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籠の外のカナリア  作者: null
三章 宵の口

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宵の口.2

一度吐いた嘘は、飲み切るしかない。

 まさかと思いチェックしたモニターには、見慣れた愛らしい顔が映り込んでいた。


「…当たるのは、嫌な予感ばかりね」


 独り言を漏らせば、多少は心が落ち着くかと思ったが、そんなことはなかった。


 風待家のインターフォンを鳴らしていたのは、水姫だった。


 本来、今日は彼女のショッピングに付き合う約束だったのだが、真宵のわがままに振り回された結果、嘘を吐いてでも水姫との予定はキャンセルしていた。


 今日は親戚に呼び出されて、家にいないと伝えたのに…どうして、水姫がここを訪れたのだろう。


 とにかく、嘘を吐いたのがバレないように居留守を使おう。


 嘘に嘘を重ねる体たらくには我ながら歯ぎしりしたくなるが、家に真宵を上げていることを知られるよりかは遥かにマシだった。


 ただ…。


 画面の向こうの水姫は、不安と焦燥に駆られた表情をしていた。眉をひそめて画面を覗き込み、何度もインターフォンのボタンを押している様は、まるで迷子になった子どものようだ。見ているだけで心が痛む。


 きっと、私のことを心配してくれているのだろう。親戚に呼び出されるなんて話、今までしたことがないのだ。


 本当なら、今すぐにでも扉を開けて水姫を迎え入れてあげたかった。


 葉月真宵という魔女じみた女を叩き出して、私の人生を明るく照らし続けていた日乃水姫という天使を、今日という一日の頂上に冠の如く戴きたい。そうすれば、真宵に乱され続けている弱い心が正常に戻る気がしたのだ。


 だが、それに何の意味があるだろう。そう達観して考える自分がいるのも事実だ。


 水姫はすでに、私のモノではない。


 彼女の暖かな手は他の男の手のためにあり、たおやかで瑞々しい唇も、同じように他の男とオリオンを結ぶためにある。


 ――この想いに、救いはない。


 分かっていたことだ。分かっている気になっていただけだったかもしれない。


 私は静かにその場を離れようとした。特別な人ができてしまった水姫から、そうして離れようとしたように。


 だが、そこで予想外なことが起きた。


 ぬっと、後ろから伸びてきた手が、私の体を壁との間で閉じ込めると同時に、勝手にインターフォンの通話ボタンを押したのだ。


「なにしてるの、喋ってあげなよ…莉亜」


 耳元で鳴る囁き声、甘い香り、背中に当たる柔らかな感触、鉄格子じみた両腕。


 ドクン、と心臓が脈打つ。


 真宵だ。


「ちょっと、何を――」

『あ、莉亜?』


 さらに強く心臓が収縮する。


 一度声を聞かれた以上、ごまかすことなど到底できない。そんなことをすれば、水姫は窓を割ってでも入ってきそうだ。


 首だけひねって、真後ろにいる真宵を睨みつける。彼女は愉快そうな、だがどこか怒っているような顔でこちらを真っ直ぐ見返していた。


「…覚えておきなさい」

「うん。一生刻みつけるよ」


 くそ、適当なことばかり…。


『莉亜?いるんだよね、莉亜?』

「え、ええ。ごめんなさい、水姫」

『あー、良かった。急に親戚に呼び出されたとか言うから心配したんだよ』


 安堵した様子の水姫の顔に、良心の呵責が起こる。嘘に嘘を重ね続けて、もはや戻ることはできなくなっている。彼女の純粋さに対して、自らの狡猾さは悪だ。


「た、たいしたことじゃなかったわ。単身赴任中のお父さんのことで、色々と相談があってね」


 この唇は、すらすらと欺瞞を奏でる。結ばれる先は持たないというのに。


『そっか…。あ、ねえ、開けてくれない?ちょっと話したいことがあるんだけど』


 私は、ごくり、とつばを飲んだ。


 そう言われるに決まっていたし、ここは断る以外方法はないことも分かっていたが…今この場での拒絶は、本当に引き返すことができない道に逸れることを意味する気がして、恐ろしかった。


 それでも…どんなに恐ろしくとも、私に選択肢はない。


 一度吐いた嘘は飲み切るしかない。毒を食らわば皿までだ。


「ご、ごめんなさい。親戚が家に来ているから、今日は時間が作れないわ。また、明日、学校でなら話せると思う」

「…今日は無理なの?」


 水姫らしくもない確認だった。ごねるわけでもなく、伺いを立てるような口調だ。


 私がどうしても難しい、と返すと、水姫はしょぼくれた様子で引き下がり、「じゃあ、また明日、学校で」と背を向けて去って行った。


 インターフォンのカメラの画角から、水姫の小さな背中が消えていく。いよいよ遠く離れた場所に行ってしまっているような気がしたが、元から届かない位置にあったことを思い出し、ため息を吐いた。


