第101話 ラピスラズリ
とめどなく泣き続けていた少女は、いつしか力なく寄りかかってきていた。
滑り落ちていきそうな身体を支えるため、キョウヤは静かに彼女を抱き寄せる。
零れるのは涙ではなく、穏やかな寝息。どうやら緊張の糸が切れてしまったようだ。
「……どうしろと」
致し方なかったとはいえ、こんな状況に陥るのは想定外だった。
互いに座った状態であるため、全体重を乗せられているわけではない。
だが、二つの膨らみは嫌でも圧を伝えてくる。意識してしまう己がすこぶる気色悪い。
「キョウヤ……何をしてるの……?」
顔を上げれば、そこにはゴミを見るような目。この痛い視線を向けられるのは何度目だろうか。
「いや……ミレイ、これは違うからな」
「うんうん、お楽しみだったね」
「待て、話を聞いてくれ」
「後でね。どうぞごゆっくり」
この世界は不条理だ。これは紛れもない事実である。
女神だけではない。小さな天使でさえ、今は微笑みを浮かべることなく去っていく。
クロエが目を覚ましたのは、それから間もない頃だった。
胸の中の彼女が動く気配を察知した次の瞬間、勢いよく突き飛ばされていた。
まるで意味が分からない。全くもって理不尽である。
「あ、あの……す、すみませんっ! 私、いつの間にか……」
「……構わないよ。色々あって疲れていたんだろう。君は辛い選択を迫られているんだから、落ち着いていられる方がおかしい」
なんだか早口になってしまったが、変なことは言っていないはずだ。
視線が彼女の胸元に向いたのを即座に修正する。多分、気付かれてはいない。
「先輩は冷静なんですね」
「ごめん。俺は元々あまり期待していなかったから、そこまで気に病んではいないんだよ。さっきのは無責任な発言だったと思う。だけど、クロエに会えて良かったというのは嘘じゃない」
思いの内を淡々と告げる。こればかりは隠しても仕方がないことだった。
「そう、なんですね。もちろん、私も再会できたのは嬉しく思っています。ただ、母のことを考えると……」
「母、か」
そういえば、友人との再会ばかりを考え、家族に対して思いを募らせることはなかった。
両親は口を開けば仕事の話ばかりで、放任主義というか無干渉に近い状態だったから。
ミレイはその逆だと言っていた。そして、クロエもまた厳しい環境に身を置いていた。
「たしか、ずっと前に話しましたよね。私の両親は仲が悪くて……」
「もちろん、覚えているよ」
彼女の両親は、特に父親の方に問題があったらしい。
虐待とまではいかないが、母親とクロエ自身に対する当たりが強かったと聞いている。
「半年ほど前から母と二人暮らしなんです。経済的に厳しくなったので、ゲームとは距離を置くことになりました」
「そうか。現実を優先したんだな」
「はい……また先輩と話をしたら、迷いが生じてしまいそうだったんです」
ある時から急に連絡が途絶えた理由をここに至って察した。
献身的な彼女のことだから、母親に楽をさせるために欲を捨て去ろうとしたのだ。
それでも、完全に忘れることはできなかった。ずっと自分を抑えてきて、さぞ辛い思いをしていたに違いない。
「戻らなければいけないと分かってはいます。それなのに、死ぬのが怖いんです。この世界のことも、忘れたくありません。先輩と二度と話せないなんて、そんなの嫌です……ッ!」
クロエはとてつもない苦境に立たされている。理解できるなどという言葉は傲慢でしかない。
ゆえに今の自分にできるのは、少しでも彼女の苦痛を和らげることだけだった。
「別に、今すぐ決断する必要はないんじゃないか」
「先延ばしにするってことですか……?」
「そうだ。幸い、時間の流れはこの世界の方が約50倍早いらしいからな」
「そんなの、信じられませんよ……」
確かに途方もない話だ。簡単に受け入れるのは難しい。
だが、頭の中では既に仮説が立っていた。あとは裏付けを取るだけで良い。
「クロエ、一ついいか。君が転生させられたのは、夜といっても日没から間もない頃じゃないか?」
「あ……はい、私の記憶が正しければ。どうして分かったんですか?」
「俺は翌朝の七時台だ。君がこの世界で一か月弱過ごしていたなら、それで辻褄が合う」
「ええと……すみません、よく分かりません」
クロエは疑問符を浮かべている。まだ頭が混乱しているのだろう。
「簡単な計算だよ。仮に転生に12時間の差があったとして、50倍すれば600時間。この世界で25日経っていることになる」
「な、なるほど……」
彼女は先行して《オルストリム》に到達し、ランク3に昇級していた。その期間に大幅な食い違いはない。
正確な時間が不明であるため、多少の誤差はあるだろうが、概ね間違ってはいないはずだ。
「だから女神の言葉の信憑性は高い。こっちで一年近く過ごしても、向こうではたった一週間しか経過しないんだ」
「この状況でそこまで頭が回るなんて、先輩はやっぱり凄いですね……」
ただの小賢しい人間でしかない。結局、こんな方法でしか彼女を元気付けることができない。
「それから……ふざけた性格だけど、転生させる力を持つような神だ。彼女の望みを叶えてやれば、俺たちの願いに応えてくれる可能性はあるんじゃないか」
「願い、ですか……?」
「クロエの場合は、記憶を保持したまま帰してもらう。それなら死ななくて済むし、一緒に過ごした思い出が消えることもないよ」
所詮は希望的観測にすぎない。詭弁でしかないかもしれない。
でも、そんな未来があっても良いと思う。この世界で生きていること自体が奇跡なのだから。
「先輩、それは楽観的すぎますよ?」
「フッ、俺は意外と前向きなんだよ」
顔を綻ばせていたクロエに対し、軽くおどけてみせる。途端、彼女は耐え切れずに吹き出した。
ようやく笑顔を取り戻すことができた。やはり彼女は朗らかな後輩キャラがよく似合う。
「私、決めました。瑠依には少しの間、眠っていてもらいます」
「……るい?」
「黒江というのは母方の姓なんですよ。黒江瑠依、これがもう一人の私の名です。でも今はただのクロエとして、この世界に……現実に抗ってみせます!」
クロエの凛とした声が響き、陰鬱とした雨音が掻き消される。
その青い瞳に一切の陰りはない。彼女はもう一度こちらを見つめた後、宝石のように美しい笑みを浮かべてみせた。




