5皿目 孤児院の母たち1
アステール首都の片隅に、イルミナーレ孤児院はある。
「だからさあ、もっと商売っ気出さなきゃ儲けなんか出ないって言ってるだけじゃん!」
夜。子供たちが寝静まったのを確認して回った院長マリア=ローレンスは扉の向こうから聞こえた品のない声にため息をついた。
「金がないから食い物も豆、豆、豆ばっか。ご寄付が減った? 人を当てにしたってしょうがないだろ! 人からのお恵みを待ってたって始まんないよ。金にもならない、フーリィ像磨かせてる暇があるならその時間に自分たちで稼がせればいいじゃないか」
「なんてことを!」
「口をお慎みなさい!」
とんとん、とノックし、扉を開ける。
静まり返った職員たちが、院長の登場に身を固くしている。
「外にまで声が響いておりますよ」
今日の職員6名。シーツの継ぎをしていたらしく、皆が手に針を持っている。
若い職員ローズ=メイシーが針を置き、顔を赤くして前に進み出た。
「……院長。このサマンサ=リスターの解雇を求めます」
「ちょっ……」
赤毛を振り乱しサマンサがローズを見る。
普段は大人しく穏やかなローズが、きっとサマンサを睨みつける。
「子供以下の食事作法、汚い言葉遣い、下品なジョークに子供たちへの荒い態度、そしてよりによって神聖なるフーリィへの冒涜! どうしてこのようなものを採用されたのです。何もかもが目に余ります!」
「冒涜なんかしてないだろ! 奉仕活動やってる時間があったらそれを他に使おうよって話じゃないか!」
「だったら言葉を正し順序立ててそうおっしゃればよろしいだけのことでしょう! いちいち人を苛立たせるような、馬鹿にするようなその態度、言葉遣い! 子供たちにも悪影響がすでに出ております!」
「……」
「ローズの意見に賛成いたします。残念ながら子供というのは汚い言葉が大好きです。この者の安易な発言が、すでに子供たちの価値を下げております。ロンが配達仕事を受けた先でなんて申したかお耳に入っておられますでしょう。『お前の鼻の穴、馬の鼻。おならプ~』もう二度とあそこからロンに仕事の依頼が来ることはないでしょう」
「……」
真っ赤になったサマンサが涙目でうつむいている。
「……あたしはただ……」
言いかけ、自分を囲む冷たい視線に気づいたらしい。
「……ああ、もういいや」
サマンサが自分のエプロンの紐を解く。
「いいよ。悪かったね! やめるよ。やめてやる! お上品な言葉でごまかして、子供が腹空かせてんのになんの工夫もしないでただ嘆いてるだけの馬鹿どもと働くのはこっちだってうんざりしてんだ!」
「まあ!」
「無礼にもほどがあります!」
職員たちが色めき立ったところで
ぼん
不思議な音と煙が湧いた。
「……は?」
めったに動かぬ眉を院長マリアは動かした。
「……おでん屋だよ」
現れた老婆が言った。
職員一同、テーブルにつき『オデン』を囲んでいる。
ほかほかほかと、いい匂いのするあたたかな空気が漂っている。
職員たちは一人を除きいずれも良家に生まれた、教養ある息女たちである。信仰の厚い彼女らは現れたそれに当然膝をつき祈りを捧げたかったことだろうが、『過度な敬い』を嫌うフーリィに対してそのような様子は一切見せず、皆実に自然に振舞っている。
「……はあ……これはまた」
「ええ、何というか、いいのかしら私達だけ……」
「滋養でございますね」
職員たちは緩んだ顔をしている。
普段は常に子供たちの目があり、見本とならんと正しく、背を伸ばしている彼女たちだ。
酒は許した。一生に一度のことだろうとマリアがそう判断した。
皆、本当によくやってくれている。こんなときくらい緩んでほしいと思う。
誘い合わせて酒場に行くような品のない娘たちではない。ともに酒を飲むのは、これが初めてだ。
「院長は召し上がりませんの?」
不思議な小さな杯を両手で包むようにしているローズが聞いた。
その横ではサマンサが、透明で精緻な絵柄の入った硝子杯を豪快に傾けている。
「……」
皆がじっとマリアを見ている。
若干気まずそうだ。
「……そうね」
マリアは微笑んだ。
「いただきましょう」
ほっとした空気が流れた。ローズがフーリィから杯を受け取り、マリアに渡す。
「サマンサ」
「はい」
「注いでいただける?」
恐る恐るといった様子でサマンサが酒器を持ち上げ中身をマリアの杯に注いだ。
溢れんばかりになみなみと注がれたそれを、マリアは口に運ぶ。もちろんこぼすような粗相はしない。
口に含み、驚いた。なんたる膨らみ。しっかりとした酒なのに、周りをふくよかで滋養のあるものが包み囲む。優しさすら感じる味わいだ。
「……美味しいですね」
心から言って微笑んだ。なんだかマリアは、久々に心から笑ったような気がする。
親のない子供たち。本当ならば二親から注がれる無償の愛を、その腕に持たない子供たち。貧しさゆえに捨てられた、あるいは突然に親を失った子供たち。寂しがり屋で、いつでも職員にくっつこうとする子がいる。寂しさの反動で暴力的になる子、自分の殻に閉じこもる子、誰よりも辛い目に合いながらも人に優しくできる子。様々な個性と背景を飲み込んでここにイルミナーレ孤児院はある。
古い建物、節約節約の毎日。子供たちの笑う声、泣く声。
正しくすべてを包み優しく導きたいと思いながら、ままならぬ毎日につい声を荒らげたり、過剰に叱りすぎたり。幼く傷ついた心を慰めるための上手な言葉が必要なときに限って出なかったり。
なんと未熟な人間なのであろうと己を悔いながら、気づけば数十年。
常にきりきりと張り続けていた背が、今ほんの少しだけ緩んだ。そんな気がする。
皿の上の野菜を割る。ほかっと湯気が出て、とろけるように割れた。
口に含めばじゅわりとスープとともに口いっぱいに味わいが広がる。
ああ、美味しいとマリアは微笑む。
スプーンがないので皿に口をつける。酒を飲む姿に加え、これもまた子供たちには見せられない姿だ。
「ああ……」
鼻を抜け喉を通りあたたかく腹に落ちるそれの、なんと優しいことか。
「このたまご、なんのくさみもありませんわ」
「ガンモドキも召し上がってごらんなさい。ふわふわなのに、いろいろなお味がして」
「これは中がとろとろ……子供が好きそうなお味ね」
皆がほどけながら味わい、飲んでいる。
ほかほかと湯気が漂っている。
緩み、微笑んでいる。
あたたかい。
穏やかにテーブルを囲む職員たちを、マリアは眺めた。
孤児院の母たち。若いものも、年配のものもいる。
皆必死に毎日、子供たちを導こうと頑張ってくれている。
皆性格が異なり、考え方も違うだろう。でも皆が真剣に、同じ場所で、ただひたすらに子供たちの幸せを思っていることをマリアは知っている。
できればこのあたたかく美味なるものを子供たちにという思いは当然なくはない。
だがこれはきっと彼らを守る立場である自分たちへの、何があっても決して折れてはならぬという、激励なのだ。
「ローズ」
「はい」
「どうしてこの者を採用したのか、と尋ねましたね?」
「……はい」
「生きる力が強いからです」
言い切ったマリアを、サマンサが驚いたように見上げた。
「あなたのことを皆に話しても?」
「……」
こくんと子供のようにサマンサは頷いた。




