第五章「ブラック・フライデー」
その知らせは唐突だった。
午後三時。管制センターに流れたのは、viaのプレスリリースだった。東京リージョンおよび名古屋リージョンにおいて、AIインフラストラクチャサービスの提供を開始する──。
河野が最初に声を上げた。
「早瀬主任、見ましたか。ようやくですよ」
「見た」
凪は端末のニュースフィードをスクロールした。業界メディアが一斉に速報を打っている。「国内リージョンでNERVA移行が可能に」「待望のマルチリージョン化へ道筋」。コメント欄には安堵の声が並んでいた。
「これでやっと国内に移れるんですね」
宮田が明るい声で言った。管制フロアの空気が、数週間ぶりに軽くなった。予兆の異常──東名高速の急停止、東京湾の通信喪失、ドローン配送のルーティングエラー──が続いた後だけに、国内移行という選択肢が開けたことへの安堵は大きかった。
「移行計画はこれから策定でしょう。すぐにどうこうはならないよ」
「わかってます。でも、これでようやくスタートラインに立てるじゃないですか。宗国リージョン一本から抜け出せる」
凪は頷いた。胸の奥で、あの空のラック──印西ナショナルDCハブで見た「NERVA-HS-03」の灰色の筐体──が浮かんだ。あそこにまたサーバーが入る日が来るかもしれない。国内にバックアップが戻る。心臓が二つになる。
帰宅する同僚たちの足取りは軽かった。宮田は「明日から忙しくなりますね」と笑い、河野は「移行計画の書類、山ほど作ることになるわよ」とぼやきながらも、口元は緩んでいた。
凪は一人、管制フロアに残った。壁面のモニターには全国の光点がいつもどおり流れている。明日も、この光点はここにある。国内リージョンへの移行が始まれば、やがてこの光点の制御元は海の向こうから日本の地面の上に移る。時間はかかるが、方向は正しい。数ヶ月──いや、半年もあれば、マルチリージョン構成の設計は完了するだろう。国内の地面の上にNERVAの心臓がもう一つ生まれる。
窓の外が暮れていく。春の夕暮れは穏やかで、遠くに関越自動車道の高架を走る光点の列が見えた。凪は端末を閉じ、管制フロアを出た。
それが、NERVAが生きていた最後の夜だった。
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翌朝は、いつもと同じように始まった。
午前八時十二分。凪が管制センターの自席に着き、端末を開いた。壁面モニターの光点は正常に流れている。障害件数ゼロ。昨夜の異常もなし。宮田がコーヒーの紙コップを片手に席につき、河野は端末を開く前にデスクの観葉植物に水をやっている。管制フロアは穏やかで、昨日のプレスリリースの余韻がまだ残っていた。
八時十七分。
壁面モニターの光点が、揺れた。
最初はそれが何なのか、凪にもわからなかった。東名高速上の光点──百台以上の無人トラック隊列──が、一瞬だけ位置情報を失った。画面上で光点がちらつき、〇・五秒後に復帰する。先週から続いていた異常と同種のものだった。ただし、今回は規模が違った。東名だけではない。中央道、関越道、東北道。同時に。全国の幹線道路上で、光点が一斉にちらついた。
「早瀬主任」
河野の声が緊張を帯びていた。
「全国で同時に瞬断が出てます。NERVAの自己修正が──」
「見てる」
凪の目はモニターに釘づけだった。光点は復帰している。NERVAは自己修正した。しかし──今回の瞬断は〇・五秒。先週の異常では〇・一秒だった。五倍。修正にかかる時間が、五倍に伸びている。
八時十九分。東名高速の御殿場付近で、再び瞬断。今度は一・二秒。光点が消えて、戻って、また消えた。
「NERVAの応答が遅れてる」
宮田が端末を叩いた。
「車両への制御コマンドの遅延が三百ミリ秒を超えてます。こんなの見たことない」
凪の脳裏に、ここ数週間の異常パターンが蘇った。誤動作が高速道路上の要人車列の周辺で集中的に発生していたこと。駐留米軍と宗国高官の非公式接触が増えているというニュース。点と点が、不吉な線を描きかけている。
そのとき、管制画面の右上に赤いアラートが灯った。「緊急車両事故通報──東名高速上り線・御殿場IC付近」。
「事故?」
河野が画面を拡大した。事故地点の周辺情報が展開される。複数車両の衝突。車線封鎖。そして──車両識別情報。凪はその文字列を読み、息を呑んだ。
