第四話 約束の終わり、その先へ
国王の退位まで、残り三日となった。
北方の襲撃は、かろうじて食い止められていた。王太子アルベルトが急遽編成した救援部隊が到着し、国境の村々から避難民を王都へ移送したのだ。しかし、砦は大きな損害を受け、兵士にも多数の負傷者が出た。
結界が弱まったことで、魔物の侵入は北方だけに留まらなくなっていた。西の山地では魔物の群れが移動を始め、東の森林地帯でも異常な行動が報告されている。各地の領主は兵を集めようとしたが、長年の軍備縮小によって、すぐに動かせる兵力は限られていた。
食料の問題も深刻だった。王宮が調査を命じると、国の備蓄は想定を大きく下回っていることが判明した。豊作が続いたために不要と判断され、各地の倉庫は修繕されず、備蓄そのものも縮小されていたのだ。更に、領主の中には、私有地に食料を囲い込んでいる者もいた。
アルベルトは、王宮の会議室で報告書を読み終えた。
「……これほどとは」
声が掠れた。
自分たちは、国を守る仕組みを失っていた。女神の加護があったから、問題が表面化しなかっただけなのだ。
「王太子殿下。各地の領主から返答が届いております」
文官が報告した。
「食料の提出を拒んでいる者が複数おります。また、軍の再編についても、領地の防衛を理由に協力を渋る者が……」
「自分の領地だけを守るつもりか」
「そのようでございます」
アルベルトは目を閉じた。
今まで、国を守ることは女神と聖女の仕事だった。王家は豊かさを享受し、貴族は自分たちの利益を守り、民はその豊かさを当然のものとして受け取ってきた。その結果が、これだった。
「命令を出してください」
アルベルトは顔を上げた。
「王家の備蓄を全て公開し、避難民と負傷兵に優先して配給します。貴族の私有備蓄については、領民の生命に関わる場合、必要量を供出させる。王宮の装飾品や不要な調度品も売却し、防衛費に充てます」
「しかし、殿下。それでは王家の威信が……」
「威信?」
アルベルトは、思わず笑いそうになった。
「民が飢え、兵士が死に、国境の村が魔物に襲われているときに、王家の威信を守って何になるのですか」
文官は口を閉ざした。
「王家の威信は、王冠の重さで決まるのではありません。民を守るために何をしたかで決まるのです」
アルベルトは立ち上がった。
「私自身も、王族としての責任を免れるつもりはありません。父の命令を待たずに動きます。必要ならば、私の財産も全て使ってください」
それは、決して十分な対策ではなかった。失われた時間を取り戻すことは出来ない。明日にも全ての砦を修繕することは出来ず、兵士たちが一朝一夕に強くなるわけでもない。
だが、何もしないよりはよかった。漸く、国の人間が自分たちの責任で国を守ろうとし始めたのだ。
退位前日。
国王レオナルト三世は、大神殿を訪れた。彼の表情には、かつての威厳がなかった。
「聖女に会わせてほしい」
大神官セラフィムは、暫く国王を見つめた。やがて、静かに頷いた。
「こちらへ」
エレノアは、神殿の庭園にいた。以前よりも顔色は戻っていたが、まだ長時間歩くことは出来ない。彼女は木陰の椅子に座り、薬草園で摘まれた花を眺めていた。
「陛下」
立ち上がろうとする彼女を、国王は手で制した。
「そのままでよい」
彼は、少し離れた椅子に腰を下ろした。
暫く、二人とも何も話さなかった。やがて、国王が口を開いた。
「……そなたは、余を恨んでいるか」
エレノアは意外な質問に目を瞬かせた。
「いいえ」
「何故だ」
「陛下を恨んでも、何も変わらないからです」
国王は苦い顔をした。
「随分と率直だな」
「申し訳ございません」
「いや、よい」
彼は庭園の木々を見上げた。
「余は、この国を豊かにしてきたつもりだった」
エレノアは黙って聞いていた。
「税収は安定し、民は飢えず、街は栄えた。隣国との交易も盛んになり、王宮には各国の使節が訪れた。余は、それを自分の治世の成果だと思っていた」
国王の声が低くなった。
「だが、何ひとつ、自分の力ではなかったのかもしれぬ」
「全てが女神様のお力だったわけではありません」
エレノアは答えた。
「陛下の治世で行われた仕事も、国を支えてきた人々の努力も、確かにあったはずです。ただ、加護があったからこそ見えなかった問題があったのです」
「……慰めてくれるのか」
「いいえ。事実を申し上げているだけです」
国王は小さく息を吐いた。その表情に、初めて疲れが見えた。
「余は、恐ろしかったのだ」
彼は続けた。
「加護が終わると認めれば、余の治世が失敗だったと認めることになる。歴史に愚かな王として名を残すことになる。そう思うと、どうしても認められなかった」
「はい」
「だから、何とかして加護を延長しようとした。そなたの命を犠牲にしてでも、国を元どおりにしようとした」
国王は、両手を見つめた。
「余は、何をしていたのだろうな」
