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過去外伝  藍色の静寂——ヴィルとユベルとカテリーナと

 羽根ペンを握るユベルの指先が、紙の上で震えていた。


 卓上のインク壺に逆さに映る横顔は、濃い隈に縁取られ、魔道ランプの煤けた灯りの下で焦点だけが頼りなく揺れている。前線を走り続ける男の顔だ。


「……あと三件か」


 掠れた独白は己を叱咤するように小さく、紙をめくる乾いた音にさえ押し負けそうだった。疲労の匂いが染みついた空気のなかで、ペン先が紙を削るカリカリという神経質な音だけが耳に残る。


 扉が、軋んだ。


「……茶だ。冷める前に飲め」


 肩越しに差し出された湯気が、ほんの一瞬、ユベルの眉間の皺を緩めた。熱い茶葉の香り。それがインクと古紙の匂いに混じり、澱んだ空気を解いていく。


「ヴィル、仕事は終わったのか?」


「帳簿なら昼間に片付けた。量は少ないが、さすがに数字が並ぶと頭が痛む」


 ユベルがペンを置き、振り返らないまま、視線だけをこちらへ寄越した。どこか遠くを見ているようで、けれど手近な温もりだけを求めている目だった。


「どうせまた端数を切り捨てたんだろう……。いいから置け。礼は言わんぞ」


「言われた覚えもない」


 ヴィルは素直に湯呑を置き、忍び足で背後に回ると、固く張った肩へ親指を沈めた。石のように硬い。これをこのまま放っておけば、翌朝の判断が鈍る。そういう硬さだと、掌が先に理解してしまう。


「ッ……だから余計なことをするなと言った」


「おまえがこわばっていると、兵まで固くなる。……副官である俺のためだと思え」


 反論しかけた唇が、すっと閉じられた。瞼がゆっくりと降りる。指圧の確かさを知り尽くしているがゆえに、抗う理由をひとつずつ手放していく。肩の奥で固まっていた筋肉が、ようやくほどけ始めていた。


◇◇◇


崩れる砦


 午前二時。丑三つ時。


 外の闇は窓硝子にべったりと張り付き、書類の山だけがランプの光に白く浮かんでいる。ユベルの瞼はとうに限界を越え、最後の一行を書き終える前に、机の上へと静かに伏した。


「……またか」


 呟きと同時に外套を剥ぎ取り、落ちかけた身体を抱き起こす。軽い。男の身体とは思えないほどに。意識は朧でも、身体だけは素直にその支えを受け入れていた。脚にかかる重みが、かすかに熱い。


 寝台までのわずかな距離を、壊れ物を扱うように運ぶ。靴を手際よく抜き、第一ボタンだけ外してやる。指に触れる布は冷たく、その下の肌だけが命の熱を帯びていた。


「昨日より軽い。……また昼を抜いただろ」


「ヴィルの癖に、いちいち細かい」


「細かくしないと、おまえが潰れるだろ」


 濡らした蒸し布を首筋に当てると、白い肌に滲んでいた紅潮が静かに退いていく。湯気がふわりと立ち、かすかな薬草の香りが冷えた室内にやわらかく広がった。


 ユベルが目を閉じたまま動かないのを確かめ、ヴィルは寝台の傍らに腰掛けを引き寄せた。膝に足を乗せ、足裏からふくらはぎへと掌を滑らせる。冷えと強張りを追い払い、朝の巡察で躓かない足に戻すために。


「……ん」


 漏れた息の深さに合わせて、力加減を微調整する。強張っていた筋がほぐれるにつれ、呼吸は少しずつ静まり、やがて寝息が穏やかな波のように落ち着いたころ――


「……すまん。いつも、任せきりで」


 とぎれとぎれの寝言が、暗がりにほどけた。本音か、戯言か。


 指が止まる。鼓動の音だけが、耳の内側でやけに近い。


「謝るくらいなら、明日はちゃんと昼を食え」


 言葉は届かない。届かなくていい。


 毛布を肩まで掛け直すとき、伸ばした指先が、名残のようにひと呼吸だけ遅れた。それもすぐ、ランプの影に溶けていく。


◇◇◇


扉の影


 部屋を出ようとしたとき、通路の曲がり角に若い騎士がふたり、壁にもたれてひそひそと囁き合っているのが目に入った。


 石床の冷たさが靴底越しにじんと伝わってくる。


「うちの副長だけどさ、翼長の部屋に毎晩のように泊まり込みしてるんだって?」


「ってことは、つまり……そういう仲ってことなんじゃ?」


「やっぱりか? だから翼長は独身貴族なんだ」


「じゃなきゃ、この時間に男の部屋から――あっ」


 闇の奥から長身の影が現れた瞬間、ふたりの背筋が凍りついた。足音が途切れ、廊下の空気がぴんと張り詰める。


「……消灯時刻はとっくに過ぎている。明日の巡察は倍だ」


「失礼しました!」


 慌てて小走りに去っていく背を見送りながら、ヴィルはひとつ肩を竦め、静かに扉を閉じた。


 誤解など好きに言わせておけばいい。あの男の肩に乗る余計な詮索がひとつ減るなら、それで十分だった。


◇◇◇


静けさの行き先


 夜明け前。


 まだ薄闇の残る自室で、ヴィルは苦手な帳簿をもう一度広げた。窓枠からしみ込む朝の冷えが、指を少し痺れさせる。


 数字の列が滲むたび、幻聴のように「また間違ってる!」という声が蘇る。


 あいつの声だ。それでも、ペンを置く気にはなれなかった。


 ――俺があいつにしてやれることは少ない。剣を振るうことと、こうして泥を被ることくらいだ。


 だからせめて、あいつの抱えた空白をひとつでも埋めたい。たとえ明日、訂正印で真っ赤にされようとも。


 紙面に、藍色の静寂が少しずつ沈んでいく。ユベルという今にも崩れそうな柱を支えるための、名もない礎石として。副官として背中を支えると決めた以上、名も形も要らない。その感覚だけが、やけに確かだった。


