剣バカ不器用旦那――ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
――ヴィル・ブルフォード手記(封蝋済み・王宮地下書庫に秘匿)
地下書庫は、いつも蝋と石の匂いがする。湿りを含んだ冷気が指先にまとわりつき、封蝋の赤だけが、妙に生きて見える。
あの女の不思議は、どれだけ一緒にいても飽きるどころか、むしろ深まっていくところだ。
公の場では、俺が舌を巻くほど堂々としている。剣を取れば俺の隣に並んで戦場を割り、議場に立てば、百戦錬磨の老獪な貴族どもを理屈一つで黙らせる。あれを見たら、誰だって「この女は何も恐れぬ」と思うだろう。
だが、扉が一枚閉まれば、その姿は跡形もなく消える。残るのは、顔まで隠して恥ずかしがり、遠慮がちに袖を引く――そんな、やけに奥手な女だ。
袖を引く時も、決して力を込めない。ほんのわずか、指先が布をつまむだけだ。その微かな引きで俺が気づくのを、ちゃんと信じ切っている。振り返れば、あどけないくらいにまっすぐな瞳で俺を見上げ、唇だけで「……いっしょにいて」と形を作る。声は出さない。その遠慮深さが、かえって胸の奥を詰まらせる。
夜になると、本気で顔を枕に埋め、声を殺し、少しでも意地悪をすれば涙をためてシーツをかぶる。
「やだ、もう死にたい」なんて、子どものような言葉を震え声で吐く姿を見たら……冗談抜きで、調子に乗った自分を殴りたくなる。
その時、覆いかぶさるシーツの隙間から覗く瞳は、悔しいほどに濡れていて、光を拾って震えている。戦場の鋼の視線とはまるで違う、俺だけが知っている目だ。
最初は戸惑った。だがな、気づいたんだ。その恥じらいや不器用さは、俺にしか見せていない。あの女は、そういう弱いところを、俺にだけ預けてくれている。
たとえば、廊下ですれ違う時。外套の端を、ほんの一瞬だけ握ってくることがある。すぐに手を離すが、その一瞬の温もりが、あとになって遅れて戻ってくる。指の腹に残るのは布の感触だけのくせに、妙にしつこい。
食事の席でもそうだ。公の場では絶対にしない小さな笑みを、俺にだけ向けてくる。誰にも見せない柔らかい目尻で、静かに「おいしいね」と囁く声が、やけに耳の奥へ残る。笑い声を上げないのが、あいつらしい。
呼ばれる時の声も。公務中はきっぱりとした呼び方しかしないくせに、部屋の奥から背中越しに呼ぶときだけ、妙に柔らかい。
「……ねえ」と短く落とす声は、頼みごとがある時。
「……あのね」は、少し迷っている時。
そしてもぼそっと「……ヴォルフ」は、照れ隠しをしている時だ。声の端がかすかに笑っていて、振り返る前から、こちらの頬が熱を持つ。
俺が執務机に向かっているとき、彼女が横に立って書類を見下ろすふりをしながら、足の先で俺の椅子を軽く突いてくることがある。言葉ではなく、その小さな合図だけで「そろそろ休みましょう」と伝えてくる。
俺が顔を上げると、ほんの一瞬だけ目が合って、すぐ逸らす。その目の端に、いたずらを仕掛けた子どものような光が揺れるのを見ると、どうしようもなく甘くなる。
こうして書き並べてみれば、どれも小さなことばかりだ。だが、それらは俺の中では全部、戦場で得た勲章より重い。
この女は、公では俺と同じ高さで立つ。だが私生活では、控えめで、恥ずかしがりで、ちょっといじると涙をためる……そんな姿を俺にだけ見せてくれる。
こんな相手は、生まれて初めてだ。
俺にとって「楽」ってのは、気を使わずに済む女と酒を飲むことだと思っていた。だが今は違う。こいつと一緒にいると、楽なのに、心が満ちる。落ち着く……というのとも違う。胸の底の固いところが、ゆっくりほどけていく感じだ。
だから、どんな時でも守りたくなる。戦場で剣を合わせる時も、部屋の中で小さく肩を寄せてくる時も、だ。守りたい理由なんて、いくつでも挙げられるが、結局のところ、全部同じ場所に行き着く。
――この可愛さを、他の誰にも見せさせたくない。
だから俺は剣を取る。戦場でも、静かな寝室でも、あいつの笑みとその可愛さを護るためなら、俺は何度でも立ち上がる。それが、俺にとっての生きる理由だ。
この瞬間を知ってしまったから、もう二度と手放せない。
……ただ、この手記が万が一本人に読まれたら、間違いなく枕で百叩きの刑に処されるだろう。いや、その前に顔が真っ赤になって部屋から飛び出すかもしれない。
――だからこそ、この封蝋は絶対に解かれてはならん。
……と、ここまで書いたところで、背後にかすかな気配を感じた。
乾いた羽ペンの擦れる音が、途中で止まる。
「……ふぅん?」
肘をついたまま固まった俺の首筋に、冷えた空気がすう、と落ちた。
「百叩きどころじゃ足りないかもしれないわね」
……その瞬間、俺は戦場より危険な戦いに足を踏み入れたと悟った。
――封蝋? そんなもの、最初から守られていなかったらしい。




