3. 女王の血族
馬車が門に到着したとき、屋敷はまだお産の興奮に包まれていた。もう夜中だというのに燭台の蝋燭には赤々とした焔が点り、シーツやタライを抱えたメイドたちが足早に廊下を通り過ぎる。
執事と使用人たちは、急ぎ正面玄関に集まって雇い主の貴族を出迎えた。
今夜ほど男たちが使えないときはない。手持ち無沙汰でありながら休むこともできずにいた者たちは、彼の帰宅に少なからず胸を撫で下ろしていた。
この屋敷の所有者は、女王の積年の恋人レスター伯ダドリー卿。今宵は正妻が男子を出産し、彼は五十を目前にして、ようやく後継者に恵まれた。
しかし、それは表向きの話で、真実とはかなり異なっている。
馬車から転がり出たのは、ダドリー卿の正妻の連れ子。少年貴族エセックス伯デヴァルー卿だった。
執事がうやうやしく彼のマントと帽子を受け取り、さっそく祝いの言葉を述べる。
「男子誕生、誠におめでとうございます」
「ジェーンは? 無事か?」
「はい。寝室で旦那様をお待ちになっています」
周囲の目など気にもせず、真っ直ぐに妻の元へ走っていく主人デヴァルーの後ろ姿を、皆が暖かい目で見守っていた。それは実に彼らしい行動だった。
まだ幼いと言ってもいい彼に、伯爵の威厳を求めるのは難しい。狡猾な貴族らしくなく、素直で一途で情熱的。それは女王が彼を寵臣として愛しむ理由でもあった。
夫婦の寝室をノックすると、ドアが中から開かれた。真っ白で清潔な寝具。ほのかに焚かれたビャクダンの香。
心地よいベッドに半身を起こして座っているのは、やつれてはいるが美しい少女だった。母となるにはまだ幼い娘。
「まあ、旦那様。こんなに早く戻ってくるなんて」
「当たり前だよ。心配で宴会どころじゃなかった」
「大袈裟ね。大丈夫よ、お産は病気じゃないんだから」
「命の危険が伴うだろう。君に何かあったら……」
デヴァルーにぎゅっと抱きしめられて、ジェーンは嬉しそうに彼の背中に腕を回す。
愛する夫デヴァルーの子を産むためならば、彼女には痛みも苦しみも喜びだった。そして、妻ジェーンの命を救うためならば、デヴァルーは己の命も惜しくないと思っていた。
「お母様は……、何かおっしゃっていた?」
「しばらくは君から離れるなと」
「気遣ってくださるのね」
「もちろん、お喜びだった。それに、僕を『盛った泥棒猫』だとも言っていたな」
「まあ! 誘惑したのは私の方なのに?」
愛し合う二人には、室内に控えている使用人どころか、ゆりかごで眠る赤子すら目に入っていなかった。
すやすやと眠る新生児は、母方の祖父に似た大きな黒い瞳に漆黒の髪。ただ、その肌だけは母に似て透けるような白さだった。
そして、若い夫婦が互いを慈しみ合っていたのとちょうど同じ頃、女王エリザベスはいつものように宮殿の私室でくつろいでいた。
緊張を強いられる宮廷内で、ここだけは極めて私的な空間だった。今は女王と年長の女官、それから数人の若い侍女しかいない。女王が特別に許可した者しか入れず、彼女が好きな品だけが集められていた。
女の身でありながら国王として男たちの上に立つのは、たいそう骨の折れる作業だった。そんな女王が夜の営みの間だけは、ありのままの姿で男の下になる。それが彼女の唯一の癒しとなっていた。
「今宵は誰をお呼びになりますか」
「ウォルターを」
「承知いたしました。では、準備を」
年長の女官が若い侍女たちに退室を促す。
女王が寵臣と戯れる夜、若い侍女は隣室で寝ずの番をすることになっていた。女王に危険が及ばないよう、壁にいくつも開けたクローバー型の穴から、女王の情事の一部始終を注視する。
しかし、この部屋はずっと前から、まったく違う目的で使われていた。呼ばれた若い侍女は、興奮に頬を染めて隣室に向かう。今宵、女王の閨に呼ばれた寵臣を、そこで迎えるために。
「罪なお方だ。若い男の相手を侍女にさせるとは」
そう言いながら、女王の部屋の隠し扉から現れたのは、黒いマントを纏った男。大きな黒い瞳と漆黒の髪。ただし、その肌は浅黒かった。女王よりも少し年上に見えるが、その体躯は鍛えられて、壮年とは思えない逞しさだった。
「男は若い女が好きなもの。感謝こそされ、憎まれることはない」
「まさか。陛下より魅力的な女は、この世に存在いたしません」
そう言って女王の手を取ったのは、彼女の積年の恋人レスター伯ダドリー卿だった。
「王が女では、侍女たちには張り合いがない。狙える妃の座がないのだから」
「では、王とはお父上のように、次々と妃を取り換えろと?」
「まさか。ただ、若い侍女たちに男との交歓は必須。日々の献身に報いてやらなくては」
「なるほど。夜の快楽は労働の報酬ですか。では、私もぜひ褒美をいただきたい」
ダドリーが当然のように女王を情事にさそうと、珍しく女王がその手を退けた。
「お前に正当な後継者ができた夜だ。愛人との遊興に耽るのは感心せぬな」
「あれは我らが孫。私の子ではなく、『盛った泥棒猫』の子です」
その言葉を聞いて、一人だけ女王の側に残っていた年長の女官が頭を垂れる。
「申し訳ございません。我が子の不始末は私の命で償います」
女王は静かに首を振り、その女官の手をそっと握る。
「あれは軽い警告だ。デヴァルーは感情が素直に顔に出るからな。赤子の真の父母の存在は秘匿せねばならぬ」
「それに加えて親に罪はない。愚息の暴走は、父でも止められないものですから」
そう言って、ダドリーは笑いながら女王を閨に引きずり込んだ。もちろん、それは彼の下半身の『愚息』の猛りのせいにして。
女王の寝室に残った年長の女官はレスター伯夫人。女王の従姪でダドリー卿の正妻。女王の娘ジェーンの夫デヴァルーの生母。
彼女は女王の愛人を寝取ったとして、表向きは宮廷から追放されていた。




