18. 国花のブローチ
イギリスの丘陵を女性的な曲線とすれば、スコットランドの山野は男性的な猛々しさを湛える。折り重なる渓谷は高くそびえる岩山に挟まれ、その硬い岩盤には草木も生えず、山の全景は雲にかくれて人目に晒されることもない。
この神々しい自然の姿こそ、ケルトの信仰対象であり、特に三つの連なる岩山を『三姉妹』と呼んで崇拝していた。この地で生まれたケルト神話の英雄は、祭司に魔法で牝鹿にされた母を持つと伝えられる。
旧教カソリックが国策としてスコットランドに広まるまで、人々は大自然に神と魔法の存在を認めていたのだった。
『いいは悪い。悪いはいい』
シェークスピア四大悲劇の一つ『マクベス』。不可思議な台詞を吐きながら、荒野に突如出現する魔女の三姉妹は雄大な自然への畏怖の具現化に他ならない。
『万歳、グラーミスの領主よ!』
『万歳、コーダーの領主よ!』
『万歳、国王になる者よ!』
十一世紀に実在したスコットランド王マクベスは、従兄を殺害して王位を奪った男。シェークスピアのこの悲劇は創作だが、他にもモデルとなった人物がいた。
それはスコットランド女王メアリー。
万歳、スコットランドの女王。万歳、フランスの王妃。そして、万歳、イングランド王位を襲う者。但し、彼女を破滅へと導くのは魔女の煽惑ではなく、彼女の愛欲を満たす男たちの誘惑だった。
『さあ、早くここへ。私の精力を貴方の耳に吹き込んで、チャンスを逃そうとする輩はみな、男らしい私の舌で舐め清めて差しあげましょう』
夫を王殺しに駆り立てる夫人の台詞。それはメアリーが閨で男たちから囁かれた誘いそのままだった。彼らは甘い声で彼女を酔わせ、熱い舌で彼女を悦ばせる。そして、滾る欲を彼女の体内に吐き出し、溢れる野望で彼女の心を満たした。
己の淫行を白日の元に晒す素人の女役者は、その浮き名に違わず若く美しい。女性役を演じるのは、声変わり前の少年とされた時代。女が舞台に立つのを許したのは、それが私的な催しだからだった。
でなければ、ジェームスの目に母メアリーの姿が映る機会など存在しない。
『さあ、寝台に。寝台に。私のところへ来て。来て、来て。来てちょうだい。契りましょう。やってしまったら、もうなかったことにはできない。さあ、寝台に。寝台に。私の寝床に!』
その罪が殺人であっても姦淫であっても、神の十戒を破った女たちに安らかな眠りは訪れない。死んだ人間の霊魂が、生きた人間の男根が、罪深い女たちを激しく攻め立て、その正気を奪う。
『男の力なぞ笑い飛ばせ。女の股から生まれない者だけが……』
母の股から生まれ情人の股で死ぬ。男は女の性器から逃れられぬ運命なのか。アンの存在に、ジェームスは初めてその真理について思いを巡らす。
「いかがでしたでしょうか。今宵の趣向は」
サウサンプトン伯の子息リズリーがジェームズに声をかけた。
この滞在期間中、ジェームズへの連絡係を務めたのはリズリーだった。この見目麗しい少年を気に入って、ジェームスは昼夜問わずに特別に可愛がっていた。
「見事だった。主人にもそう伝えてくれ」
「デヴァルー様も喜びましょう。今宵は出席できず、申し訳ないと申しておりました」
「奥方の悪阻が酷いと聞いた。大事ないことを願っている」
「お心遣い、恐れ入ります」
本物のジェーンが懐妊を装って、秘密裏に城を発ったのは数日前。スコットランド王が己の素性を調べていると知り、出生の秘密が漏れることを恐れてのことだった。
「定期的に様子を知らせてくれ。子が産まれたら祝いを送ろう」
「承知いたしました」
アンがデヴァルーの子を宿しているなら、奪い返すのは出産後。ジェームズには学友から嫡子を取り上げる気はなかった。
「晩餐の前に劇団の者を労いたい。この話の作者は誰か」
「ウィリアム・シェークスピアという者です」
母メアリーの生き方をなぞりつつ、その破滅により正当な王位継承者ジェームスの繁栄が続く。『マクベス』は明らかに今夜の主賓を持ち上げる筋書きだった。
母子の感情の許容範囲を見極め、相方から不興を買わないギリギリを攻めたその手腕は、劇作家として賞賛に値する。目の前に跪く男に、ジェームズは賛辞を口にする。
「良いものを観せて貰った。魔女の口上に乗せられて破滅する……か。興味深いな」
「興味深きは人間の心でございます」
「そこに付け入るのが悪魔だ」
「仰せの通り。神も悪魔も人の心の中にこそ」
「鋭い指摘だ。シェークスピアよ、我が国へ来ないか。お前の才覚はこんな田舎に眠らせておくのは惜しい。王都で活躍できるよう手配しよう」
「私にはこの地に愛する者がおります。私が書くのは彼女のため」
ここにも女の股で死ぬだろう男がいる。だが、その迷いない潔さはジェームズには羨望の対象となった。
「いい心がけだ。その者は妻か?」
「女神です」
「女神か。名は?」
「……アン」
「アン。Eで終わるAnneか?」
「はい」
「氏は?」
「ウェイ……、ハサウェイです」
「ハサウェイ嬢か。大事にしてやれ。これを彼女に」
ジェームズは肩でローブを留めていたブローチを外した。国花のアザミを象ったアメジストが、美しい金の細工で飾られていた。
「何かの折りは、これを持って私を頼れ。今夜の娯楽の礼にお前の女神に庇護を与える」
「ありがたき幸せ」
「必ず守ってやろう。何者からも。男からも魔女からも」
自分の愛する女も同じく『Eで終わるAnne』であることで、ジェームズはこの男に親近感を抱いていた。




