人差し指の精算 ―上野アメ横・排除の掟―
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上野アメ横。そこは気の利いた比喩など撥ねつける、有象無象の巨大な「吹き溜まり」だ。四月も下旬、桜の季節をとうに捨て去った街は、目前の連休を前に、どこか焦燥に似た熱を孕んでいる。戦後、闇市の名残が冷めやらぬまま、あらゆる場所から弾き飛ばされた人間と欲望が、どろりと濁ったスープのごとく掻き混ぜられ、夥しい無関心のノイズの底で、逃げ場のない熱が、ただ音もなく、濃密に淀んでいた。
そこは歩くというより、巨大な「肉の壁」に押し流される感覚に近い。数え切れないほどの肩がぶつかり、安っぽい香水の匂いと体臭、多国籍な喧騒が重なり合って、一人の人間が立ち止まることすら許さない。バンコクの露店やホーチミンの路地裏から、湿った熱気だけを抽出して詰め込んだような空気が肺の奥までこびりついてくる。剥き出しの電球の下、叩き売られるチョコレートの甘い匂いと、魚の血の生臭さ。そこに八角やクミンの香りが混ざり合い、何十年も継ぎ足され続けた煮込み鍋の底で、古い脂とスパイスが混濁したような澱んだ匂いを作り出していた。 ここには洗練された情緒なんて存在しない。あるのはただ、安酒で現実を麻痺させようとする人間たちの、剥き出しの生存本能だけだ。
僕と妻にとって、この街の喧騒は呼吸の一部だ。かつては煮込みの湯気と競馬新聞、加齢臭が混ざり合うオヤジたちの聖域だったこの場所も、今やスマートな服を着た若いカップルがアトラクションのように消費している。僕らは意志を持った泥流の一部となって、「大統領」支店の行列の最後尾に張り付いた。脂でわずかに光るカウンターの端に滑り込んだとき、僕らは言葉を交わさずとも、十年の歳月が染み込んだ「いつもの呼吸」へと戻っていった。
「とりあえず、生二つ。それとチョレギサラダに、ほやポン酢」
黄金色の液体が胃に落ち、冷えたもつが舌の上で溶ける。矢継ぎ早に届いた、ごま油が香るチョレギサラダと、独特のエグみを湛えたほやポン酢。僕らの休日がようやく輪郭を持ち始めたとき、隣の席に座る「異物」が、僕らの平穏を音もなく侵食し始めていた。
男は、ひどく場違いな空気を纏っていた。三十代前半だろうか。中学の修学旅行からアップデートを忘れたようなストリート・カジュアル。汗で張り付いたTシャツが、だらしなく膨らんだ腹の線を晒している。脂ぎった髪は頭皮にへばりつき、細縁メガネの奥で濁った瞳が逃げ場を探すように泳いでいた。その隣の彼女だけは、この景色の中で一人だけ透き通っていた。淡いピンクのトップスに、黒のショートパンツ。丁寧にまとめられた髪には、服と同じ色のリボン。泥水の中に落ちた新品のビー玉のような、残酷なまでの透明度だ。
二人の右手、その人差し指には、お揃いのシルバーリングがはまっていた。傷ひとつないその輝きは、アメ横の汚泥の中で冷徹な外科用メスのように清冽に光っている。
男は割り箸でレモンサワーの底を執拗にかき回し、ジョッキの縁をカンカンと叩きながら、湿った声を漏らした。「笑えるだろ、なあ! 楽天カードの審査すら落ちるんだぜ、俺。笑っちゃうよな。なあ、そうだろ!」 「劇団の奴らなんてさ、結局は金持ってる奴に媚び売るだけで、才能の『さ』の字もありゃしない。あいつ、演出家とか名乗ってるけど、実際は親の遺産食い潰してるだけなんだよ。誰も分かっちゃいない。なあ、ねえさん、そうだろ!」
男はそう言って、隣に座る彼女の華奢な肩をパンと無遠慮に叩いた。彼女は力なく、しかしすべてを悟ったような苦笑いをその横顔に滲ませたが、視線だけは手元のグラスの底から動かそうとしなかった。
