序章 運命の夜
少女との距離はメートルにして一桁程度だ。プロとして当然のことだが、少女はツバサに気付く様子などない。規則正しく胸を上下させているだけだった。少女の長く、艶やかな赤髪が月の明かりを受けて爛々と輝いて見える。そっと顔を改めて確認してみると、その赤髪と白い珠のような肌、翠の瞳、そして人形的にまで整った顔立ちで、一つの完成された美貌の持ち主であると誰もが認めるだろうと断言できた。
少女の服装は最近、神聖帝国貴族の女子の間で流行しているゴシック調の黒服で、それはやもすれば天使のような容姿の少女に若干悪魔的な雰囲気を与えている。
ツバサはベッドで寝そべる少女を見下ろすように眺めながら、今までの任務とは違い、幼い命を刈ろうとしていることに若干の罪悪感を覚えた。だが、今が絶好の機会であるとの合理的な思考が、軍人であるツバサに残酷な暗殺者へとなる事への後押しをした。
今回、ツバサは銃を使わない。銃声がすれば、いくら堕落しているとはいえ、警備兵が飛んでくる。ツバサの実力からすれば警備兵など一蹴できるだろうが、面倒事は避けるに越したことはなかった。
ツバサは胸元からナイフを取り出し右手に構えた。そして――無慈悲にも少女の命を絶とうとナイフを勢いよく振りおろした。
気配に気が付いたのか、少女が黄金の眼を開いた。だが、遅かった。ツバサの振るったナイフは物理的法則の通り、少女の首を切り裂こうとした。
「なっ」
だが、そこで予想外のことが起きてしまい、ツバサは思わず声を出してしまった。少女の首は切り裂かれるべきだった。それだというのに、その少女の姿が視界から消えてしまったのだ。いつもなら、ここで冷静な判断をし、迎撃の構えをとったに違いないのに、このときのツバサは大きく動揺していた。今まで戦闘の最中に油断したことなど無いツバサだったが、今回の任務ではそもそも初手がかわされ、戦闘になるとさえ思ってもみなかったのだ。それゆえに何も構えもせずに、ただ、少女の姿を探してツバサは後ろに振り向いた。当然のように、振り返ると、そこには艶やかな笑みを浮かべる少女が立っていた。
それを見て、ツバサは少女がどういう存在かに気が付いた。そう、物理的法則に従わない――科学とは対極を成す力、魔術を使う存在だと。しかし、思考は辛うじて反応できたが、ツバサの身体の方はそうはいかなかった。驚きの硬直から抜け出せずに、少女に無防備な姿を晒してしまう。
その瞬間、少女はツバサの方へと飛びつき、首に手を回し、そして黄金の瞳を瞑って薄い唇を、ツバサの唇に触れさせた。
少女の体からはすごく甘く、いい匂いがした。少女の体は恐ろしく軽く、柔らかだった。最初は異常事態に驚いていたツバサだったが、だんだんとこうすること当たり前のことで、ナイフを投げ捨てて、少女を抱きしめ返すことが、最も大事な事のように思えてきた。
力の抜けたツバサの手からナイフが滑り落ちた。ツバサは少女を抱きしめ返し、さらに強く抱きしめ、キスをしようとした。そこで、少女の瞳が薄く開かれた。紅い瞳が。深く、深い、紅い瞳が。その瞳には艶やかな、娼婦のような毒々しさと残虐な優越感に浸った輝きが湛えられていた。
一瞬の出来事だった。その紅の瞳が放つ異様な感覚にツバサの生存本能が、身体を突き動かした。
「きゃっ」
少女は驚いたように声を上げ、尻餅をついた。なぜならば、少女が今までキスをしていた相手に突然突き飛ばされたからだ。驚きの表情は次の瞬間にはさらにその度合いを強め、次に表情を強ばらせた。なぜなら、ツバサの右手には、拳銃が握られ、その銃口の射線には、少女の頭部があったからだ。
ツバサは朦朧とした意識の中で、それでも力強く、生存本能が命じるままに、引き金を引いた。銃声が部屋に響き、着弾と同時に少女の小さな身体は後ろに倒れた。
