宵の口.3
私は、優しい詩の中で生きていければそれでいい。
次の日は、教室に行くだけでも億劫だった。
扉を開けたら、みんなが自分を百八十度変わったような目で見てくるのでは、という不安に駆られたのだ。
ただ、その心配は杞憂に終わった。私が教室に入っても、いつも通り一瞥してくる者がいるだけで、特に変わりはなかった。
ギリギリに登校したため、何か話したそうにしている水姫と言葉を交わす暇がなかったのはありがたかった。昼休みに一度、彼女が私のところに来たときも、結局はすぐに生徒会のメンバーに連れられてどこかに行ってしまった。そのメンバーの中には、水姫の彼氏もいる。
ハッピーエンドなんてないよ、とどこか達観した様子で告げた真宵の顔が浮かんで、私は拳を強く握った。誰もいなければ、机の上に拳を振り下ろしていたところだ。
(あんな奴のこと…早く忘れないと)
私は、真宵を家から叩き出してから、一刻も早く記憶の中からも彼女のことを叩き出そうと努力していた。しかしながら、真宵の残影は彼女の粘着質な性格にも似て簡単には消えそうになかった。
放課後には、真宵の影も薄まった。なぜなら、とうとう水姫が話をしたいと声をかけてきたからである。
これについては、断るつもりは毛頭なかった。元々、『明日また』と言ったのは自分のほうだし、それに、水姫の顔がとてつもなく真剣だったのである。
水姫はわざわざ屋上前の踊り場まで私を連れて行った。
こんな場所に連れて来るなんて、怒っているのだろうか…と私が不安に思っていると、開口一番、水姫はこちらを案じるような言葉を口にした。
「昨日、大丈夫だったの?」
それで少し安堵した私は、自然と口元を緩めて答える。
「ええ。たいしたことじゃなかったわ。それより、ごめんなさい、水姫。約束破ってしまって…」
「それはいいんだけど…」
そこで言葉を止めて逡巡する様子を見せた水姫は、階下に誰もいないことを確認すると、ポケットから屋上の鍵を取り出した。
「ちょっと、屋上で話そ」
「え…いいのかしら。昼休み以外は屋上って進入禁止じゃ…」
「いいの。生徒会特権。垂れ幕が傾いているから直せって言われてるから」
そうして屋上へと続く扉を堂々とくぐった水姫に続く。
屋上は四方を高いフェンスで囲まれており、垂れ幕を固定している装置だけがフェンスの外と内をまたいでいる。
「色々考えたんだけど…」と垂れ幕を戻しながら、水姫が口火を切る。「最近さ、明らかに私のこと避けてるよね」
カキーン、と高い金属音がして、白球が空を舞う。野球部の歓声がグラウンドに響く。
「…そんなこと…」
「あ、ごめん。その、言いたいことはこれじゃないの」
水姫は風で前髪が目にかからぬよう、片手でそれを抑えながら立ち上がると、言葉を遮られて立ち尽くす私の元へと小さな歩幅で歩み寄って来た。
ぐんぐんと伸びた背のせいで、水姫の愛らしい瞳も、口も、鼻も…何もかもが以前に比べ遠のいてしまっている。
みんなは羨ましがるけれど、私はこの背丈が気に入らなかった。
いや、本当に気に入らなかったのは、大人になっていく体に対し、いつまでも変わらない恋心を抱いている自分の中身のほうなのかもしれない。
半歩先で、水姫が立ち止まる。
触れようと思えば、触れることができる距離だ。
だが…私にはそれが叶わない。
水姫は大きく息を吸うと、胸に手を当てた。奇しくも、彼女が今の彼氏に想いを告げるときに取った仕草と同一であった。
「正直に言うとね…莉亜が私を避けてるの、すっごくイライラしたの」
「…水姫」
「でもそれ以上に…莉亜があの葉月真宵と仲良くしてることのほうがムカついた」
はっ、と私は息を飲んだ。
まさかここで真宵の名前が出るとは思ってもいなかったのだ。
何か弁解はないのか、と言わんばかりに水姫がこちらを見つめてくるものだから、私も慌てて言葉を繕う。
「私と葉月は仲良くなんてしてないわ。一方的に気に入られているだけよ」
「そんなの関係ない」ぐっと水姫が一歩前に出た。それはすなわち、ほとんど体が触れ合いかけている距離を示す。「何か理由があっても、莉亜が私より優先する奴がいる。それが問題なの」
「それって…」
「なに」
「し、嫉妬してくれているの…?私と葉月に…?」
口にしてから、しまったと思った。また余計な希望を抱いてしまったと。
希望や期待なんてものは、往々にして人を裏切る。それを知っていても、律儀なことに、失意の沼に突き落とされる度に心は傷だらけになるのだ。
だが、水姫が返した言葉は想像を越えたものだった。
「…そうみたい」
「え…!?」
あっさりと肯定されて、私は目を丸くした。
「あんな女より、私と一緒にいる時間を作ってよ。私たち――親友でしょ?」
