197 ヴィムの指針、ラーラとの対峙 ②
「……僕、なんとか中に入ってヘルムート様に会ってきます!」
「え……ヴィム?」
そっとしておけと言ったのに、それに反して鍵のかかった扉を開こうとノブをつかんだヴィムに、ラーラがとても驚いている。
この青年は、ヘルムートの側近らの中でもとりわけラーラに弱い。
元孤児であったせいか、彼を拾って側に置いたヘルムートへの依存心が強く、彼が大切にする妹には特に従順。その素直な瞳の中には、いつでも彼女に対する憧れがあって、呼べば嬉しそうに駆け寄ってくれた。
ゆえにラーラは、彼が自分の言葉にならなんでも従ってくれると思っていた。
けれどもそんなヴィムが、今は彼女の意向に逆らっただけでなく、まるで別人のような気迫で兄の部屋をこじ開けようとしている。
両手でドアノブを握り、壁に片足を踏ん張って。真っ赤な顔で戸口を割ろうとする姿を見て、ラーラは唖然。
「っ! っ! っ! あ、開かない……! あ、そうだ! 隣の部屋の窓伝いに外から──」
まるでそこに彼女がいることすら忘れているようだ。必死な青年は、そう言って今にも駆けだしていきそうで。しかし、窓伝いといってもここは二階。高さもあるし、窓と窓の間は離れている。ラーラは堪らず両手で青年の手を取り引き留めた。
「やめておきなさいったら! ヴィム、そんな危ないことまでする必要ないわ!」
「え……」
落ちれば怪我をするとラーラが止めると、ヴィムは、でも……と、困惑顔を彼女に向ける。
「壁には少しでっぱりがありますし……」
そこを足場にしたら僕でも行ける気がする、と、主張するヴィムに、ラーラは「危ないわ」と首を振る。
「いいのよヴィム。お兄様はきっとただの失恋よ。誰もが通る道だもの。時間はかかっても、いずれきっと立ち直ってくれるはず」
自分だって想いを寄せる王太子に距離を置かれて心から傷ついた。でも、そんな話は巷にあふれているではないか。
世間にも、書物の中にも、男女の愛や別れはありふれている。
思いが通じぬつらさや、渦巻く嫉妬。それらに感情が揺さぶられることは、きっと誰にも避けられない。だったら兄だって、どん底から立ち直るべきなのである。
(あんな非常識な娘を自ら選んでしまったのだから、遅かれ早かれこうなっていたわ……)
ラーラは高慢なイザベルの顔を思い出しながら静かに憤る。
もちろん兄を傷つけた彼女は許せない。兄が苦しんでいることもつらい。
でも、きっとこれでよかったのだと思った。
イザベルは見るからに勝気でわがままそうだった。あんな令嬢が相手では、いくら兄が優しくても関係は長続きなどしなかった。それを兄だって、落ち着けば自ら理解するはずである。
「……だからヴィム、今はお兄様を信じてそっとしておいてさしあげま──……」
一人納得し、そう続けようとしたラーラは、ヴィムを見て言葉を切る。
彼女を見つめるヴィムの目はあらん限りに見開かれていた。
「っ失恋⁉」
愕然とした叫びに、ラーラが瞳を瞬いている。
ヴィムの声には「そんな馬鹿な」という響きが露わだった。
ヘルムートが失恋するとしたら、相手は一人しかいない。その人物と主との関係を一番近くで見てきたヴィムは、力いっぱい否定した。
「そんなはずありません! ヘルムート様とステラさんが破局するなんて──そんな──そんなこと……絶対ないです‼」
「……ぇ……?」
この渾身の叫びを聞いて、今度はラーラが瞳を見開く。
「あのお二人は誰がなんと言おうと相思相愛です! 失恋なんて! 絶対に! ありえない!」
……なんだか若干キレ気味の反論である。
気弱なはずのヴィムをここまで憤慨させるのは、彼のその二人に向ける敬慕ゆえだろうが。地団太まで踏みそうな全力の否定を目の当たりにしてラーラは口をつぐむ。しかし、その沈黙は戸惑いに満ちていた。ヴィムに怒鳴られたことにも驚いたようだが、それ以上に彼が口にした名が不可解だった。
「………………“ステラ”……?」
ラーラはちょっと待ってと、怪訝そうに眉をひそめる。
「ステラって……? ステラって誰? お兄様のお相手は……イザベル嬢ではないの⁉」
「絶対そんなっ──……へ……? イザベル、様……?」
ラーラに険しい顔で問われ、ヴィムがぽかんとした顔をする。
