196 ヴィムの指針、ラーラとの対峙 ①
「こ……これはいったい……?」
数日ぶりに侯爵邸に戻ったヴィムは、ヘルムートの部屋の前で困惑していた。
廊下の隅にはテーブルが運んできてあり、そこには銀製のクローシュ(金属製の覆い)をかけられた食事の皿が。しかし、パンやスープ、果物などのどれにも手が付けられた様子はない。
何ごとだと思いながらその隣にある扉をノックしても、応じる声はなく、ノブは引いてもきしむ音が立つだけ。
何度声をかけても、扉の向こうからは近づいてくる足音も聞こえず、鍵が開く音も聞こえてこなかった。
これまでは、ヘルムートの従者という立場から、この部屋に自由な出入りが許されて来たヴィムは戸惑う。さっき階下で会った執事は、主は部屋の中にいるはずだと言っていたが……なんだかとても暗い表情だった。理由を訪ねても「自分の目で見てこい」と言われるだけで。
「え……? もしかしてお出かけなさっている……?」
それはあり得る話。何せ彼の想い人グステルは、いまだ王城に足止めされたまま。こんなとき主のヘルムートがじっとしているわけがない。そう思ったヴィムが、ならば主は今どこに? 何も聞いていないが……と首をひねったとき。彼の背後から冷えた声が掛けられた。
「……いらっしゃるのよ。お兄様はどこにも出かけてないわ」
「ラーラ様!」
振り返ると、薄桃色のワンピースを着たラーラが彼の方へやってくるところだった。
特に慌てるふうでもなく、その表情には諦観が浮かぶ。
「え……いらっしゃるのですか……本当に?」
大切なラーラの言葉ではあったが、ヴィムはすぐには納得できなかった。
彼の主は、相手が使用人でも、呼びかけられて無視をするような人間ではない。
掛けられた声には必ず応じ、しっかりと目を見て話を聞いてくれる。わずらわしいからとノックを聞かぬふりなどされたことなどないヴィムは、令嬢に視線で不安を訴えた。
もしや主は具合でも悪いのではないか。
けれどもそんな心配そうな青年に、ラーラは「わからない」と告げ、家族や医師すらも拒む兄の現状を語った。
「家族の誰が来てもこの調子なのだ」と、扉の脇に置かれた食事をチラリと見る口調には諦めと……どこか突き放したような響きがあって。そこに令嬢の憤りを感じ、ヴィムは少し目を瞠る。
「ラーラ様……?」
「お兄様だって人間ですもの。誰にも会いたくないことだってあるでしょう。今はそっとしておいてあげましょう?」
ラーラの言葉は兄を思いやっているようにも感じられるのだが、いかんせん表情が冷淡すぎた。
ヴィムの認識では、ラーラはこんな冷たい口調で兄のことを語るような娘ではない。多少甘えたところもあるが、善良で優しい娘のはずなのである。この違和感に、ヴィムはいっそう不安になる。
──実は。ヴィムはいまだにヘルムートが衝撃を受けた、グステルと王太子の現状については何も知らなかった。
彼は身分が低く王太子に謁見できなかったし、暴君フリードの世話をしつつ、グステルからの頼み事の処理に勤しんでいて。二人が睦まじく過ごしている場面を目撃するような機会もなく、彼女たちの噂を耳に入れるような暇もなかった。(※特にフリードの世話が大変だった……)
しかしこれは彼が鈍感だったわけではなく、例の彼女が彼を利用するために巧みにそれを隠していたため。
彼女に『わたくしを助けるのは、お前の主も望んでいることでしょう?』と、言われると、素直なヴィムは確かにそうだと思った。
彼の主は常々『グステル様を守れ』と彼に命じていて、彼女が望むことならなんでもしたいという姿勢を貫いていた。
それにヴィムは、グステルを本当に頼りになる人だと思っていて、今や彼女を疑う気持ちなど微塵もない。彼女の様子がどこか以前と違うとは感じているものの、グステルに向ける信頼が疑いを霞ませ“彼女”にも、それをうまく利用されてしまった形である。