少女が倒れて直に、ツバサの意識ははっきりと戻った。だが、それでも先ほどの不思議な少女との接吻のためか、冷静さを欠いたままだった。いつものツバサなら、家中で拳銃を使ってしまった段階で、さっさとこの場から去っていただろう。
だが、今回、彼はそうしなかった。特に考えもなしに、ただ、なんとなく少女の遺体に近づいて、その死を確認しようとした。後一歩というところまで近づいたところで、
「キスした相手に銃弾をぶっ放すなんてひどいんじゃないかしら」
少女の遺体がしゃべった。ゆらり、と少女が立ち上がる。少女の頭部からは赤い鮮血が零れ落ち、銃弾が間違いなく彼女の頭部に命中した事を証明している。だが、少女は平然と、流れてくる自らの血を指ですくい、嘗めとった。表情は別段、頭部の傷を気にしている風もなく、扇情的な笑みである。ツバサはとっさに地を蹴り、少女との距離をとった。
「やっぱり、おまえ、こっち側かよ」
ならばこっち側の流儀で戦うだけだ、とツバサは自らの相棒を呼び出す。
「来い! エンオウ」
その叫びと共に、ツバサの手に光が収束し、そこには炎に包まれた鋭利な刃物が現れる。それと同時に、ツバサの周囲に炎が広がった。これは、エンオウという神器の力を借りているから出来る芸当だった。本来、魔術には詠唱というものが必要であるが、熟練した術者なら、それを短縮することもできる。だが、何も唱えないというのに、魔術的な力を働かせるという芸当は、神器などがなければ不可能であった。
「燃やすものと燃やさないものとを細かに分けてるわね。これほど精密な魔力制御……エンオウ、というのは大和の言葉で炎の王という意味かしら?」
部屋が一瞬で炎で満たされるというこの光景を見ても、少女は臆することもなく、床や壁が燃えていないのを見て、冷静な分析を行った。
「極東の島国の言葉をよく知っているな」
確かに、エンオウとは炎王、もしくは炎皇と和語では書く。そのことを知っている少女の博識にツバサは軽く驚いた。
「何せ何百年も生きているから、いろんなものを見、いろんな話を聞き、いろんな人に会ったわ。その中になかなか面白い黒髪黒眼の女がいたわ」
「何百年……やっぱり魔族か」
しかし、いくら科学の時代に変容しつつあるとはいえ、ツバサはイブレーア教の楯である神聖帝国が魔族を飼っているとは思っていなかった。そして、なぜ、自分にターゲットである少女が魔族と知らされていなかったのか疑問に思った。最初から少女が魔族であることを知っていれば、もっとやりようがあったはずだったのだ。
(嵌められたかな)
異国の髪と名前を持つ自分に、一つ上の上官や同僚たちが良い感情を持っていないことを、ツバサは知っていた。帰ったら、嵌めた奴らを殴ろう、と固く決意をしつつ、脳裏には既に何人かの顔をリストアップしていた。そして、その決意を実行するために、全力で生きて帰ってみせると誓ったのだった。
「あなたもこっち側だったのね。不意を突いた魅惑の呪いを破るとはやるわね」
そんな少女のどうでもよい話を無視して、ツバサは生きて帰るために全力でエンオウを手に少女に挑む。
「仕方ないわね……」
少女の方も剣を取った。それは細身の、レイピアと呼ばれる種類のものだった。肉薄するツバサに臆する風も無く、ただ、剣を構えた。その顔には遊びか余裕かわからないが、笑みが浮かんでいた。
数合、激しく打ち合う。少女が必殺の構えを見せる。
レイピアは、受けには向かない。それゆえ、ツバサは少女の次の行動を回避と反撃の突きだと予測した。ツバサの予測通り、少女は紙一重で斬撃をかわし、流れるように鋭い突きを放った。予測していた。ツバサをその一撃を避ける。両者とも、大振りな一撃に失敗し、一瞬、互いに無防備になった。
「燃やせ!」
反攻の一撃に失敗した少女へ、数瞬ほど前に彼女がかわしたエンオウの刃から炎が襲い掛かる。
「ぐっ」
