ありきたりな話
昔書いた小説をリメイクしたものです
宴は、食べることが嫌いだった。
だが、食欲がないという訳ではない。宴が嫌うのは、食べるという行為そのものである。
例えば、テレビのコマーシャルで綺麗な女性がドーナツを食べ、これは美味しいものだぞと言わんばかりに桃色の舌で真っ赤な唇を舐めていたとしよう。
宴はこの一連の行為を見ると、まず女性の咀嚼音を想像する。くちゃくちゃと女性の口の中で形を失うドーナツが頭に浮かび、その場から逃げ出したくなるのだ。
では、宴は拒食症なのか? 実はそうではない。むしろ食べ過ぎる程食べる。
宴は「満腹」を知らない。空腹はいつだって満たされはしない。
故に、自分の咀嚼音を聞きながら、ただひたすらに物を口に運んだ。宴にとって、食事はある種の地獄でもあった。
「宴。食べ過ぎだ」
「…うん」
兄の玄朔の言葉で、宴はやっと手を止めた。
食卓に並ぶ汚い食器達を見る。
先刻まで箸と食器のぶつかる音、唾液と空気が混じる嫌な音が鳴っていたが、今は調味料や油が浮いているだけだ。
「また太っちゃうかな…」
食器を洗いながら、宴は悲しそうに呟いた。なぜ自分が満たされないのか。それは宴自身もよくわかっていなかった。
「今何キロなの?」
「当ててみて?」
「…七十キロ?」
宴が「失礼だ!」と叫ぶと、兄は後ろでひひひと笑い、適当な言葉で繕った。
「はあ…他人事だと思って…」
「他人事だもん」
他人の、特に宴のことになると楽観的になる兄にため息をつく。もっと親身に聞いて欲しいという宴の気持ちとは裏腹に、兄はせっせと仕事へ行く支度を整えていた。
「じゃあ俺、行ってくるから。ちゃんと夜霧先生の言うこと聞くんだぞ?」
「はーい!」
白衣を纏った兄が、急ぎ足で部屋を出て行くと、宴も学校の支度をはじめた。
兄が部屋を出た数十分後、夜霧先生の愛車のクラウンが、家の前に止まった。
「おはよう。宴さん」
「おはようございます!」
穏やかで少し艶っぽい女教師の声に、宴の弾むように明るい声が答える。
夜霧あざみは宴の担任の先生で、高校が家から遠いということもあり、宴の送り迎えをしている。
「先生、私電車でも行けますから、大丈夫です」
「宴さんは、またそんなこと言って~」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
ただでさえ忙しい先生だ。これ以上負担をかけるわけにはいかないと、宴は夜霧が来る度に断るのだが、その都度苛立った口調で「でも、お兄さんから言われているから」と返されてしまう。
妹が心配なのはわかるが、過保護すぎるのではないだろうか。諦めた宴が車のシートに腰を降ろすと、夜霧はエンジンをかけながら、何気なく宴に尋ねた。
「宴さん、お弁当は持った?」
「え?」
唐突な質問に首をひねると、おしとやかに女教師は微笑んだ。
「玄朔先生の力作らしいわよ? さっき嬉しそうに話していたわ」
夜霧の言葉に、宴は慌ててリュックを漁り、安堵した。リュックの奥底だが、お弁当はちゃんと入っていた。
「ちゃんともってます」
「ふふ。宴さん、愛されてるわね」
宴は照れている顔を隠すようにして、顔を伏せる。あざみ先生に、このにやけた顔がばれない内に学校に着いてほしいと、宴は切に思った。