何故ここで彼女の名前が出てくるんだろうというその反応が、ラーラに自身の勘違いを悟らせた。ヴィムを凝視する顔に、じわじわと驚愕が広がる。
「……違う、の……?」
「ラーラ様……⁉」
瞬間、よろめいた彼女をヴィムが慌てて支える。
その事実は、ラーラをとても混乱させた。
「お兄様のお相手は……イザベル嬢では……ない……?」
ある日侯爵邸にやって来て、今は兄が密かに用意した家に住んでいた彼女。
家族が皆、庶子である自分を除け者にして、兄の恋人を家に迎え入れたのだと思っていた。
兄が自分が苦しんでいるときに、侯爵邸で恋人と逢瀬を楽しんでいたのだと思っていた。
そして兄は彼女に家を与えたにもかかわらず、その恋人イザベルは兄の怪我のことも思いやらず、ラーラのことも侯爵家の庶子だと侮っているのだと……思い込んでいた。
その誤解を察し、芋づる式に自分の間違いに気づいていったラーラは絶句。
あのイザベルが兄の恋人ではなかったのだとしたら……彼女はまったく見当違いの相手に対してケンカを売りに行ったことになる。その時のイザベルの不審そうな顔を思い出すと、ラーラは顔から火が出るほどに恥ずかしかった。
(そ……そんな……全部わたしの勘違いだったの……? では……わたしはあの子に謝らなくてはならない……)
そう思いはするものの、でも、素直には謝りたくない気持ちも湧く。
勘違いした自分ももちろん悪いが、イザベルが高慢で喧嘩上等な態度を自分に取ったことは事実。
対外的に言えばラーラの家柄のほうが上のはずなのに、礼儀も何もあったものではない対応を思い出すと……やっぱりあれは失礼だったと思う。……でも、あんなふうに勘違いで詰問などしてしまったのなら……謝罪は絶対にするべきだろう。
(なんてこと……)
ラーラは失意した。その苦悩が、つい恨み言となって口からもれる。
「……何故、もっと早く教えてくれなかったの……?」
「え……?」
「もっと早くお兄様のお相手のことを教えてくれていれば……わたしもあんなことしなかったのに……!」
嘆いて顔を両手で覆ってしまった令嬢に、寄り添うヴィムは困惑。あんなことってなんだろう? と、怪訝に思うが、ここで彼はハッと気がつく。
(あ……し、しまった……)
ステラ──グステルのことは、誰にも話してはならないとヘルムートに固く命じられていたのだった。
それを思い出したヴィムは、やってしまったと青ざめる。そんな彼を、小刻みに震えながら項垂れていたラーラが、顔を上げてキッと睨んだ。愛らしい顔が悲憤に歪んでいる。自分に対する失望に苛まれ、感情を吐き出すことを止められないという顔に見えた。そんな彼女の表情をはじめて見たヴィムは、驚いて身を強張らせる。
「では……全部その女性のせいだったということよね⁉ 今お兄様が落ち込んでおられるのも、以前お怪我をなさっていたのも全部⁉」
「あ、の……ラーラ様、それは……」
「今度こそちゃんと教えてヴィム! その“ステラ”という、お兄様を傷つけたひとは今どこにいるの⁉」
燃えるような瞳の令嬢を見て、ヴィムはこれはただ事ではないと慌てる。
「ま、待ってくださいラーラ様! 失恋なんていうのはきっと何かの間違いだと思いますが……以前ヘルムート様がお怪我をなさったのは、ヘルムート様ご自身があの方を助けたいと望んでそうなさったんです。だから……」
ステラが悪いわけではない、と、続けようとするヴィムを、ラーラはとても納得できないという顔で反論。
「でもお兄様が怪我をしたのは事実よ。大事なお兄様を傷つけられて、妹のわたしは怒ってはいけないの⁉」
「それは……」
ヴィムは令嬢の怒りのまなざしに口ごもる。
確かに、愛する家族を傷つけられれば誰しもが怒って当然だろう。
でも、と、ヴィムは、ラーラの顔をじっと見る。
彼はずっと彼女のことを見てきた。そんなヴィムからすると、こんなのは、まったくラーラらしくないと思った。
彼女は少し兄や自分たちにわがままを言うことはあっても、感情豊かで、優しくほがらかな令嬢だった。
腹違いの弟たちの面倒もよく見て、ヴィム自身も、彼女の明るさと愛らしさになぐさめられることも多かった。
そんな彼女の、この感情的な表情を見て彼は思い出していた。
誰にでも、やりすぎて相手を困らせてしまうことはあると言った人の言葉を。
──そういう時は、誰かが叱って、やりすぎですよって教えて差し上げればいいのでは……?
