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第五話 英雄の影、詐欺師の目

 

 嵐のような凱旋から三日が過ぎた。

 レギウム王国の王都に溢れかえっていた熱狂は、今は心地よい余韻となって街の隅々に染み渡っている。民にとって、カイル・フォン・ロードは絶望の淵から国を救い出した生ける伝説であり、希望の象徴そのものだった。

 だが、当のカイルにとって、その熱は管理すべき数値の一つに過ぎない。

「……ひどいものだな。この国の台所事情は」

 城の西棟に与えられたカイルの執務室。彼は机の上に広げた数冊の帳簿を眺め、低く吐き捨てた。

 帝国から毟り取った金貨一万枚。それは当面の急場を凌ぐには十分な額に見えるが、この国の慢性的的な赤字を埋めるには、あまりに心許ない。レギウム王国は農業こそ安定しているが、特筆すべき貿易品がなく、軍備に割く予算が国家予算の半分近くを占めている。

(ボロ屋もいいところだ。外壁だけ白く塗って、中身はシロアリに食い尽くされている)

 カイルは、前世で幾度も見てきた経営破綻寸前の三流企業を思い出していた。

 詐欺師としての彼は、こうしたボロ屋を最高級のヴィラに見せかけ、価値が暴騰した瞬間に売り抜けることを得意としていた。今、目の前にあるこの国も、彼にとっては壮大な「商品」に見えている。


 トントン、と控えめだが硬いノックの音が響いた。

「カイル様。お茶の用意が整いました」

 入ってきたのは、昨日からカイルの専属として配属された侍従、セドリックだった。

 二十代半ば。整った容姿に、皺ひとつない制服。その所作はあまりに完璧で、影のように気配が薄い。カイルは羊皮紙から目を上げず、だが意識の全神経をその男の足音に集中させた。

(左、右、左。重心の移動が微塵も乱れない。床の鳴る場所を、初めから知っている歩き方だ)

 セドリックは音もなく銀の盆を置き、カイルの傍らに立った。

 湯気を立てる紅茶の香りが広がる。カイルはゆっくりとペンを置き、背もたれに深く身を預けた。

「セドリックと言ったな。……お前、以前はどこで奉公していた?」

「陛下のお側で、雑用を預かっておりました。此度はカイル様の功績に報いるため、特にお側仕えを許された光栄に浴しております」

「雑用、か」

 カイルは口角をわずかに上げた。

 その雑用という言葉の裏にある意味を、詐欺師の嗅覚が瞬時に察知する。王の側近から、新参者の英雄の元へ。それは報酬ではなく、最も信頼できる監視の目を植え付けたに他ならない。

「陛下は随分と過保護なようだ。俺のような若輩者に、これほど優秀な『目』を付けてくださるとは」

 カイルはあえて目という言葉に力を込めた。

 並の人間なら、ここで一瞬の動揺を見せる。だが、セドリックは瞬きひとつ変えず、恭しく頭を下げた。

「滅相もございません。私はただ、カイル様が不自由なくこの国のために力を振るえるよう、お手伝いするのみにございます。……例えば、その帳簿の数字の整理なども」

 セドリックの視線が、机の上の資料を掠める。

 カイルが調べていたのは、単なる財政状況ではない。王国の重臣たちが管理している予備費の使途不明金だ。

「これに興味があるのか?」

「いえ。ただ、英雄殿が戦の事後処理だけでなく、これほどまでに国の『内側』を深く案じておられることに、感銘を受けた次第です」

「案じているのではない。数えているだけだ。……自分にどれだけのチップが残されているかをな」

 カイルは手元にあった銀貨を指の上で転がした。

 シュッ、シュッ、と規則的な音を立ててコインが指の間を踊る。詐欺師が観客の視線を誘導するための、基本的なミスディレクションの手慰みだ。

 セドリックの瞳が、その銀貨の動きを一瞬だけ、鋭く追った。

 ほんの僅かな反応。だが、カイルにとっては十分な収穫だった。この侍従は、人間の細かな動きから意図を読み取る訓練を受けている。

(プロだな。……しかも、かなりの)

 カイルは銀貨を卓上にピタリと止めた。

「なあ、セドリック。この『予備費』とやら、面白いことが書いてあるぞ。昨年の飢饉の際、民に配るはずの穀物購入代が、なぜか財務卿バラド爵の管理する『馬具の手入れ代』に化けている。……馬の蹄を金で打ったとしても、お釣りが来る額だ」

「……耳の痛い話にございます。バラド卿は王国の重鎮。陛下の信頼も厚いお方ですが、その、いささか身の回りに金がかかるようで」

 セドリックの声は平坦だが、カイルはその僅かな沈黙から、彼が王もこの腐敗に気づいているが、手が出せないでいるという事実を読み取った。

「無能な働き者というのは、自分たちが賢いと思っている。数字を少し誤魔化せば、誰も気づかないと信じている。だが、詐欺師……いや、計算のできる者から見れば、それは泥棒が足跡をわざわざペンキで残しているようなものだ」

 カイルは立ち上がり、窓の外を見下ろした。

 城門の前では、今日も民たちがカイルを一目見たいと集まっている。

「セドリック。俺はこの国を、もっと『美しく』したいと考えている。帝国が二度と手を出せないほど、眩しく、価値のある国に。……そのために、まずは庭の掃除が必要だ。シロアリを追い出し、腐った根を断つ。お前は、その片付けを手伝う覚悟はあるか?」

「私は侍従にございます。主人の命じられた場所を掃き、主人の汚した靴を磨くのが務め。……それがたとえ、王国の重鎮を敵に回すような『泥仕事』であっても」

 セドリックの答えは模範的だった。だが、その瞳にはお前が本当に英雄なのか、それとも王室を脅かす毒なのかを見極めてやるという静かな挑戦が宿っている。

 カイルは満足そうに頷き、冷めかけた紅茶を一口啜った。

「いい答えだ。では、まずは手始めに……この『バラド卿』という男を、最初に駆除しよう。無能から金を毟り取り、有能な駒を買う。それが商売の鉄則だからな」

 カイルの目は、すでにこの城の貴族たちを排除すべき不良債権として仕分け始めていた。

 王が放った監視役。腐敗した内政。虎視眈々と隙を伺う帝国。

 絶体絶命に見える状況だが、前世での彼に言わせれば、これほど売りがいのある局面はない。

「面白いことになりそうだ。なあ、セドリック」

「……左様にございますね、カイル様」

 二人の視線が空中で交錯する。

 一人は世界を騙すために、一人はその嘘を暴くために。

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