9 When he loved her
「ウィアヌス様、どうか天女と踊る栄誉を」
次々と招待客が押し寄せ、同じ台詞を吐き出す為、サージェットも延々と繰り返す結果となった。断る。
アサツキは天女ではないし、もしもそうであったとしたならば、尚更他の男と踊らせるものか。あいつの相手は俺だけだ。
だのに、こうもしつこくされると、ちっ。内心で舌打ちした頃に車椅子に乗った男が颯爽と現れ、ようやく解放された。
「サージェ、楽しんでいるようだね」
「救世主のつもりならもっと早く来い、イレフ」
「だって、君の困り顔が楽しくて」
ウィアヌス家の当主を巡って世間的には対立している兄弟だ、その会話に割って入る無粋な輩はこの場におらず、礼儀正しく距離を保った。
「僕のウサギは天女に変身したようだ」
杯を弟に渡して、イレフレートは、彼の本質を垣間見せる笑顔を浮かべた。どちらにせよ可愛よね、と余計な台詞にサージェットは苦々しく思う。
「誰がウサギ呼びを許した。あいつの主は俺だ」
「あんなに可愛いウサギを、サージェ、君は一人占めする気かい。嫉妬はいけないよ、だから早々に月に還ってしまったのかもね」
アサツキが傍にいないことを揶揄うとは。くそ。
露台に避難させただけだと憮然とする、と、イレフの笑みが深まった。僅かな変化だが、当然、サージェットが見逃す訳もない。
彼女に聞かせたくない話か。
元来低い声を更に潜め、問うた。
「あの男のことだな」
「…先程挨拶を受けたけれど、彼の夫妻は、シュン家夫妻共々どこかきな臭い」
ちり。
音がする程に、サージェットの漆黒の瞳が瞬いた。
彼の夫妻、練国のトエルフ夫妻は現在〈商〉シュン家の庇護を受けている。
その身元を調査したが、疑うべき点はどこにも見当たらなかった。
だが。
おかしな話だと、サージェットは思っていた。決してアサツキには伝えられなかったが。
シュン家は、元は刀剣を扱う商家に端を発し、近年は諸国と小貿易している中堅の〈商〉だ。決して大店ではない。
〈貴〉のウィアヌス家は〈商〉を総括する立場にあり、家を出たとは言えサージェットは領地である南区自治を父親より任されている。
南区を拠点としているシュン家とは、当然、面識があった。
野心家だと感じたことはあるが、シュン家に、他国とは言え王家に繋がる立場の者を迎えられる手腕があるかと問われると、否と言わざるを得ない。
何か、おかしい。
「言葉の端々に何かを含んでいた。尤も僕は、君程、語学に堪能ではないけれどね」
サージェットが相対した際も、ニダカ トエルフ リークという男は何かを臭わせていた。記憶を呼び戻した結果、引っ掛かる言葉は。
光護国。
女性。
宝。
嫌な符丁だ。
不穏を感じたのは弟だけではなかった。調査すると兄が言いだしたからには、すでに部下を動かし着手に至ったであろう。
「彼女を守りなさい、サージェ。一筋も傷つけられることのないように」
当然だ。
あの男を、お前に近づかせるものか。アサツキ。
ところが、その彼女は露台のどこにもいなかった。
アサツキ?