『親友』という言葉は、確かに酷い痛みと共に胸へと突き刺さった。しかしながら、それよりも水姫が自分を求めてくれたのが嬉しかった。
私は、ゆっくりと目を閉じ、そしてまたゆっくりと開くと、感動で打ち震えそうになっている指先を握り込み、首を何度も縦に振った。
「ええ…ええ、もちろんよ。葉月なんかと一緒にいても、ろくなことにならないもの。水姫のそばにいることが、私にとって何よりもの幸福なのよ」
そうだ。それでもいいのだ。
あんな破天荒な色情魔、二度と言葉を交わせなくたって構わない。
「本当?」
「ええ、本当よ」
真宵が与えてくれるものは、とどのつまり、混沌と窒息感、それから、目を背けたい現実だ。
私は、優しい詩の中で生きていければそれでいい。
たとえ、水姫というヒロインの隣にいるのが自分ではないとしても…彼女の輝きを間近で見ることができれば、それでいいのだ。
すっ、と水姫の頬に手を伸ばす。彼女はそれを当たり前のように受け入れるどころか、自ら進んで頬を寄せ、両手で握って愛しそうに頬ずりした。
「えへへ…ありがとう、莉亜。でも、もぅ…心配したじゃんか。不安だったんだよ?莉亜がもう私と仲良くしてくれないんじゃないかって…」
「ごめんなさい、水姫。でも、そんな心配いらないわ。水姫が私と仲直りしたいって、一緒にいたいって思ってくれたように、私も水姫とそうあり続けたいって思ったのだから」
水姫の柔らかな頬の感触と、愛らしい面持ちに劣情の炎がわずかに鎌首をもたげる。だが、それを凌駕し、支配できるほどの多幸感が今私の中にあった。
やはり、結ばれることだけがハッピーエンドではないのだ。だって、こんなにも私は今幸せなのだから…。
不意に、水姫が口を開いた。
思えば、それは地獄の釜の蓋だったのかもしれない。
「あ、そうだ、そうだよ。ヒロにも、お礼言わなきゃね」
「え…どうして、彼が今出て来るの?」
そして、水姫は天使のように笑った。自分が贈る言葉がどれだけの残酷を孕んでいるかも知らないまま。
「ヒロが言ったの、『友だち』ならちゃんと自分の気持ちを伝えて、仲直りしろって」
ドクン、と心臓が強く縮まった。
現実という凶器が、あまりに唐突に牙を剥いた瞬間だった。
「優しいよね、ヒロ。『お前たちが仲良くしてないと、俺が心配だから頑張ってくれ』だって。頭まで撫でて元気づけてくれてさ、もう、頑張る以外ないじゃん…って感じ」
ドクン、ドクン…心臓の音は、私の中に宿っている暗闇に命が吹き込まれていくことを連想させた。
「だからさ、莉亜も後でお礼を言いに行こうね!」
ドクン、ドクン、ドクン…。
そうして、私の中のコントロールしようのない激流の如き感情が、暗い海のような闇の淵から這い出て来た。
パシン。
気づいたときには、水姫の頬を打っていた。
手に残る忌々し温かみを斬り殺すために研ぎ上げられたような言の葉が、今、私の口から勝手に飛び出していく。
「結局は、私じゃなくてアイツのためってわけね…!」
「り、莉亜…?」
「後でお礼に行こうねって…?馬鹿みたい。死んでもごめんよ、そんなの」
「な、何で怒って――」
「うるさいっ!もう…もうっ、うんざりなのよっ!」
蒼天を駆け上がる怒号は、すぐに部活に勤しむ生徒たちの声に飲み込まれてしまったが、目の前の少女の胸にはしっかりと刻み込まれたようで、彼女は愕然と口を開けて立ち竦んだまま動けなくなっていた。
私は、感情の激流に支配されつつも、どこか冷静な部分も残していた。そのおかげで、自分のやっていること、言おうとしていることがどれだけだいそれたものなのかも理解できてしまっていた。
「これ以上、水姫のそばにはいられないわ」
水姫は依然として固まったままだ。
願わくば、決定的な一言を告げる前に止めてほしかった。でも、止められる誰かはもうここにはいない。
「少し前までは、水姫は私にとってなくてはならない酸素だった。でも、もう違うわ。貴方は、今の私にとって猛毒でしかないの。苦しいのよ、貴方といると…!」
猛毒、という言葉を耳にして、水姫がぱくぱくと口を動かした。やがて、彼女の黒々とした目には涙がたまり始める。
「なんで…なんで、そんなこと言うの!?酷いよ、莉亜!莉亜の馬鹿っ!」
「酷いも、馬鹿も、そっくりそのまま水姫にお返しするわ」
そう言うと、私の顔には自然と嘲笑が浮かんだ。初めて、こんな顔を彼女にしてみせていた。
「私の気持ちが一欠片も分からない、残酷で愚かな水姫。さよなら、もう、さよならよ。金輪際、私に関わらないで」
私はそう言うと水姫に背を向けて、校内へと続くドアを引き剥がすように開けて、中へと戻っていった。
(言った、言ってやったわ…!)