事故を起こした車両群の識別コードには、NERVAの通常管制とは異なる特殊フラグが付与されていた。凪は管制業務を通じてこのフラグの意味を知っている。政府要人および外交関係者の車列に付される管制優先コード。それが二系統、同一地点で衝突している。
「早瀬主任、この車両、管制優先コードが──」
「わかってる。黙って」
凪は声を落とした。管制フロアに、自分たちの呼吸の音が聞こえるほどの沈黙が落ちた。
二系統の要人車列が、高速道路上で衝突した。NERVAの制御が一瞬乱れた、まさにそのタイミングで。数週間にわたる問題が、このために仕組まれていたのだとしたら──。
凪は奥歯を噛んだ。根拠はない。だが確信に近いものが、腹の底にあった。
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午前十時を過ぎたころ、凪の端末に速報が入った。衛星通信経由のニュースフィード。御殿場の事故で、駐留米軍の高官と宗国の高官が全員死亡。秘密裏に行われていた会談の移動中だったと見られる──。
管制フロアが凍りついた。
「全員、って──」
「双方の車列に乗っていた高官が、全員です」
河野の声がかすれた。宮田は端末を持つ手が震えていた。
凪は立ち上がった。管制画面を見た。光点はまだ流れている。NERVAはまだ動いている。しかし、凪の頭の中では別の時計が動き始めていた。宗国の高官が、自国の領土の外で全員死亡した。それが何を意味するか。
「河野さん、全国の管制ステータスをリアルタイムで出して。五秒間隔」
「はい」
「宮田くん、本社との回線を開いて。インフラ管理部門につないで」
「わかりました」
凪は自分の声が平静であることに驚いた。身体は知っていた。これが始まりだと。
しかし、凪が恐れていたことは、想像とはまったく違う形でやってきた。
午後一時三十七分。
壁面モニターの光点が、消えた。
一つや二つではない。画面の右端──宗国リージョンとの接続状態を示すインジケータが赤に変わり、〇・三秒後に灰色になった。灰色。接続断ではなく、接続先が存在しない。
全国の光点が、波のように消えていった。北海道から九州まで、モニターの上を暗い波が走った。光点は端から順に消えるのではなく、まだら模様に、しかし確実に消えていった。レイテンシの差だ。宗国リージョンとの物理的な距離に応じて、制御信号の喪失がわずかな時間差で全国に波及している。
「NERVAが──」
宮田が声を上げた。
「管制信号が途絶してます。全車両、全アベイラビリティゾーン。宗国リージョンからの応答が完全にゼロです」
「バックアップへの切り替えは」
「バックアップは──」
宮田の声が途切れた。バックアップは、ない。国内オンプレミスは廃止された。宗国リージョンの中の冗長構成だけが頼りだったが、リージョン自体が消えた今、切り替え先は存在しない。
「リージョン全体が落ちてる。ゾーンの問題じゃない。リージョンそのものが──」
河野がモニターの前で立ち尽くしていた。
凪は壁面モニターを見上げた。三十秒前まで全国の道路を血管のように照らしていた光点の群れが、完全に消えている。二十万の光が一斉に消えた画面は、巨大な墓標のようだった。モニターの表面に、管制フロアの蛍光灯と、それを見上げる自分たちの影がぼんやり映っているだけだった。鶴見の声が脳裏で反響した。「隕石が落ちる確率」。──違う。これは隕石じゃない。隕石は空から落ちる。これは人間が落としたものだ。
静寂が降りた。空調の音さえ消えたように感じた。管制フロアに響いていたNERVAのステータス通知音──一秒ごとに短く鳴る、正常稼働を示すビープ音──が途絶えていることに、凪はこのとき初めて気づいた。あの音は五年間、一度も止まったことがなかった。
NERVAが、死んだ。
後に知らされたところでは、こういうことだった。高官の死去を受け宗国の自動報復システムが作動。あらかじめターゲットの一つとされていたNERVAの中枢を収容していた複数のデータセンターが精密誘導ミサイルで破壊された。物理的に、完全に、すべて。コアシステム、運用データ、バックアップ。マルチリージョン構成を取っていなかったすべてが、一瞬で消失した。
