逃げ道
愛音の触手が、空に向かって伸びている。その触手がまた触手を掴んでいて、繋がった先の触手に引っ張られる形で愛音は飛び上がったのだ。
ジェットコースター等の絶叫マシン以外で、生身でこんな高さまで飛ぶのは初めての経験だ。
ここからだと見慣れた町の風景が全く違く見える。
「逃がすか!」
石塚が、飛び上がった私達に向かって発砲して来た。
だけど狙いは定まらず、当たらない。当たりそうになっても、愛音が触手で弾いてくれる。
弾きながら最高到達点に達した所で、浮き上がる力と重力が拮抗し、一瞬停止した。
その時、胃の中の物が一気にこみ上げて来た。きっと勢いよく浮き上がり、胃の中がシャッフルされたせいだ。
というか元々ガスをくらって気持ち悪かったので、胃の中からこみ上げて来る物が我慢できない。
「──おえええぇぇぇぇ!」
という訳で、私は地面に向かって盛大に吐き出した。
吐しゃ物は空中でバラけながら、地上へと注いでいく。その地上には石塚達がおり、彼等に私の吐しゃ物がかかる事となってしまった。
「うお、きったねぇ!」
石塚が、かかった私の吐しゃ物を避けようとするも、服にかかってしまっている。秋月達にもかかっているけど、こちらは石塚よりは冷静だ。私服じゃないし、ヘルメットを被って完全防備状態だからだろうか。
「へへ……ざまぁみろ……」
ガスを吸った影響か、苦しく、意識が朦朧とする。
そんな状態ながらも、眼下で狼狽える石塚を見て私はそう呟いた。
「咲夜。もう少し揺れる。我慢して」
愛音が言うと、その瞬間別の方向に引っ張られて飛んで行き、私は愛音に抱きしめられたまま公園横の民家の屋根の上に着地する事になった。
「お待たせ。少し遅れたかしら?」
「和音さん……!」
屋根の上には和音さんが立っていて、身体から触手を伸ばしている。
愛音はその触手に引っ張られる形で空を飛び、この屋根の上へと着地したのだった。
実は、石塚に会うにあたって和音さんにも協力を要請していたのだ。多勢に無勢を、少しでも解決するためだ。
危険だし、和音さんを巻き込んでしまう可能性が大だったのに、電話で愛音に頼まれた和音さんは即答で承諾してくれたのが印象的だった。その援軍が遅れてやって来て、私達の窮地を救ってくれたのだ。
もう、女神さまに見える。
「少し遅かったわね」
「こっちも愛音のせいで人化生物対策課の連中に目をつけられてて、身を隠してたのよ。そこへ石塚と会って桜さんのお母さんがどうなったのか確認したいから協力してなんて言われて、急いで駆け付けたっていうのに、文句を言われる筋合いなんてないと思うけど」
「分かってる。来てくれてありがとう、ママ」
愛音にお礼を言われると、和音さんは満足げに笑顔で頷いた。
でもすぐに笑顔は崩れ、少し悲し気な目で愛音を見つめる。
「あの殺虫剤、かなり強力な物みたいね」
「……」
愛音は声を出さず、静かに頷く。
だけど、結局愛音を死には追いやる事は出来なかった。食らった時はかなり苦しそうだったけど、今は割と普通だ。
……いや、少し汗が出ている?それに顔色も悪いような気がする。
そう見えるのは、私自身も体調が悪くて視界が定まらないからだろうか。
「撃て撃て!殺虫剤もどんどん使え!化け物を絶対に逃がすんじゃねぇ!あと、応援はまだか!?」
家の屋根にいる私達に向かって、石塚の仲間達が銃を構えて発砲して来た。発砲しながら、殺虫剤まで投げつけて来る。
このガス、吸った人間もかなり体調が悪くなるのに、お構いなしだ。オマケに民家に向かって銃まで発砲して来るんだから、全くなりふり構っていない。
「とりあえず、移りましょう。捕まって」
和音さんが私と愛音を触手で掴み取ると、屋根からジャンプして一気に三軒隣の家に着地した。おかげで飛んできた銃弾もガスも食らわずに済み、一旦危機が去った。