男の独白は、下水に流されるゴミのようなノイズとなって僕らの耳を素通りしていく。男はひとしきり喚き散らすと、「ちょっと、トイレ」と千鳥足で店内の奥へ消えた。かと思えば、すぐに一度戻ってきて、「これ、飲んどいて」と自分の飲みかけを顎で指し、今度は反対側の店外へとふらりと吸い出されるように消えていった。その危うい足取りは、まるでこのまま上野の街の濁流に溶けて、二度と戻ってこないのではないかと思わせるほどだった。
彼が姿を消している間、僕は追加のレモンサワーを、妻はグレープフルーツサワーを注文した。ちょうど運ばれてきた名物のひもQともつ焼きの盛り合わせ。その脂の熱を酒で流し込みながら、彼女が男に命じられた通り、残された炭酸の抜けたレモンサワーを少しずつ飲み始めるのを、僕らは黙って見ていた。ぬるい不幸を喉の奥へ押し込んでいくような、救いのない儀式だった。
隣で見ていた僕の妻が、ふいに顔を上げ、グラスを傾ける彼女の横顔をじっと見つめた。彼女がわずかに顔を上げた瞬間、妻は、けれど明確に、彼女に向けて小さく目配せを送った。 (……災難ね。あんなの、付き合ってあげる義理なんてないのに) 彼女は一瞬だけ、僕の妻と視線を重ねた。そして、唇の端をごくわずかに引き上げ、承知しているとでも言うように、静かに、けれど明確に頷き返した。その刹那のやり取りには、女同士にしか通じない、静かな同情と連帯が宿っていた。
ようやく戻ってきた男は、何事もなかったかのように腰を下ろすと、間髪入れずに店員を呼び止めてレモンサワーとスライストマトを注文した。だが、手元には彼女が飲み干そうとしているジョッキがまだ残っている。反射神経だけで客の注文をさばく店員たちにとって、液体が残ったグラスは「まだ事足りている」という無言の拒絶にしか見えない。雑踏の怒号に紛れた男の注文は、優先順位の底へと沈み、いつまでも届く気配がなかった。数分後、男は苛立ちを「紳士」の仮面で塗りつぶそうとする痛々しいトーンで、再び店員を呼び止め。「……すみません、レモンサワーがまだ届いていないのですが」
彼女は、男の指先で光るリングをじっと見つめ、冷え切ったナイフのような声を、そっと置いた。
「ねえ。ここに来て、最初に飲んだお酒、覚えている?」
その問いかけは、男の無様な饒舌を音もなく切り裂くような響きを持っていた。 「え、……レモンサワーだろ? いや、ウーロンハイだったか」 「生中。……たった一時間。君が何を頼んで、私がどんな顔をしてたか。それすら、もうお酒と一緒に忘れちゃったんだね」 彼女は、右手の人差し指からシルバーリングをゆっくりと引き抜いた。「このリング、人差し指にはめるのがルールだったよね。どちらかが道に迷ったとき、出口を指差すための目印。切れた電球の下でも、光を反射してくれるように。けれど、君の指が指しているのは、届かないお代わりと、自分だけの不幸。私の指が指しているのは、あっち。君とは違う方向に流れる、君の知らない未来」 彼女はリングをテーブルの隅にそっと置いた。 「さよなら。……頼んだもの、全部届くといいね」
彼女は音もなく席を立った。この街の湿った濁りには決して馴染まない、鋭利で透き通ったガラスの破片。一度も振り返ることなく、アメ横の熱い湿り気を無機質な光で射貫きながら、彼女は淀んだ人の波を冷徹に切り裂いて突き抜けていく。その背中が消えたあとの雑踏には、ただ吐き捨てられたばかりの鋭い静寂だけが、刺さるように残っていた。
男は、状況を理解できないまま、残されたリングを呆然と見つめていた。やがて彼は、また店員を呼びつけようとして、右手を高く上げた。その指先が、まるで迷子のように空を切ったときだ。
「お兄さん。ラスト・オーダー、入ってるよ」