意味もなく、上から下へ、右から左へと縦横断を繰り返していた私は、息を切らしながらすれ違う人々の影を追い越し、行く当てもなく進んでいた。
(水姫が悪い。私の気持ちを考えもしないのに、私を一番になんてしてくれないのに、自分は私の一番を欲しがる、水姫が悪い…!。悪びれもせず、あの男の話なんかを続ける、水姫が悪いわっ!)
早鐘を打つ心臓は、そうして数多もの痛みと後悔と苦悶とを蹴り飛ばす力を私に与えてくれていた。しかしながら、時間が経ち、足に疲労が溜まり始めた頃には、その根拠のない自信も萎んでいた。
(この先、もう二度と水姫と関わらない…)
それがぞっとする言葉だと気づくのにも、時間はかからなかった。
無理だ。
そんなことができるわけがない。
だって、私の体のほとんどが、水姫と過ごした時間によって作り上げられてきたものなんだから…。
それに、私には友人と呼べるものが水姫以外に存在しない。
家でも、学校でも、この薄ら寒い孤独と時を共にするのか…?
いや、そもそも…水姫なしで生きていけるほど、私は強い人間だっただろうか。
あの天使のような笑い声、愛くるしい面持ち…少しわがままで、だけど、誰よりも私のことを考えてくれた水姫。
そんな彼女を、ついさっき、自分の手で自分の中から追放してしまった。
もう、終わりだろう。
私たちの関係は、二度と戻らない。
仮に上っ面は仲直りできたとしても、何だかんだいって疑り深い水姫のことだ、私との間に壁を作ってしまう。
ぴたり、と足が止まる。不安で、もう動けない気がした。
(駄目だ…私、もう…)
失望の大口の中に飛び込んだ私の両目に、熱い涙がたまるのが分かった。
次に浮かんだ言葉は、『寂しい』だった。水姫という唯一の拠り所を失うことは、祈りによる安らぎのない巡礼の旅に似ていた。
私が浮かび上がる涙を抑えるために上を向いた、そのときだった。
不意に、視界に文字が飛び込んできた。かすれた文字だが、何と書いてあるかははっきりと読み取れる。
(美術室…)
刹那、葉月真宵の顔と言葉が脳裏に蘇る。
『私にしとけばいいのに』
蘇ったのは、それだけではなかった。唇に触れた甘い熱と、耽美的で官能的な真宵の表情も後からついて来た。
今の私にとってあの熱は、御し難い麻薬のようなものだった。
間違っている、とは思った。だが、あの熱が、時間が、声が、瞳が――私を孤独から救い上げてくれることだけは間違いないとも思った。
次の瞬間には、私は扉を開けて中へ足を踏み入れていた。
美術部部員たちは、涙を浮かべて入って来た部外者を見て目を大きく見開いていた。それにも構わず私が真宵の場所を尋ねると、彼女らは無言で奥の部屋を指さした。
どう思われようが構わない、と私は真宵がいる場所へと進軍する。ドスドスと足音を鳴らす私を恐れて、何人かの生徒は自然と道を譲った。
扉に手をかけ、躊躇なく開く。それから、振り向くこともしない真宵への苛立ちを込めて、大きな音が鳴るほどの力で扉を閉める。
「ちょっとぉ、私今日は傷心だから誰も入って来ないでって言ったでしょ…」
気だるそうに振り向いた真宵は、私の姿を捉えた途端、ぎょっとして腰を浮かせた。
「り、莉亜…!」
それから、一瞬だけ嬉しそうに頬を綻ばせるも、私が涙を浮かべているのを見てすぐに顔色を変える。
苦々しい表情でじっとこちらを見つめていた真宵だったが、『言わんこっちゃない』とでも言いたそうに一つ深いため息を吐くと、彼女らしくもなく気遣わしげな顔を向けてきた。
「金糸雀だって、危険を察知したら泣き叫ぶのに…。またもぅさめざめと…」
声を押し殺して泣いている私に、莉亜がそう言う。
「放っておいて!」
発作的に言い返した私は、彼女の元を訪れたのは自分のほうなのにと反省することもなく、そのままの勢いで続ける。
「描きなさいよ!葉月!」
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