薄闇に睦み合う幾人かの影、まさか、その内に紛れてはしないかと視線を向けて失敗した。大広間の熱気を冷ます風になびくのは亜麻色の髪。
トエルフ。
くそ、目が合った。
『またもお一人ですね、お気に召す花はいなかったと見える』
人の心を蕩かすような笑みと歌にも聞こえる異国語に、やはりこの男は、と、サージェットは思う。
やはりこの男は何か意図して、言葉で揺らし、こちらの反応を伺っているのだ。アサツキを探そうと庭に向けられた靴先は、ぴたりと縫い留められた。
喧嘩を売りたいならば、ああ、高く買ってやるとも。
『貴殿の細君も、また、その腕の中にいないようだ。獲物を狩りに出かけていると見える』
鳶色と漆黒の瞳が絡み合い、再び、ばちりと火花が散った。
『ふ、彼女が気になりますか?』
『貴殿は目が悪いようだな、人のものに興味があるように見えるのか』
『…そうですね、あなた方はいつも純真な若い娘、でした』
吐き出された息が夜を揺らす。
何か重要な事をこの男は漏らした、そう直感した。
『どういう意味だ』
『貴方は耳が悪いようですね』
にこり、闇に発光するかの如き微笑み。
『野の花は野に、天女は天に、そう言ったのです。天女に下界は似つかわしくないと、思いませんか?』
その時、露台の下、闇に包まれた木の葉の合間から小さな悲鳴が聞こえなければ。
目の前の男の胸倉を掴んでいただろう、しかし。
あの声は。
「アサツキっ」
腰まであった欄干を飛び越えて、ざっ、庭に降り立った。
この辺りは椿の生垣になっていて新春の頃に見頃を迎えるが、今夜は闇に暗く沈んでいる。月明かりは弱々しく頼りない。
くそ、邪魔だ。
小枝を払うがアサツキの小さな身体はどこにも見えない。あの男やイレフの言葉が耳元に蘇り、頭を振り払った。馬鹿な、月へ還ったなど、そんな事ある訳がない。
アサツキ。
微かな声が聞こえ、それが彼女のものだと判断できなくとも、サージェットは足を速めた。
「アサ、ツ」
植え込みの下、一段と黒い闇の中、打ち上げられた魚がいた。
小さな青い魚。
ほんのりと浮かぶ袖の白、それがアサツキの服だと理解するに僅かな時間を有し、その無残さに気が付けばどっと冷や汗が吹き出した。
「ア、サ、ツキ…?」
裂かれた服に飛び散るのは鮮血。色を失くした頬と唇。
「アサツキ」
普段と同じ様に呼びかけたけれど、彼女の瞼は開かない。社長と返す声も聞こえない。ぐったりと横たわったままだ。
何故だ、足が、動かない。
がさりと木々の騒めく音に、サージェットは反射的に振り返った。誰かいる。
「誰だっ」
かっと胸が熱くなり、凍り付いた二つに足に血が巡る。瞬時にその方向へと駆け出した。許さない。
誰であろうとアサツキを痛めつけた者は許さない。この手で捕らえ、アサツキと同じ目に合わせてやる。待っていろ、アサツキ。今。
ところが夜はサージェットに味方しなかった。
見渡すも姿は見えず、葉擦れの音ももう聞こえない。ぎりっ。奥歯を噛み締めた音だけが響いて、サージェットは我に返った。
しまった、俺は。
サージェットは直情的で、常に冷静であれと父やイレフに何度も言い聞かされていた。だのに。傷ついたアサツキを置き、一人にしたのだ。
失態だ。
焦って踵を返したが、時は既に遅かった。
小さな青い魚の傍らには、あの男がいた。
高価な社交服の裾や膝が汚れることも厭わず膝をつき、宝に触れるかのようにそっとアサツキの頭を撫でていた。鳶色の目に慈しみの光を乗せて。
トエルフ。
ひゅっとサージェットの喉が鳴った。
『そいつから離れろ』
先程よりもずっと強い炎が、サージェットの胸を焦がす。
『触るな、俺のだ』
アサツキに触って良いのは、俺だけだ。誰にも触らせない。
ざっと回り込んでトエルフと反対側からアサツキを抱えようとし、白い手袋にひらりと制された。
『動かしてはいけない、彼女は貧血を起こしている』
『貴様に彼女の何が分かる。余計な口出しをするな』
『貴方よりも分かります。ともかく動かさずに』
『黙れ』
睨み合う彼らの視界の片隅で、アサツキの左手が動いた。何かを探すかのように指が空を切り、そして、きゅっと衣服の裾を握り締めたのだった。
