、排水を先に通さないとまた止まる」
私は新しい札の二つ目を指した。
「では書いてください。止める線」
クラウスが机から筆を取った。迷ったのは一呼吸だけだった。
「私が写す。聖女候補殿、文言を」
「供物列停止可。東礼拝回廊は排水再開を先。仮回廊白布は後」
青札がひとつ埋まる。
第一防壁の方は、ユリウスが黙ったままだった。私は待たなかった。
「祝灯線は切れますか」
「それは……」
「北東角楼の信号と、どちらを残すんです」
彼は唇を噛み、急報へ目を落とした。防壁上通路一部封鎖。信号途絶。その二行は、武勲の余地がないくらい乾いている。
「信号だ」
やっと出た声は低かった。
「祝灯線を落とす。北東角楼の信号を先に戻す」
私は三枚目の札へ、そのまま書いた。切れない線。北東角楼信号。祝灯線停止可。
ミアが札を掛け直しながら、空いている欄を見上げる。
「まだ、要る資材と印」
「そこが埋まらないと行けない」
クラウスがそこで初めて王城通達の末尾まで読み、奥歯を噛んだ。
「上席確認後、のままだと現地でまた止まる」
「あなたも分かったでしょう」
私は空の羊皮紙を引き寄せた。照合板の下では、青札が三つだけ埋まって揺れている。足りない場所が目に見えると、紙の上の曖昧さはもう隠れない。
セラフィナが、今度は私をまっすぐ見た。
「リネット」
「はい」
「戻ってほしい……いいえ、来てほしいの。いま王都にいる人間だけでは、切る線を決められない」
その言い直しだけで充分だった。王都へ戻るのではない。直しに行くなら、ここの仕事と印を持ったまま行く。
私は頷かなかった。ただ、羊皮紙の上へ新しい見出しを書いた。
王都救援 受諾条件。
ユリウスが何か言おうとしたが、その前にアルノルトが机の端へ第七砦の古い印盒を置いた。乾いた木が机へ触れる、小さな音だけがした。
「書け」
私は筆を取り直した。
保全部独立。
原本と回付本の公開照合。
第七砦の門銭、預かり、人手、資材は王都側で凍らせない。
まだ文は荒い。王都へ返すには、誰の名で押し出すかも詰めなければいけない。それでも、さっきまで『戻れ』しか書いていなかった紙より、ずっと直す順に近い。
北壁の下段では、空いていた欄が少しずつ埋まり始めている。壊れ箇所だけが先に吊られていた朝と違って、いまは何を切り、何を残し、誰がその印を押すのかまで、同じ板の上で逃げずに見える。
王都へ行くなら、そこからだ。




