【2】クリストフとミネルヴァと鶏のトマト煮
アステール首都グランセントノリア
女王陛下のおわします王宮を有する石造りの王都を
軍部文官ミネルヴァは走っている。
文官だから体力はなくたっていいのだが、ないよりはあったほうがいいだろうと思って何年も毎日走っている。
冬は朝暗くて危ないので、太陽が出てからの少し遅めの時間に走っている。
走りながら、クリアになっていく頭で色々なことを考える。
先日上げた戦術案に、一月に渡る通称『地獄の合宿』に出ている同期の軍人からコメントがついて戻ってきた。好意的なもの、批判的なもの、どちらもあったしどちらも大変参考になった。
紙の裏に戦術とはなんら関係ない『腹減った!』という殴り書きがあった。訓練所の食事はたいそう不味いと聞く。そろそろあれを書いた彼も、ほかの彼らも地獄から解放されておいしいものをたらふく食べている頃かな、とミネルヴァは微笑んだ。
もっと軍のことを、人のことをミネルヴァは知りたい。
現場に出ている彼らが何を考え、どんな風に動くのか。
知りたいことがたくさんある。
時間が、もっともっとあったらいいのに。
今のミネルヴァには、やりたいことが、たくさんありすぎる。
噴水の前
前から男が走ってきた。
背が高くて体格がいいので一瞬びくりとしたものの
見覚えがある顔だとすぐに思い出した。
むしろその顔を、最近何度も思い出していた。
今ミネルヴァがお話したい人ナンバーワン、ミレーヌ女史
その方の甥っ子であり、ミネルヴァの同期である。
そのまますれ違いそうになりミネルヴァは足を止める。
男は気づかず立ち止まらずに走り続ける。
早い。余裕さえ感じるような軽やかな走りなのに、ミネルヴァにとっては全力疾走の速さである。必死で追いかけ、ミネルヴァは叫ぶ。
「あの!」
「はい?」
男が振り返り、ミネルヴァを認めて止まる。
走り寄る。
やっぱり大きい。
自分たちとは、筋肉のつき方が違う。
「トレーニング中すみません、クリストフ=ブランジェさん!」
「……はい」
「同期で、最初の、オリエンテーリングで、同じ組だった、ミネルヴァ=アンベールですお久しぶりです!」
「……お久しぶりです」
彼は目を見開いてミネルヴァを見ている。
何年かぶりで突然話しかけられたのだ。当然だろう。
「合宿、終わったん、ですね」
「はい。……昨日中央に戻りました」
「お疲れ様です! あのお願いが……お伺いしたいことが、あって」
息を切らしながら、目の前の長身を必死で見上げた。
寒いのに、額を汗が幾筋も伝ったのがわかった。
汗臭かったらどうしよう。女のくせに汚いなと思われてたらどうしようとは思うが、千載一遇のこのチャンスをミネルヴァは逃したくない。
「あの……とても不躾なお願いで、嫌だったら、そう言って、欲しいのですけど」
「……息が整ってからでいいよ。すぐに気付かなくてごめん。大丈夫、趣味で走ってるだけで、全く急いでないから。どこか座れるところを探そう。外だと、体を冷やしてしまう」
「……ごめんなさい」
「いや、名前を覚えててもらえて嬉しい。クリストフでいいよ。敬語もいらない。同期なんだから」
「ありがとう。私も、ミネルヴァでいいから」
「ぶっ」
「何か?」
「いや。うん、なんでもない。ミネルヴァ、……さん」
「あ、あそこ。お茶の種類が多いの。お菓子も美味しいし。クリストフさん甘いもの好き?」
見上げるとじっとクリストフがミネルヴァを見ている。
「うん。好きだ」
「じゃああそこにしよう。もちろん、おごるから。突然呼び止めて、付き合わせてごめんなさい」
「いやむしろ是非付き合いたい」
何故か赤くなって固まっているクリストフの腕を引っ張り、ちりーんとドアベルを鳴らして入店した。
お茶を選び、ミネルヴァはクルミと干した果実の入った焼き菓子を、クリストフは燻製肉を挟んだサンドイッチを頼んだ。
やっぱり男の人はしょっぱいものの方が好きなのだろうか。先ほど甘いものを好きと言っていたのは、ミネルヴァに気を使ってくれていたのだろうか、こんなに立派な体格なのだから、もっとしっかり食べられるお店のほうがよかったのだろうか、とあれこれミネルヴァは思う。
「本当に、急にごめんなさいクリストフさん」
「……良ければ呼び捨てにしてほしい。同期なんだし」
「うん、じゃあ私にもそうして。あのね、クリストフ」
「ぶっ」
クリストフからまた変な音がした。
「なあに?」
「何でもない。急に変なくしゃみが出たみたいで。どうぞ」
「その……」
クリストフは真剣な顔で、ミネルヴァの話し出しを待っている。
あなたの伯母さんと話す機会が欲しい。
ひいては同期のよしみで、取り次ぎを頼みたい。
口に出す前に今一度考えてみれば
なんと一方的で身勝手な話だろうとミネルヴァは思った。
「……」
「……言いにくい話?」