背後からかけられた声は、低く、しかし驚くほどよく通った。 振り返ると、黒いポロシャツを着た二人の男が立っていた。一人は短く刈り込んだ頭に、首筋までかかる執慵なまでの日焼け。もう一人は、清潔感のあるボタンダウンのシャツを着ているが、その瞳には光が一切宿っていない。「あ、はい……今、お代わりを……」 男が掠れた声で取り繕おうとするが、ボタンダウンの男が、テーブルのシルバーリングを無造作に指で弾いた。 「注文なら、もう受けてるよ。彼女さんからさ。『全額精算』の依頼だ。あんたの身柄ごとね」 「え……?」 「表で車が待ってる。……お支払いは、あんたの将来で頂くことになってるから」
日焼けした男が、抵抗する隙も与えず男の肩に手を置いた。その瞬間、男の表情から生気が一気に失われた。男が立ち上がると、二人の男は彼を挟み込むようにして歩き出した。その動きは滑らかで、まるで親友同士が連れ立って二軒目に向かうようにすら見えた。
店内は、何一つ途切れることなく続いていた。カウンターの向こうでは店員がクーラーボックスからガリガリと氷を掻き出してはジョッキに放り込み、隣の客はホッピーのジョッキに残ったわずかな氷の音にだけ集中している。最初から、その席には誰も座っていなかったかのように、街の代謝機能が「不要なもの」を効率的に間引いていく。
三人が雑踏に消えた直後、店員の手が伸び、空になったジョッキとトマトの皿を無造作にバッシングした。 「お次、二名様こちらどうぞ」入れ替わりに、金時計で自分の価値を計っていそうな小ぎれいな中年男性と、不釣り合いなほど歳の離れた――都会の退屈をまつ毛に塗り固め、ブランドバッグを盾にした若い女が、あの二人が座っていた、まだ熱の残る椅子に腰を下ろす。
最後の一串を終え、僕と妻は立ち上がった。伝票を掴み、アルコールの熱と脂の匂いを背中にして店を出る。一歩外へ出ると、アメ横の空気はさっきよりさらに重たい湿り気を帯びていた。
アメ横の出口を抜け、上野駅へと続く広大な交差点に出た。頭上を走る山手線の巨大な鉄橋が、街を圧するように重たい唸りを上げている。煤けたコンクリート柱が等間隔に並ぶ、湿ったガード下の暗がりに、ハザードランプを点滅させて止まっている黒いヴェルファイアが見えた。後部座席の真っ黒なスモークガラスの向こうで、何かが激しくもがくような、あるいは絶望を叩きつけるような微かな揺れが、重たい車体を一瞬だけ震わせた。助手席の窓が開き、ピンクのリボンをつけた彼女が、サイドミラー越しに僕らと視線を合わせた。彼女は、何も言わずに自分の右手を見せた。そこには、回収されたはずのシルバーリングはもうなかった。ただ、白く細い指先が、夜の闇を突き刺すように冷たく伸びているだけだ。窓が静かに閉まり、車は男の未来を飲み込んだまま、滑るように闇へと消えていった。
「……ねえ」妻が、震える指で僕の腕を掴んだ。「あのリング……彼女が言ってた『ルール』って、本当は……」 「ああ。最初から、出口を指し示すためのものなんかじゃなかったんだよ。あいつを油断させて、この街の澱みに沈めるためのただの餌だったんだ。彼女が本当に指し示していた出口は、最初からあの黒い車の中にあったんだろうな」
上野という巨大な胃袋は、今日も止まらない。誰かの絶望を飲み込み、別の誰かの欲望として吐き出す。ただのルーチンワークだ。高架下の闇は、さっきより少しだけ深くなった気がした。 僕らは二度と振り返らず、アメ横の泥流に背を向けた。駅の改札を抜ければ、そこにはまた別の、退屈で平和な夜が待っているはずだった。
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