ページは続く
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何も分からないわたしに、その人はとても優しくしてくれた。名前も分からず、ここがどこかも分からない。そんなわたしに、「ここから出たいと思うまで、ずっとここにいれば良い」と言ってくれた。
何故だか、外が怖いのだ。そう言うと、その人は満足そうに頷いた。
幸福の日々だった。わたしは彼を愛していたし、彼はわたしを大切にしてくれた。大切なものはすべてここにあった。真実はいつも手の中にあった。
時折、眠るわたしを抱いて、彼は声を押し殺して泣いていた。寝たふりで、その嗚咽を黙って聞きながら、わたしは目を伏せる。
どうして彼は泣いているのだろう。わたしの知らない彼は、一体何を見てきたのだろうか。
そう思ったのが、崩壊の始まりだった。
――否、とっくの昔にすべて崩壊しきっていて、表面を覆う馬鹿げた膜が弾けただけなのかもしれないけれど。
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眠るネクアを見下ろしながら、私は言葉にならない慟哭を噛み殺した。膝を抱え、膝頭に額を押し付けて、胸元をきつく握り締める。
穏やかな寝息を立てて、ネクアは静かに眠っていた。その寝顔に、かつての幼い面影を見つけてしまう自分に、心底嫌気がさした。この後に及んで、私はまだこの子のことを愛おしく思ってまでいるのだ。
……この、子は。禁術を用いて、私の記憶を封じ、意志を奪い、この部屋に私を監禁している。筆舌に尽くしがたい屈辱だった。それでも私はこの子を見放せない。
覚えている。幾度となく、幾度となく、私はこれを繰り返している。苦々しい記憶の連続に、頭が狂いそうだった。でもいつも、私が壊れるより早く、あの子がすべてを封じてしまう。
今回も、もうじき時間切れだ。慣れた予感。記憶にもやがかかってきていた。その前に、少しでも、出来ることをしたい。
体を滑らせ、寝台から抜け出る。鏡台に置かれたままの日記を手に取り、背後の気配を窺いながら、適当に開いたページに文字を殴り書く。
『扉に触れてはだめ』
願わくは、次の私が。
『はやく、思い出して』
願わくは次のあなたが、あの子を救えますように。
祈りを込めて、私は文字を綴った。
「カンラ、」
目元がふと覆われる。手からペンが抜き取られる。耳元に唇を寄せて、そして彼は低く囁いた。
「おやすみなさい」
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ふと、目を覚まして、わたしは体を起こした。長いこと寝すぎていたのか、体がぎしぎしとした。
「えっと……」
頭を搔いて、寝台から足を下ろす。裸足のつま先に毛の長い絨毯が触れた。
「わたしは、ここで、何を……?」
いやに頭が痛んだ。綺麗に整えられた室内を見回すが、この光景に見覚えがなかった。けれど、ずっと前からここにいるような気もするのだ。
眠る前は一体どこで何をしていたのだろう、と思いを馳せても、まるで霧の向こうに記憶が遠ざかってしまったみたいに、ぼんやりとしか思い出せない。
足を踏み出すたびに冷える頬の感覚から、そこが濡れていることに気付く。そっと指先で目尻に触れると、確かに湿った感触がした。
「わたし、泣いてた……?」
この眠りに落ちる前。それがどれくらい前のことだか思い出せない。まるでずっと昔のことみたいに思えたけれど、涙が残っているのならばそれほど前のことではないのだろうか。
壁際に置かれた鏡台に歩み寄る。そこに置かれた本に、何故だか興味を引かれたのだ。
近寄って手に取ってみると、それはどうやら日記のようだった。革の表紙に目を落とすと、どこかで見覚えのあるような筆跡が目に入る。でもそれが誰のものなのか思い出せない。
何も分からない状態は、まるで背後から何かが忍び寄るような恐怖だった。縋るようにわたしは表紙をめくる。そこに挟まれていた紙片を取り上げると、わたしは息を飲んだ。
『何も分からないあなたへ――』