254/西方590マイルより
「志麻、距離をとるぞ」
インヘルベリア先生が牛人と化すやいなや、ジョーは志麻の手をとって走りはじめた。
本質能力が使えない状態では、どのみち正面から戦うことはできない。
しかしそれ以上に、意識を失って倒れている異国の勇士――ユーレさんから牛人を引き離すのが優先された。
(ありがとう)
詳しい素性も知らない自分たちを信じて戦ってくれたユーレさんに心の中で告げながら、ジョーは駆ける。
ジョーの記憶の中に、あるシチェーションが想起される。一九六三年に祖父がアルティナードルグ城でヴァルケニオンと交戦した時の記憶だ。
あの時、スヴャトはヴァルケニオンと正面から戦うのは不利と考えて、アルティナードルグ城の中にヴァルケニオンを誘い込むという戦術を取った。その作戦はヴァルケニオンの能力「地球最強の存在」で、城ごと破壊されてしまい失敗はしたのだが。正面から戦えない場合、こちらが身を隠せる場に誘い込んで絡め手で戦うという基本方針自体は良かった気がする。何より、今、ジョーたちを追ってくる牛人は「地球最強の存在」ほどの強力な能力は持っていないのだから。
「志麻、こっちだ」
車で進んできた整備された道からガードレールを超えて、木が茂る山道に入る。木々は障害物となり、こちらに有利に働くように思われた。
ジョーは右手で志麻の手を引きながら、左手首に自分の意識を集中させて。
――いざとなったら、ヴォストーク1号を概念武装が使用可能な第三段階まで開放する。
黒い昇竜のアザがゆらめく。もちろん、それは「この世全ての犠牲」のかなりの部分の開放をも意味するので、最後の手段である。
山の中を、走る。走る。
しかし、こちらの見込みが甘かったのか。暴力的に木々をなぎ倒しながら、牛人は一定の速度でジョーと志麻を追ってきている。
牛人の叫びが、闇の山林に木霊する。
「地図か? 位置情報か? 空瀬アリカの居場所を、渡せ!」
やはり、牛人の目的はアスミにまつわる力。具体的には。
(あちらの目的も、アスミの十三体目の義体か)
そのために、アスミの母――空瀬アリカの居場所を追っているということのようだ。確かに、真実大王を凍結させている「氷のカッシーラー」ともう一つの謎の力「マグマ」の秘密を知っているのは、アスミの義体を作った空瀬アリカである。
(逆に言えば、夢守永遠のことまでは知らないのか?)
ここで、ジョー自身の思考にも一瞬の閃き。
慌ただしく日本を出発したので、確かめる時間がなかったが。
(弓村理子も空瀬弓姫も故人だけど、この世界にはまだ、生きてる夢守永遠が一人いるじゃないか)
――アンナお祖母ちゃん。
お祖母ちゃんは何を想って。不自由な身体で、夫――新和が死んだ後の時間を生きてきたのだろう。
(牛人、ここで食い止めなければ。アンナお祖母ちゃんまでは、辿り着かせはしない)
そのためには、何としてもこの窮地を切り抜けねばならないのだが。
こちらに有利かと思った山林を行くという選択だったのだが、やがて残酷な事実に気づきはじめる。森の中には、獣の匂いが立ち込めていたのだ。
「ジョー、広範囲に多数の敵性・存在変動律です。これは」
ヴォーちゃんの声がジョーの内面に響く。
山道は下ると、ちょうど木々が閑散とした空所に辿り着くようであるが。
(誘われていたのは、こちらの方か)
かくして視界は開け、ちょうど円形のギャップにジョーと志麻は辿り着いた。
円形の空白地帯を敵の存在変動律が取り囲んでいるので、自然と円の中心部に向かって歩みを進めるしかない。
後方から、追ってきた牛人が姿を現した。