トエルフの。
俺ではなく。
「アサツキ、俺はここだ」
アサツキの指を無理矢理抉じ開けたけれど、彼が思い描いていたように、サージェットの手を握り締めはしなかった。アサツキ自身の手を固く握るだけ。
何故だ。
何故、俺の手を握らない。
ぎゅっと心臓が痛んだが、アサツキを責められやしなかった。彼女の息は急速に弱まっていたのだ。
「アサツキ、しっかりしろ」
紙のような顔色の彼女を、誰に止められようとも、抱き上げずにはいられなかった。怪我を負ったアサツキを、このまま土の上に寝かせておけるものか。
だが。
眉をしかめたトエルフが、サージェットの前に立ち塞がったのだ。
『邪魔をするな、どけ』
『貴方は、彼女を理解していない。手を放すべきは貴方です』
しっとりと夜露に濡れた彼女の体温は下がり始め、だのに、いつまでもこの場に引き止めようとは。苛立つ心も隠さず吐き捨てた。
『貴様は何者のつもりだ』
『今の私が何者であるか、本当に分からないと?』
月を背にしたトエルフの瞳が、挑戦的に、鳶色に輝く。
『もう一度調査なさるといいでしょう、綿密に。身元ではなく、私の名を』
対峙はここまでだった。
腕の中のアサツキは小刻みに震え、立ち塞がる男を相手にする時間などない、ちっと鋭い舌打ちを残しその場を去った。
そのまま南区の邸へ。
連れ帰りたかった、本心では。
けれども、今は手当を優先すべきだ。
他の客には知られぬよう裏手を回り、客用の小部屋に彼女を寝かせた。程なくして使用人の報告を聞きつけたイレフが姿を現し、次いで手配した医師も到着した。
「サージェ、彼女は」
固い兄の声、冷静なイレフにしては珍しい。
衝立の向こうで行われる診察が気になり、サージェットは、何を聞かれてもああとしか答えられなかった。警備は厳重だった筈だ。なのに。
俺が、手放したばかりに。あいつは。
診療を終えた医師が、右手の傷は深いものの命に別状はないと告げたけれども、胸の重しは消えやしない。
一筋の傷もつけないと言った馬鹿はどいつだ。
ちきしょう。
「ごめんなさい」
意識をぼんやりながらも取り戻した彼女は、消え入りそうな声で詫びた。交流会を台無しにしたと、服を駄目にしたと潤んだ瞳で。
そんな事、どうでもいいだろう。この莫迦。
お前が謝る必要はない。責任は全て俺と兄にある。
「イレフ様、わ、私、おっしゃる通りにできませんでした。ごめんなさい」
この言葉に、イレフは顔色を失くした。
ぐぅっと喉を鳴らし、蒼ざめた顔を覆い隠して、それでも足らぬと部屋を出て行った。閉じた扉からイレフの火のような後悔が伝わる。
「謝罪すべきは僕だよ、ウサギさん…」
サージェットの心もまた、打ち砕かれた。
「ごめんなさい、社長」
「何を謝る。お前は何も」
「ごめんなさい。お仕事を果たせなくて、ごめんなさい。守れなくてごめんなさい」
アサツキの、あの小さな手で守っていたのは、自身の身ではなかった。サージェットの立場を必死で守ろうと。
お前は莫迦だ。
守られるべきは、お前だろう。
透明な水の幕を張った瞳、けれど、涙を流すまいと懸命に堪えるその姿。それは余りにもいじましく、サージェットの胸をぎゅっと締め付けた。
何故、お前はそんなにしてまで。
「ごめんなさい」
何故、これ程に胸が苦しい?
どうしたら苦しみは消える?
ああ、そうか。
謝罪し続ける、その唇を閉じてしまえば。
「アサツキ?」
アサツキは寝具の中で再び意識を失い、留める力を失った涙は、はらはらと頬に零れていた。海の至宝のように美しい涙を。
だから。
そっと、そっとその唇に、自分のそれを重ねた。
この上なく甘く。
何よりも優しく。
柔らかな吐息。
すとん。
彼は、堕ちた。
そう。
長屋の子ども等が言っていた同じ思いに。
分かるべきだと言った兄の言葉の真意に。
彼は、いつの間にか彼女を。
「…好きだ。お前が好きだ」
お読みいただき、ありがとうございました。
前回の続きなら、今回は軍曹さん登場でしょう。なのに、何故。
じ、次回こそ…多分。