 そう。水姫は私にとって画面の中の存在に等しい。話すことや液晶ごしに触れることができても、その心に直接触れることはできない。


「これで満足?」


 虚しさと苛立ちをぶつけるべく、真宵のほうを振り返った、そのときであった。


 急に真宵が私の肩を力強く掴んだ。


 逃げ道を殺すような素早さと強引さの後、真宵が止める暇もなく唇を寄せる。


「ん…っ!?」


 彼女の乱暴さは、私の中の空気を根こそぎ奪いつくそうとしているみたいだった。


 舌と舌が擦れる度に、いかんともし難い戦慄が背筋を駆け巡る。知っているようで知らなかった何かが、今私を、新しい私に書き変えようとしていた。


 必死になって押し返すと、ようやく真宵が唇を離した。つぅっと糸を引いた唾液があまりに卑猥に薄闇の中で光る。


「嘘、吐いちゃったね」こちらが罵声を飛ばす前に、真宵が一音、一音噛みしめるみたいに言った。「浮気してる人妻みたいな嘘。べとべとした罪悪の中で、莉亜が葛藤してるのが手に取るように分かる」


「あ、貴方ねぇっ!」

「でも、そもそも何に罪悪感を覚えるの?日乃水姫には他に恋人がいて、しかも、そいつは男。莉亜と水姫の間にはどこにでもある友情関係しか存在していない」


 謝罪するどころか、なにやら説教するような、諭すような言い回しでこちらを見つめる真宵に、私は負けるまいと睨み返して言葉をぶつけた。


「それとこれとは別よ!葉月こそ、恋人でもないくせに気軽私に触れないで!キスなんてしないでよっ!下手したら犯罪よ?これ」

「まぁ、たしかに」


 真宵は言葉と態度のちぐはぐな感じで笑ってみせる。それがどうにも人を馬鹿にしているようで腹立たしい。


 駄目だ。まともに相手をしても、彼女が反省することもなければ、私の心が晴れることもない。独り相撲ほど虚しいものはないのだ。


 やはり、この悪魔を家に上げるべきではなかった。


 そうして私は自分の肩を掴んでいる真宵の手を跳ね除けようとした。しかし、一向に力を緩めて解放してくれる様子はない。


「じゃあさ、なっちゃおうよ」今日の晩ごはんでも聞くみたいな口調で真宵は言う。「恋人」

「…はぁ?何をふざけているのよ」

「私、ふざけてないよ?真面目だよ?」

「…どっちにしてもお断り。葉月みたいにわがままで、貞操観念が緩くて、人の話を聞こうともしない人、絶対に嫌」


「人を色情魔みたいに…キスだって、この間のが初めてだって」

「嘘つき。そんなはずないでしょう」

「嘘じゃないんだけどなぁ…それに日乃水姫だって、わがままで人の話を聞こうともしないじゃん」

「ふ、葉月と水姫が一緒?冗談でしょ」

「うわぁ、メチャクチャにイラっとくるなぁ…その感じ」


 徹底的に逃げ道を塞ぐように、真宵は私の両足の間に膝を差し込んだ。


「金糸雀は、悲鳴だって美しいって聞くけど、本当かな?」


 獲物をじわじわと追い詰めるような仕草に自然と恐怖が湧いてくるが、燃え上がる反抗心が、私に挑発的な笑みを浮かべさせた。


「そんな度胸、貴方にないくせに」

「…そりゃそうだ」


「水姫はね、私の家族なの。仕事が忙しくて私の相手ができない父親の代わりにずっと一緒にいてくれた。学校もろくに行けなくなった時期もあったけど、そんな私でも水姫は見放さなかった。—―私にとって、どれだけ水姫が大切な存在なのか、貴方には分からないでしょうね」


「いつだって、物語は語り手によって美化されるよ」

「あっそう。だとしても、この物語の主人公は私なんだから、私の主観で語られるべきよ」


 きっぱりと言い切ると、珍しく真宵は口をつぐんだ。初めて、彼女を言葉で黙らせたかもしれない。


「…じゃあ、その物語は悲劇だね。日乃水姫はヘテロ――異性愛者なんだから、主人公とヒロインが結ばれることは一生ない。それこそ、ヒロインを変えない限りね」

「結ばれることだけが、ハッピーエンドじゃない」

「分からず屋だなぁ、莉亜。同類の私にしとけばいいのに。それとも、ドMなの?」

「うるさい。もういい加減にして」


 つばを吐き捨てるように告げた私は、真宵にもう帰るように命じた。今回ばかりは、どれだけ彼女が食い下がろうと譲らなかった。荷物を放り出してでも出て行かせようとしたところで、ようやく真宵は出て行く支度をしてくれた。


「じゃ、また明日学校で」


 何事もなかったかのように笑って手を振る真宵に、怒りとも呆れともつかない感情が湧き上がり、目元が吊り上がる。


「二度と私の前に顔を見せないで。モデルの件ももう知らないから」

「…莉亜」

「私の秘密なんて、バラしたければバラせばいいわ。葉月なんかの言いなりになるくらいなら、一生後ろ指さされて暮らしたほうがマシ」


 勢いのまま言ってしまった言葉なので、後で深く後悔することにはなった。だが、少なくともその場では誇らしい気持ちになったし、真宵が少しばかり困惑したような顔をしたことですっきりもした。


 真宵は去り際に、「気が向いたら、また美術室に来て」と言い残していった。


 絶対に行くものか、と相手の背中を睨みつけた私は、彼女との関係を断ち切るつもりで玄関の扉を強く閉めた。

明日も昼夜、一度ずつの更新を行います。


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