16. 子を思う母、母を思う子
「ジェームズ六世が、私の素性を探っている?」
膝のクッションの上で、白い糸が巻かれたボビンが微かに揺れる。直火で肌を痛めないよう暖炉に背を向けて座り、ジェーンは熱心にレースを編んでいたところだった。
老乳母は神妙な顔のまま、その報告を続ける。
「正確には『デヴァルー卿の妻』の出自を調べているようです」
「どうして? スコットランド王家に私の正体を見破られないよう、念には念を入れて替え玉まで用意したのに」
ジェーンは美貌の誉れ高かった母方の大叔母によく似ていた。そして、王族特有の威厳あるオーラも隠しきれない。
「どうやらその『替え玉』をお気に召したご様子です」
「アンを? まさか。ジェームズは女に興味はないはずよ。今だって、寵童を閨に侍らせているんでしょ」
「その寵童、リズリーからの情報です」
ジェーンはため息をついて、編みかけのレースを道具ごと籠に入れた。木製のボビンがカチャカチャと音を立てる。
「どうしてかしら。アンは綺麗だけど華のない子よ。目立たないはずだったのに」
「だからこそ……、でしょう」
ジェームズの女嫌いが、華やかな美貌で性に奔放な母への嫌悪と反発ということは、周知の事実だった。
「アンは男好きするんですよ。あの容姿にあの体つきですからね。本当に、ちゃんと食べさせた甲斐がありましたよ」
老乳母は自慢げにそう言った。
ガリガリだったアンの体は、今ではふっくらと柔らかい丸みを帯びている。授乳を終えた乳房は、赤子ではなく男を喜ばせるのにちょうどいい大きさに落ち着いていた。
「ジェームズの所望でも、アンはダメよ。恋人がいるんだから」
「デヴァルー様もそれをご存知で?」
「たぶん。だから、アンには手をつけなかったんだわ」
妻公認でアンの寝所を訪ねながら、デヴァルーは寝物語を聞きながら眠りに就くだけだった。アンを夫の側女にしようというジェーンの目論見は、見事に砕け散った。
「ジェームズが帰国すれば、メアリーもここを去る。アンの『替え玉』も終わるわ」
「結局、スコットランド親子の会談は実現しないようですね。これでメアリー殿も、王位復帰を諦めるでしょう」
「どうかしら。これ以上バカな真似はしないといいんだけど。お母様だって、何度も彼女を許すわけにはいかないのに」
メアリーは度々イギリス王位継承権を主張し、エリザベス女王廃位の陰謀に加担していた。証拠不十分で処刑は免れているが、それは女王の裁量に依ることが大きい。
「アンはウィルと結婚させるつもりよ。愛する人と幸せになってほしいの」
城に隠れ住む冬の間、ジェーンはアンの花嫁衣裳を飾るボビンレースを編んでいたのだった。
「娘共々、私たちの身代わりをしてくれているんですもの。彼女の忠誠に報いたいわ」
「王家の影武者は、常に暗殺の危機が伴いますからね」
女王の娘と孫。たとえジェーンの存在を突き止めたとしても、孫はメアリアンだと思われる。そうすれば、ギルフォードだけは難を逃れられる。
「それにしても、式まで待てずに、アンは身ごもったりしないでしょうかねえ」
「それは大丈夫。中に出したことはないんですって」
アンとの仲が発覚したとき、ジェーンはウィルに釘を刺した。楽しむのはいいが、妊娠はさせないようにと。それに対して、ウィルは膣外射精をほのめかしたが、実際には二人の間に性行為の事実はなかった。
「とにかく、ジェームズ殿の関心を逸らす必要がありますね」
「デヴァルーの『妻』は妊娠したということにしましょう。いくらなんでも、妊婦に夜伽は命じないわ」
「余程の酔狂でなければ、男は身ごもった女には興醒めしますからね」
「ええ。後で妊娠は間違いだったとでも言いましょう」
「ジェーン様の存在も露見する可能性があります。ひとまずここを離れたほうが……」
「そうね。どこに行けばいいかしら」
近くに使用されていない別の城があるが、父方の所有物のため、そこに行っても今と状況は変わらない。
「スードリー城はどうでしょう。今は男爵家の所有となっております」
「ロンドン塔の長官だった?」
「はい。かつて女王陛下を収監した者。現城主はその孫に当たります」
「聞いたことがあるわ。牢獄でのお父様との密会を見逃してくれたんでしょう?」
「他にも色々と便宜を図ってくださったそうです。陛下はその恩をお忘れにならず、何度かこの城を訪れております」
その城は、かつてヘンリー八世の六番目の妃の居城だった。女王はこの優しい継母と過ごした幸せな少女時代を懐かしみ、この城にある彼女の墓所を度々訪れていた。
「すぐ出発するわ。ギルに支度を」
「ジェーン様。あそこに赤子を伴うのは……」
「幽霊の噂のこと?」
再婚相手の子を出産した後、継妃は産褥熱でこの世を去っていた。子を心配して彷徨う彼女の姿が、今でも城の中で何度も目撃されている。
「後に残した赤子が気がかりなんでしょうねえ。継妃様が亡くなったのは、出産から1週間にも満たなかったんですから」
「ギルは赤子じゃないわ。もう二歳よ」
「継妃様の子が行方不明になった時期と、年齢が一致します」
「夫は処刑されていたわね。子も殺されたのかしら」
「おそらく財産を狙った親族の仕業でしょうね」
「恐ろしいわ。やっぱりギルの出生の秘密が知れるのは避けたい。ときが来るまで、あの子は父と義母の子として生きていくしかないのね」
「では、男爵の城には……」
「メアリアンを連れていくわ、私の子として」
その代わりに、何があっても自分がメアリアンを守る。恐ろしいのは幽霊ではなく生きた人間だと、ジェーンはそう実感していた。