そして後の調査で、もう一つの事実が明らかになった。崩壊前から続いていたNERVAの制御層への侵食──凪が感じ取っていた異常のすべては、宗国からのサイバー攻撃が原因だった。目的は日本の物流に打撃を与え、混乱に乗じて侵略を開始すること。ただ、自国の高官が事故で死亡するのは宗国にとっても完全に想定外だった。自動報復システムが作動し、いくら自国内とはいえ外国資本のデータセンターをミサイルで吹き飛ばしたことは、事態は宗国自身の意図をも超えて拡大した。
だがその午後、管制センターにいた凪が知っていたのは、モニターの光が消えたという事実だけだった。
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最初の異変は、音だった。
管制センターの窓から見下ろす高速道路──関越自動車道の高架が、新座拠点のすぐ北を横切っている。NERVAが生きていた数分前まで、その上を無人トラックの隊列が音もなく流れていた。
隊列が止まった。先頭車両が急停止し、後続が次々と自動ブレーキで停まる。しかしブレーキの制動距離は車両ごとにわずかに異なり、一部の車両は前の車両に接触した。八十キロで走行していた隊列が、数秒のうちに鉄の残骸の列に変わった。衝突音が、管制センターの窓ガラスを震わせた。
宮田が窓に駆け寄った。
「トラックが──高速の上で──」
「全国で同じことが起きてる」
凪は自分の端末を見た。NERVAの管制画面は完全に沈黙している。代わりに、衛星通信経由で断片的に入ってくる情報を拾った。東名高速で大規模な多重事故。中央道でトラックが路肩から転落。名神高速で隊列衝突。首都高で一般車両を巻き込んだ連鎖事故。
港湾からも報告が入った。東京湾の自律航行コンテナ船が航路上で停止し、潮流に流されて漂流を始めている。横浜港では接岸中のコンテナ船がガントリークレーンと接触。大阪港では無人の内航船同士が衝突した。
空ではドローンが落ちた。配送ドローン、点検ドローン、農業用ドローン。NERVAの管制信号を失った機体は自律飛行に切り替わるが、バッテリー残量の少ないものから順にその場で不時着──あるいは落下した。都市部では歩行者の頭上に小型ドローンが降ってくる映像が、まだ生きていたSNSに数分間だけ流れた。
「早瀬主任、どうすれば──」
宮田の顔が青ざめていた。河野は受話器を握りしめているが、通話先はすでにつながらない。
「まず落ち着いて。拠点内の全員を一階に集めて。外には出さない」
「はい」
「河野さん、衛星通信のチャンネルが生きているうちに、本社と連絡を取って。拠点の状況と人員数を報告。それだけでいい」
「わかりました」
凪の声は平坦だった。頭の中は別のことを考えていた。NERVAが落ちた。管制信号がない。全国の車両が止まった。物が動かない。物が動かなければ──。
凪は技術者の目で計算した。
日本の発電能力の約五割は火力発電が担っている。そのほぼすべてが輸入原油かLNGに依存しており、国家備蓄は約二百日分。だが備蓄基地から発電所への輸送は、タンクローリーの陸上輸送とタンカーの沿岸輸送で成り立っている。タンクローリーはNERVA管制下の自動運転。タンカーもNERVA管制下の自律航行。どちらも止まった。備蓄は二百日分ある。しかし、発電所まで届ける手段がない。
三日。凪はそう見積もった。各発電所が敷地内に保有する燃料で稼働を続けられるのは、長くて三日。その後、火力発電は止まる。二百日分の備蓄を抱えたまま。
計算が、あまりにも滑らかに出てきたことに、凪は自分で驚いた。──このシナリオを、頭の中で何度もなぞっていたのだ。いつからだろう。異常ログを手帳に書き写していた頃からか。あるいはもっと前、佐伯の声を廊下で聞いた日からか。意識していなかった。だが身体は知っていた。この日が来ることを、凪の記憶はずっとリハーサルしていた。
ただし、電力網の制御系統そのものは生きているはずだ。送電・配電のネットワークはNERVAとは独立した別系統で稼働しており、NERVAが管制していたのは交通と物流だけだった。電力会社が送電先を手動で絞り込むことはできる。
残るのは原子力発電だ。現在の発電能力の約二割。電力会社が送電先を霞が関、自衛隊基地、主要病院、通信の中枢に絞り込んで限定供給する。それ以外──一般家庭、商店、工場、倉庫──は電力を失う。
