宵の口.1
では、三章が始まります。
少しずつ百合要素が強まりますので、お楽しみください。
真宵が商店街の古い画材屋で買い物をしている間は、私もその後ろをついて歩いた。どこかぶらついてもよかったのだが、単純に自分を象る欠片にどういうものが選ばれるのかが気になった。
よく分からない道具で店内がいっぱいになっていることにも驚きを覚えたが、それよりも、絵の具を選ぶ真宵の顔が凛として、真剣そのものであったことにも驚かされた。
(いつもへらへらしているくせに、自分の好きなことだとこんな顔もできるのね…)
私が横顔を盗み見ていても一切気が付かないようで、真宵はずっと、ああでもない、こうでもないと呟いていた。そうかと思うと、くるりと振り向いてきて、じーっと私のほうを見つめたりしてくる。
「うーん…」首を傾げて考え込む真宵。
「人の顔を見て、唸らないでほしいものね…」
もう、丁寧な言葉はすっかり剥がれ落ちていた。彼女の前では、どうせ仮面も保てない。
変わり者であることが一目で分かる容貌の真宵だが、真面目な顔つきをしているときは、何気に彼女が眉目秀麗であることが分かる。
目が猫のように大きく、唇の血色も良い。気丈な戦乙女のような眉も彼女の凛とした顔つきを際立てる。
普段はお調子者で自由奔放すぎるために三枚目に見えるが、口を開かなければ二枚目ということらしい。
彼女の視線を真正面から受け止めていると、不意に、真宵が私の髪に手を伸ばしてきて、壊れ物でも扱うみたいに黒髪を手に取り、困惑している私をよそに、彼女は顔を近づけた。
「葉月…!?」
「やっぱり、この黒は簡単には出せないよなぁ…」
独り言のように呟く彼女には、目の前の私のことなどすでに頭にはないのかもしれない。自分の世界に浸っていることが見て分かる。
(――…葉月の頭の中には、自分しか住んでいないのでしょうね)
不意に、そうした印象が頭に浮かんだ。
真宵は代わる代わる絵の具を手に取り、私の髪と照らし合わせるように色を比べ始めた。しかも、一分や二分では終わらず、十分近い時間検討し続けていたのだから、私はその間も人形のように身を固くして動けずにいた。
動けば、何かが損なわれるような気がして。
あるいは、奪われるような気がして。
真宵の端正な顔が目の前にある。そして、彼女の瞳を――いや、頭の中すらも独占しているのは、この私なのだ。
それを自覚すると、妙な動悸がした。くすぐったいような、気味が悪いような…。
元々、私がパーソナルスペースの狭い人間だから落ち着かないのか、はたまた、違う何かのためか…。
そこまで考えてから、私はその考えを自ら否定した。
(違う何かって、何よ…!)
やがて、深い紫の絵の具を手にしたところで、「よし、これが一番合う」とようやく真宵は私の髪を離した。
彼女はあろうことか一言もなく、そのままその場を離れようとしたので、呆れたものだと真宵の背中に愚痴をぶつける。
「人の髪の毛を勝手に掴んでおいて、ごめんの一言もないのかしら」
だが、真宵は聞こえていないのか、そのまま反応も示さないまま次のコーナーへと歩き去って行く。
なんだか、ただの題材扱いされているようで気に入らない。
別に、友人同士で遊びに来ているわけではないので、これがある種自然な形なのかもしれないが、それでも、無理に連れ出した以上は私のことも考えて行動してほしいものである。
後ろから覗き込んだレジスターの表示には、正直、顔をしかめたくなったが、部費で落ちるのだと、彼女は事も無げに笑う。
いくつか買い込んだため、店員は大きな紙袋に入れて商品を渡してくれた。水姫と買い物に行くときの癖で、つい自然と紙袋を持ってしまう。
意外と重いし、そんな義理もないため、途中からでも持つのをやめてもよかったのだが、目をキラキラさせてこちらを見つめてくる真宵のせいで何となく言い出しづらくなっていた。
店を出れば、すぐに真宵は口を開いた。
「うわぁ、すごい紳士じゃん、莉亜ってば。映画に出て来る主人公みたい」
「く、癖よ、こんなの。別に葉月のためにやったわけじゃ――」
「――ないんだからね!」
唐突に言葉尻を取った真宵の声に、私は目を丸くする。すると、真宵は満足そうな笑顔と共に、白い歯を春陽で光らせた。
「あはは!ツンデレのテンプレートじゃん!――やっぱり、莉亜と一緒だと刺激的でいいなぁ」
朗らかに笑う真宵が、私の目にはとても眩しく映った。