でもすぐに狙いがこちらへ変わったので、本当に一瞬の安地だ。
「状況はかなり悪いみたいね。そこら中から彼らの仲間が集まりつつある。殺虫剤がある限り、普通には逃げきれない」
和音さんの言う通り、そこら中からサイレンの音が聞こえて来る。サイレンはこちらへと近づいていて、石塚の援軍が接近している事を意味しているのだと思う。
「私が引き付けるから、ママは咲夜を連れて──」
自分を犠牲にして、私達を逃がすと提案しようとした愛音の口を、和音さんが手で塞いだ。
「娘にそんな事させる訳ないでしょう?その役目は、私が請け負う」
「……私達は本物の親子じゃない。人の皮を被った、人のフリをするただの化け物なのよ。身を挺してまで守られる筋合いもない」
「本物じゃなくても、娘を愛しているという気持ちは受け継いでいる。こんな毒親だけど、娘を守るためなら死んでもいい。その強い意志は、七瀬 和音と言う人間を継いだ私の中でも変わりそうにない。私じゃなくて、七瀬 和音という人間が娘である貴女を守りたいと言っているの。滑稽かもしれないけど、今は甘えておきなさい」
「だ、ダメ、です……。せっかく来てくれたのに、こんな事になって和音さんまで死んじゃうなんて、そんなの嫌……!」
発端は、私の我儘だ。
石塚に捕まったお母さんが、無事であるはずがないと分かってはいても、確かめずにはいられなかった。そのせいで愛音を巻き込み、和音さんまで巻き込んだ。
殺虫剤が効かないならなんとかなると、そんな甘い事を考えていた私のせいだ。
「大丈夫よ。私は死なない。貴女のお母さんも死なない。愛音は、あなた次第。それじゃあ、娘をよろしくね」
「まっ──」
止めようとしたけど、和音さんは屋根から飛び降りてしまった。伸ばした手は当然届く事はなく、空を切って虚しさが残る。
屋根の下では石塚達が追い付いてきており、和音さんに向かって発砲したり、煙を吐くスプレーを投げつけて来ている。更には屋根の上に残った私と愛音にも、同様の攻撃を仕掛けようとしている。
「私達はこっちよ」
愛音が、私を抱いて来た。
そして和音さんとは反対側に飛び降りて、愛音と手を繋いだまま地面を駆け出す。
泣きたいけど、泣いている場合ではない。和音さんが私達のために作ってくれた退路を、私は全力で走っていく。
本当は、フラフラだ。だけど少し時間が経過したおかげか、もう吐き気はない。前にくらった殺虫剤よりも回復が早いのは、改良版なおかげだからだろうか。人には効きが弱くなり、化け物には効きが強くなっている。そんな感じがする。
「ごめん……ごめんね、愛音」
「咲夜のせいじゃないし、謝る必要もない。今は逃げる事に集中して」
「うん……だけど……」
サイレンの音が、迫っている。
私と愛音は立ち止まり、逃げ道を探すもどこへ行っても同じだ。私達は、包囲されつつある。そう気づいて、走るのが無駄だと悟った。
「包囲されてるわね。もうどこへ行っても、無駄そう」
「せっかく和音さんが逃げ道を作ってくれたのに……!」
「……静流が咲夜を連れ去った場所、覚えてる?」
「え?」
包囲されそうだというのに、愛音が突然そんな事を聞いて来た。
「答えて」
「病院の下にある、下水道?」
「そう。下水道」
答えつつ、愛音が足元にあるマンホールの蓋を、触手で取り外した。
「新種の化け物達が、隠れ家として利用していたくらいだもの。きっと地下には新種の化け物達しか知らない道があるはずよ。もし本当にそんな道があれば、上手く使えばこの状況を脱する事が出来るかもしれない。この話に乗る?」
「……乗る。行こう」
どの道他に通れる道はない。
ならばと愛音の提案に乗り、私は愛音の手を取って便臭が漂う空間へと足を踏み入れた。