少し困ったような顔で微笑んで。力一杯感情を表現できるラーラも素晴らしいと言ってくれたグステルを思い出して。ヴィムは、思い切って口を開く。
「……ラーラ様。お兄様を心配なさるお気持ちは分かりますが、ステラさんに怒りを向けてはいけないと思います」
そう彼が慎重に言うと、ラーラの瞳が大きく見開かれた。いつになく迷いのない瞳で自分を見る青年に戸惑っているようだった。
ヴィムは、背筋を伸ばし真っすぐに彼女を見る。彼女に意見するなんて初めてのことで、まったくうまく言える気がしなかったが、でも伝えておくべきだと思った。
「あの方は、ヘルムート様の大切なお方です。御身を差し出してでも、彼女を守りたいと思ったお兄様の気持ちをぜひ汲んで差し上げてください」
「だけど……!」
「ラーラ様、あの方とのことはヘルムート様の私事です。それはたとえ妹君でも、踏み込み過ぎてはいけないと思います。大事なお兄様の気持ちなんですよ?」
そう言うと、ラーラは拳を握ったまま無言になった。ヴィムは「それに」と続ける。
「今はヘルムート様のことを心配するのが先です。大事だとおっしゃるなら、そっとしておくなんて言って放っておかないで、しっかり兄君の様子を確かめるべきです。僕には何故ヘルムート様が閉じこもっておられるのかは分かりませんが、きっとそうなさりたい何かが起こったはずなんです。なら……それが何か知らなければ、僕は……とてもではないですが、安心できないです」
きっぱり物申されたラーラは、顔をカッと赤くしてうつむいた。それは、兄の恋人に対して感情的になどなっている場合ではないとたしなめられたも同然だからだ。
まさかこの気弱な青年に、こんなにはっきり叱られるとは思ってもみなかったラーラは驚きと恥ずかしさで顔を上げることができない。
「……わ、わたしは……」
ラーラはそれきり黙り込んでしまって。ただ立ち尽くす姿を見たヴィムは、言い過ぎだっただろうかと少し心配になる。でもやっぱり彼は、彼女がグステルを悪く言うのも嫌だったし、兄の恋人を憎むようなことも止めさせたかった。
(それに……ヘルムート様がステラさんに失恋なんて……きっと何かの間違いにきまってる……)
とにかく、今は自分が落ち着いて、どうにか主の状況を知らなければと思いなおしたヴィムは。ひとまずラーラを廊下に残し、隣の部屋へと急ぐ。
(窓伝いがダメなら、扉を壊してでも!)
多分、グステルならやるだろう。──そう思うと、勇気づけられるような気がしたヴィムの足取りはどこか頼もしい。
そんな青年の後ろ姿を、ラーラが無言で見つめている。
沈んだ色の双眸が、何を考えているかはうかがい知れなかった。