それは、彼女の白メッシュがそうさせたのではない。春の陽光すらも引け目を感じるほどの真宵の闊達さが、彼女自身を鮮やかに装飾し、光を放つ生き物へと昇華しているのだ。
深海で暮らしながら、微弱な光すらも放てない自分とは大違いだと皮肉な思いを抱きつつも、私は真宵があらゆる表現を用いて、好き勝手に私を着飾るのを止めることができないでいるのだった。
やがて、買い物も終わり、二人は帰路についた。
電車通学の真宵と、学校が徒歩圏内にある私とでは、本来別々の道で帰ることになるはずだが、真宵が少しぶらつきたいと言ったので共に歩いた。
道中、真宵は雄弁だった。
機銃も真っ青になる饒舌さで話題に挙げるのは、私のこと。
好きな食べ物、本、言葉、映画、音楽…。とにかく、私の趣味嗜好については何でも聞いてきた。好きなものや趣味がほとんどない私の解答で満足できるとは思えないが、それでも、真宵はどこか嬉しそうだった。
「へぇ、莉亜の家って、思ったより普通だね」
私の家の門のところで、真宵が言った。家を知られて大丈夫だっただろうか、と妙な不安を抱くも、今さら遅いと切り替える。
「失礼ね。どんな家を想像していたのよ」
「んー…」と真宵が小首を傾げる。その拍子に、白メッシュが揺れる。「なんか、お姫様でも住んでそうな家。莉亜って、天蓋付きのベッドで寝てそうだもん」
「そんなはずがないでしょう。私は庶民よ」大きくため息を吐き、玄関へと近づく。「…じゃあ、私はここで――」
別れを告げようと振り返ると、思っていた以上に近い距離に真宵が立っていた。
私はそれに驚き、声を裏返らせながら尋ねる。
「ど、どうしてついて来ているの?」
「どうしてって、え?もうデート終わり?」
「デートって…、わ、私、そんなつもりなかったのよ!」
「知らないよぉ、そんなこと。ちゃんと私、『デートついで』って言ったもんね」
真宵はとんでもない厚顔無恥さを発揮し、私がお茶の一つでも出すまで帰るつもりはないとごねた。
こうなれば、彼女は本当に居座り続けるだろう。根比べをしても明らかに旗色は悪い。このままここで応戦して、ご近所に迷惑をかけたり、白い目を向けられたりすることがあっては、単身赴任の父に申し訳が立たない。
「…お茶を飲んだら、すぐに帰ってくれるんでしょうね」
「もちろん!」どうにも嘘くさい笑顔であるが…今まで、真宵が私に対して嘘を吐いたことはない。誤魔化すことはあったが。「あれ、疑われてる?やだなぁ、こんな正直者、どこ探したって他にはいないよ?」
「よく言う…」
結局、私は真宵を家に招き入れることにした。納得したのではなく、根負けしたのだ。
「わぁ、綺麗なお家」
「ちょっと、あんまりジロジロとリビングを見ないで。片付けしてないから」
はぁい、と気の抜けた返事をした真宵は、私の後ろに続いて階段を上がった。
電気がほとんど消えた建物の中は、どこにいても孤独が充満している気がしていたが、こうして真宵が来てみると、そんな感傷も失せた。どこにいたって、騒がしい者がいればそれだけでパーティールームだ。
場所ではなく一緒にいるものによるのだと、私は改めて思い知る。
「ねぇねぇ、ご家族は?」
「いない。お父さんは単身赴任。お母さんは、ずっと前に死んだわ」
「ふぅん…寂しくないの?」死んだ、と聞いても躊躇しない真宵は、さすがと言えるだろう。
「別に。独りのほうが気楽よ。もちろん、お父さんのこと好きだけれど」
部屋の扉の前で一旦立ち止まり、真宵を振り返る。
爛々と輝く銀河のような瞳は、早く扉を開けて自分を中に入れろと急かしてきていた。
本当にこの破天荒を自身のテリトリーに入れても構わないものかと悩んだが、今さらここで追い返そうとしても無駄なのも分かっていた。
「…絶対、部屋の物を勝手に扱わないで」
「え、なに?エッチなものでも隠してるの?」
「違うわよっ!」
真宵の軽口の相手などしても意味はない。それが分かっていても、無視できない何かが彼女にはある。
扉を開けて、真宵を私室に招き入れる。水姫と家族以外の人間を入れるのは初めてだった。気恥ずかしさというよりも、不安のほうが強い。
私の部屋は自他ともに認める殺風景な代物だ。そのため、見られては不味いものなどはない。あるとすれば、いつまでも捨てられずにいる水姫とのアルバムくらいなものだ。
「あははっ!すっごい、何もない部屋だね、莉亜!本当に女子高生ぃ?ふふ!」
