【26】女王の一日4
飛び込んできた役人が叫ぶ。
「黒山を中心に、予想以上に多くの人が感染していることが判明しました。これから、どれくらい増えるかわからない。黒山は転移紋から遠く、出来上がったものを運ぶにも時間がかかる。まだ判明していないだけでさらなる患者が出ることが予想されます。『天神の涙』を作れる人間に現地にいてほしい。どなたか素材をお持ちになって一緒に来てください今すぐに! 転移紋に向かう馬車を外に用意してあります」
「……」
感染の震源地に赴け、ということだ。
薬はある。予防薬であり治療薬でもある薬だ。
だがそれがどの程度有効なのか、わかるのはこれからだ。
その状態で、患者が多く発生している場所に赴く
感染するかもしれない、死ぬかもしれない、ということだ。
「当然僕が行きます。一番体力があるので」
エミールはずいと前に出た。
「ではこちらに!」
「痛たたたたたぁ!」
後ろからポウルの声がした。振り向けば胸を抑えてうずくまっている。
「ポウル先輩!?」
慌ててエミールはポウルに駆け寄った。
「おい誰か、エミールの友達いるか。いたらエミールを押さえとけ。離すなよ! 怪我させるんじゃねえぞ! 特に手ぇ!」
ジェイコブの野太い声が響く。
エミールは両脇から抱えられたのに気付いた。エミールは左右を見る。
「ウロノス……リーンハルト……!」
「ジュディは下がってろ!」
「でも……」
「エミールぐらい俺1人でも大丈夫だ。ジュディ頼む下がっててくれ腹に響いたら大変だ」
そっとジュディは、まだ膨らみの小さいおなかを両の手で押さえた。
ジュディとウロノスは結婚した。そしてもうすぐ彼らは親になる。
きっと優しい子が生まれると思う。
「離せ……離せ!」
彼らの手を振り払おうとエミールは暴れた。
「離せ! 離してくれ! 頼む、お願いだから!」
マキシミリアン、ポウル、ジェイコブが立ち上がりゆるりゆるりと役人の方に歩み出す。
ぼろぼろと涙が溢れた。
行かないでほしい
行かないでほしい。何もなくたって死にそうな人たちなのだ。そんなところに行ったら絶対に死んでしまう。
「離せよ離してくれ! お願いだ! 離さないと僕は君たちを一生許さないぞ!」
涙を零しながらエミールは左右を睨みつけた。ウロノス、リーンハルトが何かをこらえる顔で歯を食いしばっている。
「嫌だ!」
「離すもんか! 俺はお前の友達だ!」
「……」
もっと鍛えておけばよかった。薬ばっかり作っていないで体術でも習っておけば、この二人をぶん殴って張り倒してあそこに行けたのに。彼らを止められたのに。
ずっと薬ばかり作っていたなまっちょろい腕は少しも彼らを振りほどけない。
マキシミリアンが役人から拡声器を受け取っている。
「聞け。今ここに生き集った、若き薬学研究者たちよ」
声が響いた。
賢者にふさわしい厳かな声が。
「『天神の涙』。長きにわたる研究の末にそれは再び地上に現れた。そしてその調合法は包み隠すことなく1年前からこの国の薬師たちにすでに広く共有されておる。秘すれば今どれほどの栄誉、金になったかもわからんその製法を我々が一般に公開したのは、ひとえにそこのエミール=シュミットの進言によるものである。一人でも多くの者を、てのひらから零さずに救うために、それは広く、予め多くの者に共有すべきであるとその男は言った。金もなく、練習用の薬草を買えば空っぽになる薄い財布しか持っていない男がだ。有事のとき、大国の隅々まで、素早く、どんな小さきものにもそれが届くようにとその男は願ったのだ。彼はそこに金と栄誉以上のものを見出した」
ざわめきがおさまり、しんと静まり返った。
「研究者が金を稼ぐなとは言わん。栄誉を求めるなとは言わん。それらは重要だ研究者が誇りを保つために、さらなる研究のために。だがしかし、境目を見誤らないでほしい。アスクレーピオスになるその境目を正しく判断できるものであってほしい」
3人の老人は扉を開いて振り返った。
皆晴れ晴れとした、うれしそうな顔をしている。
「『医師薬師よアスクレーピオスにはなるな』。数十年後にはきっとこの言葉は変わっていることと思う。『医師薬師よアスクレーピオスにはなるな、エミール=シュミットとなれ』。それだけのことを我々はその男に託した。彼は情熱をもって努力し、その全てを飲み込んだ。『天神の涙』。その男の言うことを信じ、作り続け、きっと国の隅々まで、その空色の宝を全ての人に降らせてくれ。我々は戦地に向かう。これは命の残りが少ない老人の役目だ思い残すことは何もない! 後は頼んだ。さらばだ若人たちよ!」
「嫌だああああああああ!」
エミールが膝をついて崩れ落ちた。
その左右の腕を、友たちが泣きながら押さえている。
やがて扉が閉まり、馬のいななきが聞こえそれは遠ざかっていった。
しんと静まり返った部屋の中心に、エミール=シュミットが崩れ落ちている。
「……いつまで見ているんだ」
ぼそりと低い声が彼から響いた。
「すぐに持ち場に着け。腕が上がらなくなるくらい刻めすり潰せ。沸かして濾して混ぜ合わせろ調合表通りに! 『熱雷』は待たない! 倒れた人を震えながら抱きしめている家族が、倒れた母親に縋りついて泣いている子供が今このときいる! 僕たちは薬学研究者だ! 一滴でも多く作るんだ今すぐに! 彼らに届けろ今僕たちに手を止めている時間なんかない!」
研究者たちは散った。張り出された紙で己の担当を確認し、持ち場へ走った。
「ポーッポケロさんポッポケロさん……」
ぽそりと誰かが歌う。
「おとしをめした、いい猿を」
また誰かが歌う。
「ひとりでわたしてみなさいな」
その日一日、いや何日も
その歌は繰り返し繰り返し、研究所に響き続けた。




