【9】セントノリスの早起きフェリクス
フェリクス=フォン=デ=アッケルマンはセントノリスに入学し、毎日様々な発見をしている。
フェリクスは国の西境にある領地を治めるアッケルマン家の次男である。
6歳上の兄は優秀な人物で、家庭教師による教育を終了しすでに父のもとで領地経営を行っている。兄がそのまま父から地位と領地を引き継げば、次男であるフェリクスは余る。将来余らないようにこうやって領を出て進学し、文官を目指すことにしているのだ。
乾いた土の広がる、広くて眺めはいいが正直面白みの少ない場所だった。西側の防衛のために強きアッケルマン家がそこを任されたのだと胸を張る、質素にして剛健を常とする家の中では口が裂けても言えないことだが。
領内でフェリクスは領主の次男として顔を知られているから、これまで羽目を外すことはなかった。
フェリクスにとってこの進学は、人生初の土地と名前からの解放なのだ。
早朝。フェリクスは妙に早い時間に目が覚めた。時間を確認し寝直そうとするも、どうしても眠くならない。
仕方なくベッドを出て誰もいない風呂場で顔を洗い髪と身だしなみを整え、朝の散歩にでも出ようとして玄関脇の広間に誰かがいることに気が付いた。
色白で、さらりとした黒髪に、黒色の目。
女子のような、線の細い見た目の少年。
アントン=セレンソン
この寮で初めてフェリクスに話しかけてきた、平民の生徒。
1号室の、学年3位の。
彼はまだ朝日も昇っていない早朝の広間の隅の椅子に腰掛け、燭台の光のもとで何かを書いている。
「……」
とても集中してるようなので、フェリクスは邪魔をしないよう声をかけずそっと歩み寄った。
勝手に手元をのぞき込むのも卑怯な気がして、目をそらして、咳などしつつ彼が気づくのを待ってみる。まったく気づかれない。
「……おはようアントン」
フェリクスの声に彼は手を止め顔を上げた。
「ああフェリクス。おはよう。早起きだね」
少しの眠そうな様子も見せず、にこりと笑った。
「君もだ。何を?」
「昨日の復習、と今日の予習」
「部屋でやればいいだろう」
「明かりや音で同室を起こしたらかわいそうだろう」
「……」
手元のノートは書き込みで真っ黒だった。正直、ここまでやるかと気持ち悪くなるほどに。
「フェリクス、君数学得意だろう。もし時間が許すなら少しだけ教えてくれないか」
「まあ少しなら見てやらないこともない。……どこだ」
横の椅子に座った。アントンの指が教科書をめくる。
「昨日のここ、どうして解はここに線を引くんだろう。こっちじゃやり方としてダメなんだろうか」
「……ちょっと待ってくれ。ペンと紙を借りてもいいか」
「どうぞ」
しばらく静かな広間にペンを動かす音だけ響いた。
フェリクスは観念しペンを止め、恥を忍んで言った。
「すまない。僕もこちらでもいいような気がするが、確実かと言われるとわからない」
「いいんだ、ありがとう。授業の前に先生に聞いてみる。聞いたら教えに行くね」
「……いいのか」
「このままじゃ君が気持ち悪いだろう。ありがとうフェリクス。お出かけの邪魔をしてごめんよ」
「いや。役に立たず申し訳ない」
「いいや。悪いけど実は少しホッとした。健やかに寝ているうちの連中は聞けば全部即答するから、僕は肩身が狭くて仕方がない」
「……」
アントンはまた手を動かし始めた。
一年生の2学期に入っている。期末試験を終えても、1号室の顔ぶれは変わらなかった。
ハリー、ラントがずば抜けてるのは一緒に授業を受けていればわかる。頭の次元が違う人間がいるということをフェリクスは知った。地元では自分こそがそうであると信じて疑っていなかったというのに。
説明から真理を理解する早さ、正解にたどり着くまでに必要な情報量が違う。彼らが1の時間でできることにフェリクスは3かかり、1の説明でわかることに、フェリクスはやはり3必要なのだ。
彼らといると、自分がとんでもない馬鹿に思えてくる。同じ場所で努力することすらアホらしく思える。
だが失礼だがアントンからはそれを感じない。1号室に入るならば抜くべきはこの男だとわかる。