「強き私が、やはり認められるべきだ! そして認められる私が、従わせるべきだ!」
続いて周井の森から現れたのは、獣化系の存在変動者たちの一団である。バーバーリーマカク人、ヘラジカ人、アカシカ人、オオカミ人、ヒグマ人、シベリアオオヤマネコ人、シュトランドポニー人、一目では何の獣人か判断できない異形の者もいる。いずれもが屈強な肉体を誇る、大獣人軍団であった。数にして、数百にのぼる。
「牛人を頂点とするヒエラルキー構造の獣人群体です」
ヴォーちゃんの解析から、一つの対処法を導き出す。王道ではあるが、敵が統率された行動を取る前に動かなくては。
頂点――王をかく乱できればあるいは……と、ジョーはインヘルベリア牛人に向かって飛び蹴りをくり出したのだが。
牛人の頭部を狙った蹴りは、敵の剛腕に薙ぎ払われてしまう。ダメージを最小限にするべく、牛人の腕に上手く「乗って」後方に跳躍するジョーだったが。
ジョーと牛人との距離が離れる。自身の柔術の身体能力と、スヴャトの戦闘知識を組み合わせても、厳しい。王である牛人の号令一つで、数百の獣人軍団が押し寄せるという段階まで詰められているのだ。
ジョーの攻撃から間髪を入れず、志麻が手にしたナイフで牛人の腹部に突きを放つが……これも効かない。牛人の鋼の肉体を前に、ナイフの方が折れてしまう。
「父にも、見えていないものがあったのだ。次世代エネルギー、オントロジカを制したものが王となる。違う。まだ先の領域があったのだ。空瀬アスミにまつわるような、さらなる次の『何か』!」
牛人の兇暴たる怒号を前に、志麻は折れたナイフを片手に持って。
「それで、また奪うの?」
「何を言っている??」
そこだけ時間が止まっているかのように、志麻は静かに語り続けた。逃走による汗で衣服が肌に貼りついて、呼吸が速く、それでも内の魂だけは森閑と揺らめかせるように。
「次の優れた『何か』があるからソレを奪って。もしまた次の優れた『何か』が見つかったとしたらソレも奪って?」
「何を言っている??」
果実風味の甘い香りが、舌から鼻にかけて残っている。幾ばくかは、堪能したスロヴェニアのワインの酔いの勢いに、彼女の詩情性を乗せて。
「それじゃ終わらない。どこにも、愛がない!」
「弱者には、王となる者の考えは分からぬようだ! 愛! なんだその幻は、どこにある」
「ようやっと見つけたものだわ。私に授かったこの本質能力で本当にやりたいこと。私の真ん中にある気持ち。幻なんかじゃ……」
牛人は志麻の言葉を遮るように、剛腕を振り上げた。
「バカな女は、嫌いなんだ!」
この時、ジョーの内面で一つの決断。左の掌を牛人に向かって大きく突きだした。
(ヴォーちゃん、開放する)
「作戦」を変更。「代案」まで辿り着けるかももう分からない。たとえここで「この世全ての犠牲」を解き放つことになっても、後は準備が不十分でも何とかしていくしかない。志麻は、死なせない。
ジョーの左手首の昇竜のアザが大きく広がりかけた時である。
しかし、何たることか。あるいは、この世界には志麻が口走った幻は、まだあるのか。ジョーの焦燥に対して、その時、慰撫するような優しい声が天から降りてきたのだ。
「待ちなよ――余裕はね、とっておくものなんだよ。――宮澤ジュニア君」
胸に温かい気持ちが伝播してきたので、ジョーは決断を取り下げ、掲げた掌を下した。
ジョーがヴォストーク1号を開放するまでもなく、牛人の剛腕が打ち下されることはなかった。
峻烈なる落雷の前に、志麻を蹂躙しようとした醜い牛人の腕は爆ぜて消えた。