エレノアは、すぐには答えなかった。彼女には、国王を許す義務はない。彼の失策によって、これから多くの人々が苦しむだろう。自分自身も、もう少しで命を落とすところだった。それでも、彼が初めて自分の過ちを口にしたことは、事実だった。
「陛下」
エレノアは静かに言った。
「過去を変えることは出来ません。ですが、これから何をなさるかは、まだお選びになれます」
「退位した後も、か」
「はい」
国王は目を伏せた。
「……そうか」
それきり、彼は何も言わなかった。立ち上がり、庭園を去るとき、彼の背中はひどく小さく見えた。
だが、エレノアは同情だけで彼を見送ったわけではなかった。王の後悔が本物であっても、失われた年月は戻らない。謝罪したからといって、責任が消えるわけでもない。
これから先、国王がどのように生きるのか。それを決めるのもまた、彼自身だった。
退位の日。
王都には、かつてないほど多くの人々が集まっていた。王宮前の広場には、各地の領主や貴族、神殿の関係者、そして市民たちが詰めかけていた。
華やかな式典になるはずだった。だが、人々の顔には不安があった。北方の被害は広く知られていた。結界の亀裂は今も残り、王都の外では避難民が仮設の宿舎で暮らしている。
誰もが知っていた。今日、王冠が渡されれば、女神の加護が終わる。
王宮の大広間では、国王レオナルト三世が玉座に座っていた。その前に、王太子アルベルトが跪いている。
国王は王冠を外した。長年、その頭上にあった黄金の冠。それを両手で持ち、息子へ差し出した。
ほんの一瞬、彼の手が止まった。今、王冠を渡さなければ、加護は続くのではないか。退位を撤回すれば、女神は約束を変えるのではないか。
そんな考えが、頭をよぎった。
「父上」
アルベルトが顔を上げた。
「……渡しては、いただけませんか」
その言葉に、国王は目を閉じた。
女神の約定は、王個人の都合で変えられるものではない。たとえ退位を先延ばしにしても、失われた備えが戻るわけではない。王冠を握りしめ続けたところで、国を守ることは出来ないのだ。
レオナルト三世は、漸く冠を差し出した。アルベルトが、それを受け取る。
その瞬間だった。大広間の窓から差し込んでいた光が、ゆっくりと変化した。王都を包む淡い金色の輝きが、薄れていく。遠くの山々を覆っていた光の膜が消え、国境の空に走っていた結界の紋様が、ひとつずつ消失した。
女神の加護が、終わった。
広場から悲鳴が上がった。
「結界が……!」
「女神様!」
「聖女様、どうかお祈りを!」
人々は空を見上げ、神殿へ向かって叫んだ。だが、空は何も答えなかった。
雨が降り始めた。それは祝福の雨ではなかった。ただの雨だった。
誰かが祈れば止むわけでもなく、誰かが嘆けば弱まるわけでもない。
人間が傘を差し、屋根を直し、水路を整え、備えなければならない、自然の雨だった。
加護が失われた翌朝、国土が一瞬にして荒れ果てるようなことは起こらなかった。畑の麦は、まだ黄金色の穂を垂れていた。果樹園には実がなり、街の市場には食料が並んでいた。
だが、全てが元どおりというわけでもなかった。国境付近では、結界に阻まれていた魔物が動き始めた。長年の気象の安定に慣れきっていた農村では、激しい雨に水路が耐えきれず、畑が浸水した。各地の砦では、魔物に備えるための修繕が急がれたが、兵士も資材も足りなかった。そして、備蓄の不足は、避難民の増加とともに深刻な問題になっていった。
王太子アルベルトは、即位後、最初の命令として王宮の備蓄を開放した。貴族たちには食料と兵力の供出を求め、協力を拒む領主の責任を追及した。全てが順調に進んだわけではない。
命令に従わない領主もいれば、食料の配給をめぐって争いが起こる地域もあった。魔物の襲撃で失われた村もあり、農地を離れなければならなくなった人々もいた。国は、確実に傷ついていた。
そして、その傷を治すには、長い年月が必要だった。
退位から一か月後。王都から北へ二日の場所にある小さな村で、エレノアは畑の土を踏んでいた。神殿の許可を得て、彼女は聖女としての公務から離れていた。
加護が消えた今、結界を維持するために祈る必要はない。女神の意思を受け取る力も、以前のようには感じられなくなっていた。
だが、身体は少しずつ回復していた。朝、目を覚ましたとき、身体の痛みが以前より軽くなっていることに気づく。食事をおいしいと思えるようになった。長い距離を歩いても、途中で倒れることがなくなった。
彼女は、そうした小さな変化をひとつずつ確かめながら暮らしていた。
「エレノア、そっちの籠を取って!」
畑の向こうから、ミリアの声がした。
「これ?」
「そう、それ!」
エレノアは籠を抱え、畝の間を歩いた。
土にまみれた手。汗で額に張りつく髪。聖女の衣装とは違う、簡素な服。かつてなら、そんな自分の姿を想像することさえなかった。
彼女は畑にしゃがみ込み、土を指先で掬った。
「……土って、こんなに重かったのね」
「何を今さら言っているの」