「早瀬主任」
河野が受話器を下ろした。
「本社との回線、切れました。衛星通信のチャンネルも混雑し始めてます」
「わかった」
凪はもう一つ、計算した。携帯電話の基地局。全国の車両に信号を送る基地局。通常は商用電力で稼働し、停電時は非常用発電機に切り替わる。発電機の燃料は軽油で、備蓄は通常二十四時間分。一日。一日後には基地局が落ち始め、携帯電話は使えなくなる。
現実はその計算よりも早かった。後に判明したことだが、基地局の非常用発電機の燃料は、崩壊後の混乱のなかで何者かに抜き取られた。ガソリンスタンドの在庫が尽きた市民か、あるいは組織的な妨害工作か──真相は今もわかっていない。いずれにせよ、携帯通信網は崩壊後の停電とともに壊滅した。
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それからの七日間を、凪はほとんど眠らずに過ごした。
一日目。管制センターは無力だった。すべてのシステムが死んでいた。凪は同僚たちと拠点の一階を開放し、近隣住民の受け入れを始めた。倉庫に残っていた物資──自動配送用のストック、社員食堂の備蓄──を並べ、配給の態勢を組んだ。
二日目。近隣のスーパーから住民が殺到した。棚はすでに空だった。パニック買いではない。補充が来ないのだ。NERVAが止まった瞬間から、全国の配送トラックは一台も動いていない。工場から倉庫へ、倉庫から店舗へ、物が流れるすべての経路が断たれた。
三日目。凪の予測どおり、電力が落ちた。新座拠点は原発限定給電の対象外だった。非常用発電機の燃料がわずかに残っていたが、凪はそれを照明ではなく冷蔵庫に回した。医薬品を一時間でも長く保たせるために。管制フロアの蛍光灯が消え、代わりに懐中電灯と非常用ランタンの灯りが拠点を照らした。
四日目。自衛隊の車両が一台、拠点に来た。独自の自律走行システムで動く装甲車だった。水と乾パンを届け、周辺の状況を伝えてくれた。西日本の被害が甚大であること。三十五年前の西日本大震災からの復興過程で、あの地域は自動化に全面的に舵を切っていた。手動運転ができる人員も車両もほぼ存在せず、NERVAの死は西日本の完全な麻痺を意味していた。自衛隊の主力はそちらに向かっている。さらに、宗国が混乱に乗じて物理的な介入の動きを見せており、南西方面への警戒にも人員が割かれている。首都圏への支援は、当面見込めない。
五日目。航空燃料の備蓄が尽きた。NERVA管制が停止してから手動での航空管制に移行するまでに時間がかかり、その間に空港の燃料タンクは新たな補給を受けられなかった。航空網が完全に止まった。海外からの支援物資を積んだ航空機が日本に来ても、受け入れる空港がない。島国が、孤島になった。
六日目。拠点には七十人近くの住民が身を寄せていた。水は配給制。食料は一日一食。七十代の男性が咳き込み、凪は残りわずかの医薬品を出した。隣の地区では持病のある高齢者が二人亡くなったと、見回りに来た自衛隊員が伝えた。薬があれば助かった命だった。薬はある。どこかの倉庫に。ただ、届ける手段がない。電気がなく、通信がなく、物が動かない世界で、人間にできることの少なさを、凪は噛みしめた。
七日目の朝が来た。音のない朝だった。
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崩壊からの七日間、凪は一つのことを考え続けていた。
あの日──モニターの光点が波のように消えていった午後、凪は壁面の前に立ち尽くしながら、自分の中に浮かんだ一つの声を聞いた。
──国内に、バックアップがあるはずだ。
職業的な直感だった。NERVAの規模のシステムが、海外リージョンにしかデータを持っていないはずがない。どこかに、誰かが、何かを残しているはずだ。オンプレミスの撤去は凪も知っている。印西のサーバールームが空になったことも見た。公式には、国内のバックアップはすべて廃棄されたことになっている。
だが、と凪は考えた。あの空のラックの前に立ったとき、担当官は「撤去が完了した」と言っただけだ。撤去されたサーバー、廃棄されたデータ、処分されたテープ。それらがすべて、書類どおりに消えたと、誰が確認した?