「失礼ね。私がどんな部屋に住んでいようと、私の勝手でしょう」
「そりゃもちろん!」真宵はそう告げると、許可もなく私が使っているベッドに飛び込み、枕へと顔を埋めた。「あ、ちょっと!なにを勝手なことを――」
不意に、真宵の肩や背中が大きく膨らんだ。息を吸った、というか、枕の匂いを嗅がれているのだとすぐに気づく。
いつも使っている枕の匂いを嗅ぐなどという奇行に、私は言葉も失って真宵を見つめるほかなかった。羞恥で全身が熱くなるが、顔を離した真宵に悪びれるような様子は一切なかった。
「ぷはぁ!ねぇ、莉亜。この枕から、とっても強く莉亜の匂いがするよ」
「…そ、それは、そうでしょうよ…!」怒鳴りつけてやろうと言葉を編んでいると、それよりも素早く、真宵がうっとりとした表情で言った。
「脳髄とか、神経細胞とかに直接流れ込んでくるみたいな…くらくらする、甘い匂い」
頬は赤らみ、唇は半開き、そして、目はどこか虚ろだ。耽美的、という表現はよく似合う表情だ。
真宵はゆっくりとこちらを振り向くと、私とちゃんと視線が重なっているのを確認してから、いたずらっぽく笑った。あどけない顔立ちのはずなのに、なぜか、とても大人びて見える。
「何だか、とってもやらしい気分…」
ガツン、と後頭部を殴られるような感覚に、私の心臓は強く収縮する。
幼心と艶やかさとが撹拌された真宵の挑発的な面持ち。大人と子どもが同居している――いや、大人になろうと蛹の殻を破り捨てようとしている子ども、ということなのだろうか。
水姫の青々として、熟す気配のない眩しさとはまるで真逆の存在。私にとって、真宵と水姫は相反するものなのだと、ようやくここにきて理解させられた。
このままここにいては不味い。
そう判断した私は、真宵の言葉に何も返せないまま、「飲み物取ってくる」と背を向け、部屋を出た。
どうして自分の部屋なのに、逃げ出すような真似をしなければならないのか…。苛つくような、情けないような気持ちが胸に残る。
インスタントコーヒーを入れている間も、私の脳裏には先ほど見た真宵の大人っぽい姿が消えずにいた。
悔しいし、認めたくはないが…、私の中の劣情の炎が燃えたのは間違いない。ただ、それはあまりに不名誉なことだった。
(はぁ…これじゃあ、誰でもいいみたいじゃない…)
水姫のことがあって、まだたいして日も経っていないのに。そういう反応をする体と心を私は忌々しく思った。
コーヒーカップを両手に持って部屋に戻れば、すぐに頭が痛くなるような光景が広がっていた。
ベッドから降りて床の上に座っているのは別に構わないのだが、その手がめくっているページのほうに問題があった。
「か、勝手に私の物に触らないでって言ったじゃない!」
無理やりそれを取り返そうと手を伸ばすも、俊敏な動作でかわされ、危うく転倒しかける。一応、真宵が気を遣ってとっさに支えてくれたから転ばなかったものの…そういう気配りができるなら、そもそも勝手をするなと思う。
「私、それについては承諾してないもぉん」
「あぁ、もう嫌。葉月といると、頭が痛くなるわ…」
「いいじゃん、アルバムくらい。変なことじゃないでしょ」
それは確かに真宵の言う通りである。ただ、アルバムを見られているのが彼女である、というのがネックなのだ。
真宵が勝手に棚から取り出していたのは、毎年写真を整理、追加している古びたアルバムであった。
家族が撮ってくれた写真、家族と撮った写真、そして…。
「あぁ、それとも――」言葉を区切った真宵が、これ見よがしにアルバムを私の前に突きつけてくる。「日乃水姫の写真が多いから、動揺した?」
図星を突かれた私にはせいぜい睨み返すぐらいのことしかできなかった。しかし、真宵はそんなことは気にも留めるでもなく、つくづく馬鹿馬鹿しそうに言葉を続けた。
「本当、あんな女のどこがいいんだか…」
さすがの私も、この言葉は聞き捨てならなかった。
「貴方に、水姫の何が分かるの…っ!?」
「綺麗な金糸雀を、鍵もかけずに餌箱が空になってる鳥籠で飼ってる奴ってことくらいしか、知らないかなぁ」
「はぁ?一体、何の話を…」
また真宵が独特な表現を用いてきたため、私はその真意を問うべく聞き返そうとした。
すると、ぴりついた空気を刺激するみたいにして、突然、家中にインターフォンの音が響き渡った。
本日は夜にも更新予定です。
続きが気になる方がいらっしゃれば、ぜひ、御覧ください。