でも彼はそこを譲らなかった。こうして早起きして、一人でノートを黒くして、気持ち悪いほどの努力を止めないことで。
「……苦しくなることはないかアントン。彼らといて」
フェリクスは思わず尋ねた。
アントンは手を止めずに、微笑んで答える。
「あるよ。でも同時に彼らの眩しさが嬉しい。僕は譲らなかったろうフェリクス。次も負けない。僕は彼らが、あそこがとても好きなんだ」
「……そうか」
「彼らは疑いようもなく天才だけど、凡人には凡人のやり方がある。高い素材で作った料理が美味いのは当たり前だけど、安い素材で美味い料理を作るには知恵と技がいるだろう。僕は今その知恵と技を日々磨いているんだ。卒業するころには僕は名料理人だフェリクス。そして世の中には天才よりも凡人のほうがはるかに多いのだから、その知恵と技は水平的に、いくらでもほかに役に立てることができる。一番遠くの景色を見られるのは、人より早く歩き出したものや今一番早いものじゃない。足を止めずに誰より長く、諦めずに歩み続けたものなんだ」
「……」
「僕らは彼らがあっさりとよけた穴に気付かず落ちることがあるだろう。ひょいと簡単に飛び越えた川に、わざわざ橋を架けなきゃ渡れないことがあるだろう。そのたびに穴から這い出て、橋を架けて、諦めることなく歩み続けるんだ前を行く背中がどんなに遠くても。歩き続ければいつかまたきっと見える。天才は一度穴に落ちたら抜けにくいのさ。だって落ちたことがないからね。『なんだ君、穴の抜けかたも知らなかったのかい』と、きっといつか彼らを引き上げながら僕は笑うんだ。君がしょげそうになったら言ってくれ。一人よりも大勢の方がより遠いところまで行けるから、同じ方向に進む君を、僕は手伝う。君の足音はへこたれそうな僕を、いつだって前へ前へと進ませてくれる大切な音だから」
「……」
静かに言う同級生の顔を見て、フェリクスは泣きそうになった。
武に優れた家に生まれながら、フェリクスには剣の才がまったくなかった。本当なら次男でも国のため高位軍人を目指すべき立場だったのに。絶望的にその才のないフェリクスにそうさせようとする父を兄が止め、母が止め、自分は勉強ならばできるからと必死で勉強して、このセントノリスに入った。
それなのに平民に負け、抜き返すこともできず、4位という微妙な順位を保ち続けている。
3位になり1号室に入れたからと言ってなんなのだろう。その先など、進める気もしない。かなうわけがないのにと、最近ではなんだか努力すること自体が空しく思えていた。今日、ここで、彼と話すまで。
足音は、届いている。フェリクスの歩みは空しいものなんかじゃない。
「あ、それとフェリクス。今度一緒に図書館に行ってくれないか。君の字はとても品があってきれいだから。とても古いうえに悪筆すぎて、写しの手本を書いてほしい本がいくつかあるんだ」
「……」
アッケルマン家は質素にして剛健を常とする。
よってフェリクスに送られてくる小遣もまた、非常に質素である。下手すると仕事をしている平民の彼らより、フェリクスの月の可処分は少ない。
「……そこまで言うなら、行ってやらないこともない。だが僕が書くのはあくまで手本だ。貴族が平民に交じって卑しく金稼ぎなどできないからな」
「ありがとう。頼むよ。万が一手違いで手本を売ってしまったらまたお願いする。無論売上は君に戻す。そのときはどうかうっかり者の僕を許してくれ」
「仕方がない手違いは避けて欲しいが申し出を受けよう。では失礼する。邪魔をして悪かった」
「こちらこそ」
やはり手を止めずに同級生は言った。
フェリクスは立ち上がり、朝日が差し込み始めた玄関の扉を開く。
今日の空は今のフェリクスの心のように晴れ晴れと澄んでいる。
はたして先日から店先で眺め続けているペンを買うのに、何冊『手本』は必要だろうか、と頬を染めて歩き出す。
フェリクス=フォン=デ=アッケルマンはセントノリスに入学し、毎日様々な発見をしている。
豊かで楽しい旅は、まだまだ続くのだ。




