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名前の奥で息をする

 六月の雨に濡れると、借りた名前まで重くなる気がした。


 傘を叩く雨音が、ふたりの足音を呑み込んでいた。湿った空気が首筋にまとわりつき、アスファルトは街灯の光を薄く返している。歩くたび、靴底の下で小さな水が跳ねた。


 道端の紫陽花の前で、足が止まった。雨を吸った花房は、手鞠みたいに丸く、重たげに首を垂れていた。青から紫へほどける色の境目が、濡れた夜の中でだけ、ほのかに明るい。


 気づけば、傘を持たないほうの手が伸びていた。


 人差し指の腹で、花弁の縁をそっとなぞる。水の膜が皮膚へ移った。触れる力をほんの少し間違えれば傷つきそうな、薄い花弁だった。綺麗だと思った。そう思っただけなら、誰にも見つからないはずだった。けれど、たぶん手つきがいけなかった。花に触れる角度。壊したくないものへ向ける目の温度。


 ――弟なら、こんなふうには触れないでしょうね。


「……どうしたの?」


 彼女の声に、手首の脈が跳ねた。慌てて手を引く。花房から大きな雫が落ち、靴の爪先に弾けた。彼女は傘の下で、じっとこちらを見ている。責める目ではなかった。ただ、見慣れないものを見つけたときの、かすかな戸惑いだけが瞳の奥に残っていた。自分ではない顔をしている。そのことを忘れそうになっていた。


「……別に。色が、ずいぶん鮮やかだと思っただけだ」


 声を低くする。喉を通る音は、私のものではない。そう言い聞かせなければ、雨に濡れた花を綺麗だと思っただけのことが、喉の奥にとげのように引っかかった。


「ふうん」


 彼女は唇をとがらせた。それから、ぱっと笑った。


「じゃあさ、今度、紫陽花がたくさん咲いてるところに行ってみない?」


 指先が冷えた。行きたい、と思った。彼女と並んで歩きたい。花を見て、雨の匂いを吸って、くだらないことを言われて、呆れたふりをしたい。そんな役にも立たない時間を、欲しいと思ってしまった。彼女の声は、私ではない名前へ届いている。頷く顔も、返事をする声も、借りたものだ。その場所へ、私の欲しさを混ぜてはいけない。


 紫陽花へ視線を戻して、関心のないふりで言った。


「べつに、俺は花に興味があるわけじゃない」


「あ、そうなんだ……」


 彼女の声から、すっと色が落ちた。傘の縁が下がり、表情が影に隠れる。雨音だけが急に大きくなった。


「そっか。残念だな。君と一緒なら、もっと綺麗に見えると思ったんだけど」


 胸ではなく、胃のあたりが冷えた。距離を置くべきだ。踏み込んではいけない。そう分かっているのに、彼女が身を引く姿だけは、どうしても見ていられなかった。


「あ、いや」


 言葉が勝手に出た。


「……お前が行きたいなら、付き合ってやってもいい」


「ほんと?」


 傘が持ち上がる。雨雲など知らない顔で、彼女は笑っていた。さっきの翳りは欠片も残っていない。最初からこの返事を待っていたような、悪戯っぽい光が瞳の奥で跳ねている。


 しまった、と思った。私の脆い拒絶など、彼女には初めから見えていたのだ。雨音の向こうで笑う彼女は、無邪気で、ずるかった。



 日曜日。


 山あいの寺に着いたころ、雨は上がっていた。土の匂いが濃い。濡れた葉の青さが息に混じり、石畳の目地にはまだ細い水が残っている。彼女は待ちきれない様子で、私の袖を引いた。


「早く行こうよ」


「待って。足元、滑るから」


 言い終える前に、彼女はもう参道へ踏み出していた。濡れた石の上を、軽く跳ねるように進んでいく。その背中を見ていると、胃の底に沈んでいた泥が、少しずつ薄まっていく。


 参道は、紫陽花で埋まっていた。青、紫、薄紅、白に近い淡い色。雨上がりの粒をまとった花房が、両脇から迫ってくる。重たげなのに、どの花房も内側に息を含んでいるようだった。


 彼女はひとつひとつに足を止める。きれいだね、と声を上げる。こっちの色も好き、と笑いながら、濡れた髪を指で払い、水たまりを避ける歩幅が弾んでいく。その何気なさが、まぶしかった。雨を雨として受け取り、花を綺麗だと言い、靴が濡れたことさえ笑い話にする。明日の予定を、当たり前みたいに楽しみにできる。


 私には、それがうまくできない。ずっと、返すことだけを考えてきた。弟の場所を弟へ戻すこと。その先のことは、考えないようにしていた。


 池にかかる古い橋の上で、彼女が振り返った。


「ね、来てよかったでしょ?」


 水面に紫陽花の色が映っている。波紋が立つたび、青と紫がほどけていく。


「……うん」


 素直な声が漏れた。


「とても綺麗だ」


 彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、喉の奥が詰まった。可愛い、と思った。


 橋の欄干に置いた手へ、濡れた木の冷たさが移る。私はそれを握りしめた。言葉にしないために。息の奥で生まれたものへ、名前を与えないために。


 彼女がスマホを取り出した。


「ね、写真撮ろうよ」


「えっ!?」


「記念だよ、記念」


 断る前に、彼女は隣へ寄ってきた。右腕が肩に回る。近い。近すぎる。布越しの体温が、借り物の身体の輪郭を曖昧にした。


 弟の肩なのに。そこへ触れられているのは、私だと、身体のどこかが間違えて覚えてしまう。


 シャッター音が、湿った空気を切った。画面を覗き込むと、引きつった私の不格好な顔と、満開の笑顔でピースをする彼女が並んでいた。


「あはは、なにこの顔」


 彼女は腹を抱えて笑う。


 耳が熱い。けれど目を逸らせなかった。画面の中で、彼女は笑っている。濡れた紫陽花の青と紫が、その肩越しに淡くにじんでいた。そこに並んでいることだけを、宝物みたいに笑っている。


 この時間を、失くしたくない。そう思った瞬間、息が止まった。私という存在は、この世にいない。彼女が呼ぶ名前の奥で、息をしているだけの亡霊だ。この顔も、この声も、この肩も、ほんとうは私のものではない。彼女の目に映っているのは、最初から私ではない。


 わかっている。


 わかっているのに、肩に残った腕の重みが、私自身の記憶になろうとしていた。


 そんなことを思う資格など、私にはない。弟の場所にいるだけの影が、彼女の笑顔の先へ残ろうとしている。いないはずなのに。


 明日がほしい。彼女の隣で、次の朝を待ちたい。


 その願いは、祈りではなかった。もっと小さくて、もっと卑怯で、捨てなければならないものだった。


 雨上がりの木々から、雫が落ちる。


 ひとつ。もうひとつ。


 画面の中の彼女は、まだ笑っていた。そこにいることを疑いもせずに。濡れた髪を指で払って、花を見上げて、きれいだね、と言うあの何気なさが、私にはいちばん残酷だった。


 消せなかった。


 スマホの画面も。


 肩に残った重みも。


 明日がほしいと思ってしまった自分も。

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