ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿) 約束の酒
第12章
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ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
約束の酒
夕刻。窓外は藍と紅を混ぜたような色に沈み、塔の壁を薄く染めていた。暖炉では小さな炎がじりじりと芯を焦がし、乾いた薪の匂いが部屋の隅へ淡く溜まっている。
昼の公務を終え、鎧も礼装も脱ぎ、椅子に深く腰を沈めた。肩甲の奥に残る重さを吐き出すように息をつくと、指先だけがまだ剣帯の締め具合を覚えている。
向かいの机では、メービスがまだ羊皮紙を片付けていた。指先が静かに紙を重ね、封を結ぶ手つきは、剣を納める時と同じくらい迷いがない。物音は最小なのに、紙が擦れる乾いた音だけは、やけに耳に残る。
言葉は短かったが、理由も段取りも、反発への備えも、順を追って話してくれた。
レズンブールを離宮に迎え、リュシアンの教育監督に据える――すでにロゼリーヌの承諾も得た、と。王家に翻弄された、“同じ痛みを知る者”だからこそ、次代を導けると。
伯爵を生かす。それだけなら奇麗事にもできるが、こいつの場合は違う。慈悲でも、抱え込むしたたかさでもない。罪も痛みも抱えたまま、それでも進めと突きつける。たぶんあれは、他人に向けた言葉の形を借りて、自分自身へ突き立てる刃だ。生き恥でも構わん、背負ったまま生きろ――と。
重く、痛く、危うい魂だ。だからこそ、俺は目を離せない。
椅子の脚が小さく鳴った。俺は背凭れに預けていた背を起こし、彼女の横顔へ言葉を落とした。
「……お前が決めたなら、それで構わん」
それだけ言った。疑問も反対もない。
彼女は軽く瞬きをして、口の端をわずかに上げた。その横顔に、一瞬見惚れた。こんな女は他にいるか。まったく、惚れるしかない。
視線を外した彼女が窓辺の夕闇を見ている。俺はその背中に向け、もう一つだけ投げた。暖炉の火が、俺の喉の奥の熱を少しだけ誤魔化してくれる。
「……俺としては、約束の盃を交わせるなら文句はないさ」
素っ気なく聞こえるだろうが、本音は嬉しかった。彼女が選んだやり方なら、あの策士も立ち直るだろう。最後は俺の役目だ。
酒は俺が用意する取り決めだった。とびきりきつい蒸留酒を持っていってやる。牢獄で腑抜けてた奴には、いい気付け薬になる。そう思うと、口の端が勝手に吊り上がった。
ついでに、あいつの紅茶に落とす香り付けのブランデーも、特上を探しておく。
あいつの淹れる茶は——うまい。これだけは、認めざるを得ない。
約束は、ひとつでも多いほうが人は死ににくい。
◇◇◇
あの日の離宮は、空気からして湿っぽかった。夕立前の張り詰めた匂いが回廊の石に染み、窓の外の雲だけがやけに低い。
レズンブールと正面からやり合った。きっかけはリュシアンの稽古姿勢だ。俺は腰の浮いた砲架式構えを咎め、あいつは疲労を考慮した補正法だと言い張る。武人としての芯を叩き込むべきだという俺と、数字と記録で裏付けるべきだというあいつ。どちらも退かないまま、湿った風の中で火花を散らした。
そこへメービスが現れ、「文も武も両方を学ばせる」と一刀両断。俺たちは渋々引き下がったが、心の奥ではまだ燻っていた。苛立ちというより、譲れない筋が、胸の奥でまだ熱を持っていた。
だから、あいつを誘った。場所は離宮の書庫脇、人気のない小間。約束の乾杯を果たすためだ。
薄暗い小間は、紙と革の匂いがする。棚の隅に積まれた古い帳簿の埃が、呼吸のたび喉の奥へざらりと触れた。
小さなグラスに琥珀色の液体を満たすと、蒸留酒特有の鋭い香りが立った。鼻の奥が一瞬、きゅっと縮む。
伯爵はわずかに眉を動かした。
「男と男の約束です。受けましょう」
短く言って、一息に呷った。喉が鳴る音が、狭い部屋にやけに大きい。
「……灼ける」
俺はわずかに目を細める。香りの刃が、胃の底へ落ちるのを見届けてから、笑ってやった。
「どうだ、目が覚めたか?」
俺もグラスを軽く傾ける。蒸留酒の鋭い香りが鼻を抜け、腹の底まで火が下りていく。息を吐くと、胸の中の湿り気が少しだけ乾く。
「まさに殿下そのものの味といえましょう。とても刺激的だ」
伯爵は口元をわずかに緩め、視線をこちらに寄越す。笑うほどではない。だが、負けを認めた男の目でもない。
「だろう。俺はきっついぞ?」
冗談めかして言いながら、琥珀の液体をもう一口含む。舌に刺す熱は、さっきよりも少し柔らかく感じられた。たぶん、慣れたんじゃない。火を受け入れる覚悟が、先にできた。
「だが、それがいい。であればこそ、生きるとは楽しいのです」
伯爵は静かに頷き、再びグラスを持ち上げる。硝子がわずかに触れ合い、乾いた音を残した。
互いに笑って、そこからは多くを語らなかった。ぶつかろうが意見が合わなかろうが、約束は守る――それだけで十分だ。
ヴォルフは確かに、レズンブール伯爵に対して「まだ死なせるわけにはいかない」という旨の発言をしており、その理由として「酒を酌み交わす約束」を挙げています。
該当するシーンは、第十二章の「エピソード508:赦しの街路、希望の雪解け」に含まれています。ボコタの街でヴァレリウス参謀から伯爵の動向(自ら捕縛される道を選んだこと)を聞いた際、ヴォルフは以下のように語っています。
死なれては困るという発言
ヴォルフは、伯爵のことをまだ信用しているわけではないとしつつも、「とにかく、まだあいつを死なせるわけにはいかんのだ」と発言しています 。
酒を酌み交わす約束
その理由として、ヴォルフは「あいつとはまだ。約束した酒を酌み交わしていないからな」と語っています 。また、伯爵が淹れた紅茶を評価しており、「香り付けのブランデーは、俺が特上のものを用意しよう」とも述べています 。
ヴォルフは口では「まだ信用しているわけではない」と言いつつも、伯爵との間に芽生えた奇妙な友情や敬意を隠しきれていない様子が描かれています。