少女は無防備なところに襲い掛かってきた炎をまともに被った。黄金瞳が、ここまで絶えず笑みを浮かべていた顔が、苦痛に歪んだ。少女の身に纏っている魔力が彼女の肉を焦がすことを防いだとはいえ、その白磁のような肌の下は数百度の熱を浴び、かなりのダメージを受けたはずだ。この機を逃すまいと、ツバサは刀を横に薙ぎ、手負いの少女へ切りつける。さすがに、これは予想内だったのか、炎に怯みながらも、少女はその一撃を見切り、レイピアのもっとも頑丈な部分である鍔でそれを受けた。
「貰った!」
少女が斬撃を受けると同時にツバサが蹴りを放った。飢えた猛禽類が一直線に獲物に襲い掛かったような真っ直ぐで、鋭い一撃。
「がはっ……」
それは少女の腹部にのめり込み、内臓を確実に捕らえた。物理的法則に従って、少女の小さな身体が跳ね上がった。ツバサは犬や猫を蹴飛ばしたような、あまりに軽い感触に、少女が余りにも小さいことを思い出した。そして、うずくまる少女に再び罪悪感が頭をもたげて始めた。
「なぁ、俺さ、別にもう、あんたのクビはどうでもよくなったんだ。だから、もし、帰してくれるんだったらもう何もしない」
「……レディーにここまでしておいてそれは随分と都合がいいとは思わないかしら?」
「だよな」
ツバサとて、そのように都合のいい展開になるとは思っていないが、一応、苦しそうに腹部を押さえ、剣を強く握りなおした少女にもう一度だけ宥めるように声を掛けた。
「止めとけ。お前じゃ俺に勝てないだろ」
ツバサへのレイピアでの一突きも、エンオウの一撃を受けた動作も、神聖帝国騎士の動きで、それとしては少女の動きは完成されていた。一流といっていいだろう。だが、ここは戦場でも、駆け引きの無い騎士同士の決闘の場でもない。動きがあまりに完成され、理性的で合理的過ぎた。それだけでは、こういう場で幾度となく死線を潜り抜けたツバサに、少女は及ばないだろう。
「確かに、今のわたしじゃ勝てないわね」
ニヤリ、と少女が笑った。
「けど、ちょっとだけ本気を出せば……」
「ん?」
「負けないわ!」
言うと同時に少女は剣をツバサへ向けて投擲した。ツバサは余裕を持ってそれを迎撃した。
が、その次の瞬間には少女の端麗な顔がツバサの目の前に現れた。そして、ツバサはある事に気が付いた。少女の黄金眼が再び紅くなっていたのだ。
少女が無駄一つない、動作――先程までの理性的な意味ではなく、本能に従っているような――でツバサの顔面に殴りかかった。その拳は魔力の赤い光に包まれていた。
「くっ」
ツバサは辛うじてエンオウで拳を受け止めた。そして、彼女が何者であったか悟った。
「半魔族か!」
半魔族――魔族と人間の間の子。魔族と人間の間に子ができるのは非常に稀である。もともと、寿命が人間とは比べ物にならないほど長い魔族は人間に比べて大きく繁殖力で劣っている。それに加えて、人間と魔族の姿かたちは似ているが、別の種族である。互いに愛しあった魔族と人は歴史上多くいるが、子が残ったのはほんの僅かである。その数少ない子である半魔族は人間と魔族の血の両方が流れていて、上手くそれをコントロールできる。その気になれば、完全に人間のように、魔族のように振る舞える。だが、あくまで身体は魔族と人間との中間物であるが故に、人間よりも強大な力を持つ魔族の血を多く身体に流せば、身体や精神に負担が大きくかかる。そして、実際、目の前の少女も、魔族の血の負担によって理性的な面を半ば失っているようだった。
ツバサの問いに答えることなく、少女の身体が、獲物に飛び掛る獰猛な猟犬のごとく飛び掛る。余りに理性のない、単調な動き。ツバサはその単調すぎる動きに半ば呆れながら、エンオウを一閃させる。
しかし、獣は止まらなかった、高速で薙ぐ刃を少女は魔力でコーティングされた手で掴み、刃を軸に空中を一転し、そのまま踵を振り下ろした。