雷の正体は、清廉たる剣であった。その剣に、見覚えアリ。
――偶像化された乙女の剣。
「ジョー、西方590マイルより強大な存在変動律。この蒼き波動は……味方です!」
ヴォーちゃんの解析が、一つの可能性を裏づける。この援軍は。
この欧州と呼ばれる地で、ここ、スロヴェニアのリュブリャナから西方590マイルにある都市と言ったら……。三つの国境を越えた先の、芸術と華の都――。
――自由の国フランスは、パリ。
ジョーの背骨に、八月十二日以来消えていた「蒼い線」が再び供給され始める。
巨大な紫の立体魔法陣は、天空に現れた。
何もできなくて、それでも譲れないものがある時に、人は空を見上げる。志麻が天に見つけたその藤色の白熱こそが、志麻が追い続けた、これからも追い続ける星アカリだ。アスミとは少し違うカタチの、山川志麻が信じるもの。その、体現だ。温かくて、飄々としてるんだ。
立体魔法陣が上方へと収束していくと、西方よりやってきたその存在の姿が顕わになっていく。
婉然たる皮のブーツは王女のような高貴さと、世界の果てまで踏破してゆきそうな強さと、両方を兼ね備えている。
たおやかなる肌。セクシーでありながら、うかつに触れるものを蹴り殺しそうな、天馬の俊脚のごとき、ふくらはぎから太腿へのライン。それを、一定のリズムではためくスカートで隠している。帯剣が可能な黒のベルトは姫騎士の仕様で、纏いたるは上下が連絡し合っている、蒼穹の軍服ワンピース。ついに現れる尊顔は、限りなく深いブルーの瞳に、亜麻色の流れる髪を左サイドで束ねている。口元には、雅趣な微笑を。
改めて形容しよう。彼女は志麻の、ジョーの、アスミたちの、頼りになる「お姉さん」って感じ。
現れた彼女が両腕を交差すると、青い稲妻と共に無数の白銀の洋剣が天空を覆い始める。
次いで左右に両腕を解き放つと、彼のロマンス語系の言語ならではの舌使いで、癖になる感じで発音しながら、一言。
「概念武装・歴史」
白銀の洋剣の、雨が降る。
その一振り一振りが、彼の国の歴史に残る英雄たちが手にした、霊験あらたかなる剣なのだ。
ジョーと志麻を取り囲んでいた獣化人間たちの群れは、右往左往だ。
喧騒の中、久しぶりの彼女に向かって、一応ジョーも声をかけてみる。
「おまえ、自分の国が優先だから撤退するとか言ってなかったっけ!?」
「勝機が見えたなら、また加勢するよ!」
「げんきんなヤツだな! ありがたいけど!」
悶絶して言葉とは理解できない絶叫をあげる牛人の狂騒をよそに、志麻が一瞬だけ瞬きすると、次に瞳を開けた時には彼女はもう、空から地上に降り立ち、髪をなびかせながら志麻の目の前に立っていた。
近くで久しぶりにその姿を瞳に納めたら、少しばかり雑然と髪を乱して。豊満な胸を揺らして。纏う雰囲気は朗らかで。戦場よりも、酒場にでもいそうな、陽気な少女像。
「志麻ちゃん、見つけたんだね」
美しい声と言葉が、志麻の胸に木霊してゆく。
――再びこの世界の「意味」に、出会える気がした。
――そうだ。私は見つけたんだ。この世界で、私にだけできること。私にだけ成せる善なること。
――だから母に愛されなかった人間だとしても。進まなくてはならない。
志麻は折れたナイフを手放して、力強く頷いた。
爆散した右腕を、その権威をいまだ誇示せんとでもするように振り上げながら、牛人が叫ぶ。
「貴様、何者だっ!?」
その問いに、彼女は極めてナチュラルに、そして優雅に返答した。
「私? 最近のコンセプトは、ファンに逢いに来てくれる偶像。建造百二十四年でもハートは女の子。エッフェル塔、だよ」