ミリアが笑った。
「あなた、昔は畑仕事が嫌いだったじゃない」
「そうだったかしら」
「そうよ。虫が出たら逃げるし、泥がついたら大騒ぎするし」
「ひどいわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声は、何の力も持たない。雨を止めることも、魔物を遠ざけることも、枯れた畑を一瞬で蘇らせることも出来ない。
けれど、エレノアは、その笑い声を大切なものだと思った。
自分が守りたかったのは、こういうものだったのかもしれない。誰かが誰かのために働き、失敗すれば助け合い、苦しいときには一緒に悩む。
女神の加護があった頃、この国は豊かだった。しかし、豊かであることと、幸福であることは同じではなかった。
そして、加護を失った今、彼らは漸く、自分たちが何を持ち、何を失い、何を取り戻さなければならないのかを考え始めていた。
その日の夕方、王宮から使者が訪れた。
「聖女エレノア様。アルベルト陛下より、お手紙を預かっております」
エレノアは手紙を受け取った。
そこには、王都の状況と、国の再建に向けた取り組みが記されていた。農業用水路の再整備。国境の砦の修繕。魔物討伐隊の再編成。食料備蓄制度の再構築。いずれも、建国時代に計画されながら、加護を理由に中止されていた政策だった。
そして最後に、こう記されていた。
『エレノア殿。
私は、王家が犯した過ちを、全て償えるとは考えていません。失われた命も、傷ついた人々の暮らしも、私が謝罪したところで戻るものではありません。
それでも、これから先の国を変える責任は、私にあります。あなたに、再び国を守るための祈りを求めるつもりはありません。どうか、あなた自身の人生を生きてください。
そして、いつかこの国が、女神の加護に頼らずとも人々を守れる国になったとき、私たちの選択を見届けていただければ幸いです。
アルベルト』
エレノアは、手紙をそっと畳んだ。
彼がこれから、どのような王になるのかはわからない。改革が成功する保証もない。貴族たちの反発が収まるとも限らず、国が再び大きな危機に見舞われる可能性もある。
だが、少なくとも彼は、誰かが何とかしてくれるのを待つことをやめたのだ。
それは、小さくても確かな一歩だった。
その夜、エレノアは村の外れにある丘へ向かった。
かつて、女神の加護を感じるとき、彼女の心には必ず温かな光が満ちていた。
今は、その光を感じない。
国土を包む結界も、遠くの山々を覆う守護の輝きも、もう存在しない。彼女は空を見上げた。
「女神様」
返事はなかった。
それでも、エレノアは祈った。 誰かに力を求めるためではない。自分の願いを、静かに言葉にするために。
「私は、これから自分の人生を生きます」
風が吹いた。草原が揺れ、夜空の星が瞬いていた。
「この国が、もう一度立ち上がれることを願っています。でも、そのために私が全てを背負うことは、もうしません」
彼女は微笑んだ。
「人々が自分の力で未来を選べるように。私も、自分の未来を選びます」
そのとき、風の中に、微かな声が響いたような気がした。
『それでよいのです』
エレノアは目を閉じた。
女神が本当に語りかけたのか、それとも自分の心がそう聞かせたのかは判らない。だが、もう、それを確かめる必要はなかった。
女神の加護は終わった。国を覆っていた光は消え、人々は自らの力で生きていかなければならなくなった。
これから先、彼らは何度も失敗するだろう。備えが足りず、争いが起こり、失われたものを悔やむ日もあるだろう。すぐに豊かな国へ戻れるわけではない。過去の怠慢がもたらした代償を、彼らは長い時間をかけて支払わなければならない。
それでも。土を耕す手がある。砦を修繕する兵士がいる。食料を分け合おうとする人々がいる。失敗を認め、やり直そうとする王がいる。そして、誰かに守られるだけではなく、自らの力で生きようとする人々がいる。
女神が与えた三代の猶予は、終わった。だが、人間が未来を選ぶ時間まで、終わったわけではない。
エレノアは丘を下りた。麓には、小さな村の灯が点っている。
明日も彼女は畑へ行くだろう。土を耕し、種を蒔き、雨が降れば水路を確かめる。魔物が現れれば、村人たちと相談し、逃げるべきか、戦うべきかを決める。
その暮らしは、聖女として国を守っていた頃より、ずっと不確かで、ずっと不自由だった。けれど、そこには自分の意思で選ぶことの出来る明日があった。
エレノアは夜空を振り返った。星々は、何も語らない。
それでも、彼女はもう、不安ではなかった。神に守られる国から、自らの意思で未来を築く国へ。その道のりは長く、険しい。失われた加護の代わりに、誰かが奇跡を与えてくれることもない。
だが、今度こそ人々は、自分たちの手で明日を迎えるのだ。
聖女の加護は、永遠ではない。しかし、加護がなくなったからといって、人間の未来まで失われるわけではないのだから。