「がッ」
ツバサは頭部に当たれば、頭蓋骨の中身を揺さぶられるだけはすまなかっただろう一撃を、僅かに逸らし、肩で受けた。ツバサを守っている魔力など、何ひとつ役立たず、粉砕された。だが、ツバサが肩の痛みを実感する前に、その神経が痛みを伝える速度よりも早く少女は次の行動を完遂していた。グサリ、と少女の腕が、ツバサの身体を貫いた。
「うっくぅ……、ぁぁっはっ」
ツバサが苦痛に呻く。今すぐ、叫び声を上げたいのに、身体に刺さっている少女の腕が、身体の中で詰め物のようにツバサが声を上げようとするのを妨害する。彼女の腕が刺さっている状態では、発声に使っている筋肉が上手く動かないのだ。
少女の紅い、冷たい瞳が、ツバサを捉えた。もはや、戦闘能力の半ばを失ったツバサに対して先ほどまでの敵意も殺意もなく、人間の血が勝っていたときに瞳に浮かんでいた、理性的な輝きもなく、ただ、そこには壮絶な苦痛を強いられているツバサが映っているだけだった。
そしてそのまま、ズボッと、少女の腕が引き抜かれた。
「がああああっぐうっうっあぁぁっはっ、はぁっはっ」
続いて、少女が床に落ちていた剣を見た。それはツバサがエンオウで弾き飛ばした彼女のレイピアだった。少女はそれを魔力で引き寄せ、手に取った。そして、それをツバサのクビへ勢いよく振り下ろそうとした、その時だった。
「やめてください、モニカ様!」
若く、人懐っこそうな女性の声が、響いた。
「あら、危ないところだったわ」
頭の後ろを掻きながら、少女の瞳が紅から黄金へと移り行く。瞳が完全に黄金になると、先ほどの獣じみた雰囲気はなくなり、研ぎ澄まされた刃のような理性が身体全体から感じられた。しかし、ツバサの関心は少女ではなく、新たに場に現れた女性に向けられていた。
「め…イド?」
ツバサがおぼろげに目にしたのは、なんとも可愛らしい、誰からも好かれそうな顔立ちをした、メイド服を着込んだ女性だった。朦朧とした意識ではそれ以上、はっきりした感想を持つことはできなかった。
一方で、メイドの方はツバサのその台詞を聞いてなぜか顔を引きつらせていた。やはり、意識を朦朧とさせているツバサにはそこまで識別できなかったが。
「あらぁー今なんと仰いました? 殺しちゃいますわよ?」
「――っ」
メイドが突然、全力でツバサの頭をぶん殴った。
腕で身体を貫かれた、後、どうしようもない激痛に耐えているときに放たれた一撃に、ツバサが声にならない悲鳴をあげながら、地面に倒れる。
「ちょっと死んだらどうするつもり?」
人間ひとりの命を話題にするには随分と軽い口調だった。多くのものが冗談でこの程度のノリで命を話題にすることはあったが、目の前で体を貫かれた人間が倒れているにも関らず、ここまで軽い口調で命という話題を扱った者はほとんどいないだろう。
「はっ! わたしとしたことがついうっかり人間を殺してしまうところでした。てへっ」
てへへっ、と頭のゆるそうな締まらない顔でメイドがこつん、と自分の頭を叩いた。そんな些細な光景ももう、ツバサの目には映っていなかった。映っているのは高級そうな赤い絨毯が敷かれた床だけだ。赤い絨毯に紅い血が染み込んでいくのを、力なく眺めている。
死。その言葉がツバサの中でうっすらと連想された。もう、全てを諦め、死を受け入れようとした時、少女がツバサの顔を覗き込んだ。そして、死の一歩手前でツバサが命を繋いでいるのを確認すると微笑んで見せた。
「……うん、生きてるわね。まぁ、安心して眠りなさい。命は助けてあげるから」
まるで、子供がおもちゃを見つけたかのような笑いだった。ツバサは薄れていく意識の中で、娼婦のような笑いよりも、残虐なものを連想させる笑みよりも、こちらの少女の笑みの方がずっと可愛い、と思った。
書き溜め分で、本一冊分ぐらいあるので、こまめに更新します。