◇◇◇


朝の廊下


 陽がまだ白い息の中に溶けている頃、廊下の先に細い影がひとつ立った。


 肩に濃紺の薄手のマントを掛け、髪先に夜露を抱いたままのカテリーナだ。丸い銀縁の眼鏡の奥には、硝子細工のように整った顔立ち。口をきかなければ、絵画から抜け出した姫君のよう――口をきかなければ、だが。


「……また泊まり込みかい。あんたも物好きだねぇ」


 からかうような口調。けれど、その底には冷たい刃が見え隠れしている。


「翼長に倒れられては困る。副長として、当然の務めだ」


 歩調を崩さずそう答えると、彼女はすっと真横に並び、冷えた硝子のような視線を横顔に寄越した。


 マントの裾が揺れ、布に染み込んだインクと薬草の匂いが、朝の冷気の中で香った。


「ねえ、あんたにとってあの人は何なの?」


「……何、とは?」


「とぼけないで。あたしが知りたいのはそこなの」


 足が半歩だけ止まる。袖口越しに視線が絡む感覚があり、丸いレンズが朝の淡い光を鋭く弾いた。


「守るべき上官だ。それ以上でも以下でもない」


「嘘。あんた、あの人の前だと目の色が変わる」


 カテリーナの声が、低く尖った。眼鏡の奥の瞳が、探るように細くなる。見透かされている。この女には、何もかも。


「あの人がまっすぐ前だけ見ていられるように、周りを片付けてるんでしょ。自分を使い潰してでもさ」


「……くだらん。ただの仕事だ」


「仕事ね。――あたしにはそうは見えない」


 その先を飲み込んだ唇が、苦笑に似た形で緩んだ。レンズの縁だけが光を残し、彼女はくるりと踵を返す。


「まあいいわ。あんたがそう言うなら、そういうことにしておく」


 残された空気には、濃紺の布から移ったような微かな染料の香りだけが滲んでいた。


◇◇◇


昼の会議室


 カテリーナは議場で、いつもどおりユベルの隣に座った。


 レンズ越しに覗いたその横顔は、昨夜の疲れをどこかに置いてきたように見えた。憑き物が落ちたような、そんな顔。額の皺がほんの少し伸びている。硬かった肩も、今朝はどこか力が抜けていた。


 誰がそうさせたのかなんて、訊くまでもない。


 議事が淡々と進むなか、カテリーナは手元の資料に目を落としたまま、奥歯を嚙みしめた。


 ――羨ましい。


 どれだけ言葉を尽くしても、ユベルは自分を「腕のいい情報屋」としか見ない。肘で突いてからかう相手。それ以上には、なれない。舞台袖からの傍観者だ。


 けれどヴィルは違う。あの無骨な男は、ためらいもなくユベルの内側に踏み込める。あのふたりの間には、誰も入れない。空気さえも。


 ――自分があの人の隣に立てる方法など、たぶんない。


 だからこそ、外から手を貸すことにした。情報という武器で、あの男たちの道を拓く。それが自分に許された場所だと、もうずいぶん前に決めていた。


 そのときだった。議長の声が途切れる一瞬、ユベルが視線を横に滑らせ、隣のヴィルを見た。言葉も交わさず、ただ、目だけで。


 刹那、目元がわずかにほどける。その変化を受けたヴィルの表情は動かない。


 カテリーナは資料の縁をそっと爪で撫でた。レンズの内側だけが、ほんの少し曇っている。


 ――ああ、やっぱり。


 この先も、あの人の背中を守るのは自分ではないのだろう。ただ、幕が下りるまで見届ける。その特等席だけが、自分のものだった。


◇◇◇


会議後の廊下


 議場の扉が静かに閉まり、人のざわめきが石壁に吸い込まれていく。靴音だけが残った廊下を、窓枠から差す昼の光が一筋、白く照らしている。


「……助かった」


 背後から呼び止める声。振り向けば、書類を抱えたユベルが、少しだけ肩を落として立ち止まっていた。紙束の端がわずかに震えている。


「何がだ?」


「おまえが横にいると、妙な間が空かない。……正直、あの空気が一番堪える」


 それだけ言って、小さく息を吐いた。胸の奥に溜めていた何かを、ほんの少しだけ吐き出したような音だった。


 弱音を吐けるのは、ここだけなのだろう。


 光の射し込む窓辺で、ユベルは束の間、まっすぐに視線をこちらへ向けた。昼の陽が瞳に映り、唇の端が持ち上がる。昨夜、寝息の合間に見せたあの柔らかさと同じ温度が、その表情に宿っていた。


「……ところで、昼は食ったか?」


 問いかけると、ユベルは片眉だけ上げた。


「おまえこそ」



 すれ違いざま、袖がかすかに触れる。布の擦れる音だけが一瞬、残った。


 この感覚を何と呼ぶのか、ヴィルにはわからない。ただ、この男のために剣を振るい、この男の眠りを守ると決めた夜から、胸の底に誓いの錨が降りている。


 名も形も要らない。ただ、隣を歩き続けるだけだ。

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