ヴィムはグステルのため、ひいては主のためにと思い、ヘルムートのそばを離れて動いていた。
その間に、主にいったい何があったのですかとラーラに訊ねたいが……令嬢は明らかにそれを嫌がっている。
いつも、甘い蜜をふんだんに湛えた花のように愛らしく可憐に微笑んでいたはずの令嬢。その頑なな瞳を、唖然と見ていたヴィムは……ふと、感じる。
もしかしたら、令嬢は自分の呼びかけにも応じない兄に腹を立てているのではないか。
それは十分あり得る話。
いつもなら、ヘルムートは妹の呼びかけには何をおいても応じてきた。
それは母親を亡くした腹違いの妹に対する配慮であり愛情で、ラーラもその励ましを糧として、この、外から迎え入れられた彼女にとっては、けして温かいだけではない侯爵邸の一員になろうと懸命に励んできた。
だからこそ彼女は、この兄の変化には戸惑いと不安があるのではないか。それが不満となり、彼女の怒りにつながっている。……ヴィムにはそう見えた。
(ど……どうしよう……)
ラーラの気持ちの一端を感じた青年は眉尻を下げ、不安げにヘルムートの部屋を見る。
もちろんラーラの異変も気にはなるのだが……これは、明らかに主の異常事態。
あのヘルムートが、愛する妹の声にも応えず、ヴィムの呼びかけにも沈黙する。ヴィムは、現在王城にいるグステルの状況を彼に伝える唯一の存在。それを拒んで部屋に閉じこもっているだなんて。
ヘルムートがグステルをどれだけ大切にしてきたかは、それを間近で見てきたヴィムが一番よく分かっている。
(こ、これは……明らかにおかしい……きっと何かが起こったんだ……!)
そう察したヴィムは、さっと青ざめてラーラに問う。
「あの! ラーラ様、ここに食事が置いてあるということは……もしかして、誰も中に入ることができていないということですか⁉」
訊ねると、ラーラは悔しそうな顔で頷き、家の者が再三声を掛けに来るうち、兄が内鍵をかけてしまったと答える。
「ということは、やっぱりお兄様は誰にも会いたくないってことでしょう? ……今は見守るしかないわ」
それを聞いたヴィムは、なんてことだと慌てる。それでは今、中で主が無事でいるのかを、邸の誰も知らないということになるではないか。
(ど、どうしたら……どうしよう……!?)
うろたえたヴィムの脳裏に浮かぶのは、閉じられた扉の向こうにいるはずの主が、ずっとずっと優しく、まぶしげに見つめていたグステルの顔。
(……こんなとき、こんなとき……ステラさんなら……きっとヘルムート様を放ってはおかない……)
グステルは常に思慮深くはあるが、非常に心配性で世話焼きでもある。
もし彼女が今ここにいれば、きっとまずはヘルムートが本当にそこにいるのか、無事でいるのか、危険はないのかをしっかり確かめるはずだと思った。それでこそ、彼が本当に望んで入ればそっとしておくという判断もできる。
そうでなければやみくもに放置しているのと同じであり、もし中で取り返しのつかないことが起こったとき後悔することになりかねない。
(そうだよ……きっとステラさんなら、たとえヘルムート様に拒まれたって、絶対諦めたりしない……どんな手を使ってでもヘルムート様の身の安全を確認するはず……)
彼はヘルムートに従い、ずっとグステルと共にいた。その頼もしさは、今やこの青年の指針ともなっていた。
おそらくラーラたちは、令息を取り巻くすべての事情を知らぬゆえこの事態がどれだけ異常かを理解できてはいない。
ならば、この事態を今どうにかできるのはヴィムだけなのである。
その気づきは、この気弱な青年を大いに奮い立たせた。




