表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

ページは続く






 ***


 何も分からないわたしに、その人はとても優しくしてくれた。名前も分からず、ここがどこかも分からない。そんなわたしに、「ここから出たいと思うまで、ずっとここにいれば良い」と言ってくれた。

 何故だか、外が怖いのだ。そう言うと、その人は満足そうに頷いた。


 幸福の日々だった。わたしは彼を愛していたし、彼はわたしを大切にしてくれた。大切なものはすべてここにあった。真実はいつも手の中にあった。


 時折、眠るわたしを抱いて、彼は声を押し殺して泣いていた。寝たふりで、その嗚咽を黙って聞きながら、わたしは目を伏せる。

 どうして彼は泣いているのだろう。わたしの知らない彼は、一体何を見てきたのだろうか。


 そう思ったのが、崩壊の始まりだった。

 ――否、とっくの昔にすべて崩壊しきっていて、表面を覆う馬鹿げた膜が弾けただけなのかもしれないけれど。



 ***


 眠るネクアを見下ろしながら、私は言葉にならない慟哭を噛み殺した。膝を抱え、膝頭に額を押し付けて、胸元をきつく握り締める。

 穏やかな寝息を立てて、ネクアは静かに眠っていた。その寝顔に、かつての幼い面影を見つけてしまう自分に、心底嫌気がさした。この後に及んで、私はまだこの子のことを愛おしく思ってまでいるのだ。

 ……この、子は。禁術を用いて、私の記憶を封じ、意志を奪い、この部屋に私を監禁している。筆舌に尽くしがたい屈辱だった。それでも私はこの子を見放せない。


 覚えている。幾度となく、幾度となく、私はこれを繰り返している。苦々しい記憶の連続に、頭が狂いそうだった。でもいつも、私が壊れるより早く、あの子がすべてを封じてしまう。

 今回も、もうじき時間切れだ。慣れた予感。記憶にもやがかかってきていた。その前に、少しでも、出来ることをしたい。


 体を滑らせ、寝台から抜け出る。鏡台に置かれたままの日記を手に取り、背後の気配を窺いながら、適当に開いたページに文字を殴り書く。

『扉に触れてはだめ』

 願わくは、次の私が。

『はやく、思い出して』

 願わくは次のあなたが、あの子を救えますように。


 祈りを込めて、私は文字を綴った。



「カンラ、」

 目元がふと覆われる。手からペンが抜き取られる。耳元に唇を寄せて、そして彼は低く囁いた。


「おやすみなさい」








 ***



 ふと、目を覚まして、わたしは体を起こした。長いこと寝すぎていたのか、体がぎしぎしとした。

「えっと……」

 頭を搔いて、寝台から足を下ろす。裸足のつま先に毛の長い絨毯が触れた。


「わたしは、ここで、何を……?」

 いやに頭が痛んだ。綺麗に整えられた室内を見回すが、この光景に見覚えがなかった。けれど、ずっと前からここにいるような気もするのだ。

 眠る前は一体どこで何をしていたのだろう、と思いを馳せても、まるで霧の向こうに記憶が遠ざかってしまったみたいに、ぼんやりとしか思い出せない。

 足を踏み出すたびに冷える頬の感覚から、そこが濡れていることに気付く。そっと指先で目尻に触れると、確かに湿った感触がした。

「わたし、泣いてた……?」

 この眠りに落ちる前。それがどれくらい前のことだか思い出せない。まるでずっと昔のことみたいに思えたけれど、涙が残っているのならばそれほど前のことではないのだろうか。


 壁際に置かれた鏡台に歩み寄る。そこに置かれた本に、何故だか興味を引かれたのだ。

 近寄って手に取ってみると、それはどうやら日記のようだった。革の表紙に目を落とすと、どこかで見覚えのあるような筆跡が目に入る。でもそれが誰のものなのか思い出せない。


 何も分からない状態は、まるで背後から何かが忍び寄るような恐怖だった。縋るようにわたしは表紙をめくる。そこに挟まれていた紙片を取り上げると、わたしは息を飲んだ。




『何も分からないあなたへ――』




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