根拠はなかった。ただの勘だ。しかし管制の仕事を五年間やってきた凪は知っている。巨大なシステムには、必ず「公式の手順から漏れたもの」がある。ログに残らない判断、台帳に載らない機材、廃棄処分の書類だけが先に回って実物がまだ倉庫の隅に置かれている予備品。
その直感は、七日間、凪の胸の奥で灯り続けた。確かめる手段はなかった。通信は死に、移動手段はなく、霞が関で何が議論されているかも知る術がなかった。ただ、消えなかった。消えないということ自体が、何かの根拠であるかのように。
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──お嬢さん。
声が聞こえた。記憶の底からではない。すぐ隣から。
「お嬢さん、霞が関でいいんだな?」
凪は目を開けた。
最初に見えたのは、フロントガラス越しの空だった。薄い雲が流れている。午前の光。それから振動が伝わってきた。シートの硬い感触。背骨に届くエンジンの律動。ディーゼルの匂い。
銀嶺号の助手席にいた。
回想が途切れ、現在が戻ってきた。いつの間にか、凪はうたた寝をしていたらしい。崩壊前日から七日間の記憶を、走馬灯のように辿っていた。一度見たものを忘れない記憶が、こういうときには呪いに近い。消えていく光点の一つ一つを、凪は今でも正確に再生できる。どの光点が最初に消え、どの光点が最後まで残ったか。それは眠りというより、記憶の奔流に呑まれていたというほうが近かった。
窓の外を見た。銀嶺号は一般道を走っている。片側一車線の、古い県道。路肩の雑草が伸び放題で、アスファルトの割れ目から植物が顔を出している。道路の整備もNERVAの管轄だったのだと、今さらのように思い出す。
左手の高架を見上げた。関越自動車道の高架橋。鋼とコンクリートで組み上げられた、この国の血管。その上に、無人トラックの列が見えた。崩壊の瞬間に停まったまま、七日間、微動だにしていない。銀色のコンテナが並ぶ隊列の表面に、うっすらと赤錆が浮き始めている。雨に打たれ、朝露に濡れ、たった七日で鉄は錆び始める。かつて秒単位の精度で高速道路を流れていた最新鋭の車両が、高架の上で朽ちかけている。
その高架の脇を、一台の車両が走っていくのが見えた。オリーブドラブの塗装。自衛隊の自律走行輸送車だった。独自のシステムで動く、NERVAに依存しない車両。それが一台だけ、西へ向かっている。西日本の支援に向かうのだろう。あの広大な被災地に、一台。
「すまない、起こしたか」
荒木がハンドルを握ったまま、前を見て言った。
「いえ──少し、眠ってしまったみたいです」
「まだ練馬あたりだ。都心まではもう少しかかる」
凪は姿勢を正した。サイドミラーに、遠ざかる高架上のトラックの列が映っている。錆びた隊列。その手前を走る銀嶺号の排気が、白い尾を引いて流れていく。
「霞が関でいいんだな?」
「はい。お願いします」
荒木が短く頷いた。ギアが切り替わる重い金属音。エンジンの回転が上がり、銀嶺号は速度を少し増した。
凪は再び窓の外に目をやった。停止した自動運転車両の間を縫うようにして、銀嶺号は南へ向かっている。信号の消えた交差点を、荒木は一時停止と目視確認で通過していく。NERVAが管制していた交通を、一人の老人が、自分の目と手で捌いている。
フロントガラスの向こうに、都心のビル群がかすんで見えた。あの中に、霞が関がある。原発由来の限定電力で最低限の灯りが点る官庁街。そこで何が議論されているのか、凪はまだ知らない。
ただ、胸の奥のあの直感──国内にバックアップがあるはずだ──は、まだ消えていなかった。七日間の疲労と絶望の下で、かすかに、しかし確かに、灯り続けている。
鋼の血管は止まった。その下の古い県道を、銀嶺号が走っている。祖父の時代、道路はすべてこうだった。人間がハンドルを握り、自分の目で確かめ、自分の足でペダルを踏んで走る道。あの時代と同じことを、いま、荒木がやっている。銀嶺号のエンジンが低く唸り、止まった世界の中を、旧い鉄の箱がひとつ、都心へ向かって走り続けた。