言い淀んでいると、優しく問われた。
声の柔らかさに、ミネルヴァはいつの間にか俯いていた顔を上げる。
ぱちんと目が合った。
ふいと逸れた。
人に向ける言葉や態度で、誠実な人だと、初対面から感じていた。
きっと、言いふらしたりするタイプではないはずだ。
信じるしかない。それにもし言いふらされたところで、しばらく皆のいい笑い話になるくらいのことだろう。
「……クリストフ、時間は本当に平気?」
「うん。ミネルヴァ……、は?」
「平気。お休みだから」
「俺も」
「ごめんね」
「いいよ。どうしたの?」
「……実は……」
ミネルヴァは腹をくくって最初から話し出した。
自分が戦争孤児なこと、軍部の戦略室勤務なこと。
先日3年付き合った婚約者に捨てられたこと。殺そうと思ったけどやめたこと。
一度死んだつもりで、人生をやり直すつもりで、今の頑なな自分を変えようとしていること。
同じ仕事をしている手本となる女性と話してみたいこと。
それがクリストフの伯母であること。
どうしたら彼女と話す時間を取れるか、アドバイスが欲しいこと。
語り終えてそうっと彼を見上げれば
彼は固まっていた。
少し怒っているようにも見える。
やはり勝手だっただろうか、とミネルヴァは眉を下げた。
「……ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだ。そんな風に理不尽に一方的に君だけ傷つけられて、相手の男も女もなんのお咎めもなし? そんなこと許されていいわけがない。少し待っててくれ、法律に詳しい知り合いがいるから……」
立ち上がりかけたクリストフの手をミネルヴァは思わず掴んだ。
「いいの。本当にそれはいいの。もう終わったことだから。私は何も失ってない。むしろ気づけて良かった。あのまま結婚しなくて、本当によかった。むしろ自分を省みる、変えるチャンスが来てくれて嬉しいと思ってる。振り向く時間がもったいないの。今私は、前に進みたいの」
「……」
「あ、ごめんなさい」
掴んでいた手を離した。
ごつごつして、大きくて
戦う男の手のひらはこうなんだなと思った。
クリストフが着席し直した。
「ミネルヴァ……の気持ちも聞かずに、ごめん。……伯母は策略や、人任せが嫌いな人だ。俺が根回ししたり、つなぎを付けるのは、逆効果だと思う」
「……そう、なんだ」
ミネルヴァは肩を落とした。
親族である彼が言うのならば、そうなのだろう。
クリストフがカップを口に運ぶ。
「伯母はいつも昼食を『藁煉瓦亭』の一番奥の席でとる。玉砕覚悟で突撃するしかない」
「……」
「一見厳しそうだけど、困っている女性の後輩の真剣な悩みを無視できる人間ではないよ。男ばかりの軍部で女性が働くことの大変さは、伯母は身に染みてわかってる。丁寧に声をかけて、さっきみたいに話してごらん。きっと、ちゃんと聞いてくれるから」
「うん……」
じわりと胸があたたかくなった。
穏やかな優しい声だな、と思う。
なんだろう。人を包むのが上手いのだ、この人は。
彼がリーダーならば、チームの人たちはきっと安心してその指示を聞けることだろう。
自分に一番足りないところだな、とミネルヴァはまた反省する。
「ありがとう、クリストフ。今日、会えて良かった。付き合ってくれて、助言をくれて、本当にありがとう」
ミネルヴァは笑った。
クリストフがミネルヴァを見ている。
「……ミネルヴァ、もし、よければ」
「なあに」
「今度、俺と食事でも、行きませんか」
「……ごめんなさいお礼、サンドイッチじゃ足りないね。……あんまり、高くないところなら」
「まさか! 違うんだ。ええと、鶏のトマト煮で評判の店があってずっと行ってみたいんだけどちょっと一人とか男同士で入れるような雰囲気の店じゃなくて。よかったら、付き合ってくれないか。もし良かったら。俺、好きなんだ。鶏のトマト煮」
さっきと違い妙に早口である。
焦っているようなその姿がなんだかおかしい。
ミネルヴァは思わず笑ってしまった。
「変なの。クリストフ、もてそうなのに」
「まあ、好きな子以外にはたまに」
「うん、行ってみたい。私も鶏のトマト煮好き。実は数少ない得意料理なの。この機会に名店の味を盗んでしまおう」
「おっと名店探さなくちゃ」
「なあに」
「いや、こっちの話。いつなら大丈夫?」
うーんとミネルヴァは仕事の予定を頭に浮かべた。
「急だけど、今夜でもいい? 来週は忙しくなりそうで、予定があまり読めないの」
「…………もちろん」
「わあ大変、何を着て行こう。どんなお店?」
「……どんなお店だろう」
「?」
急に遠い目になった。
まあいいか、うっかりトマトがはねてもいいように赤い服にしようと考えてから
そんな女らしい色の服を持っていないことに気づく。
自分を変えるとミネルヴァは決めた。
今日の昼は街に出て、新しい服と、せっかくだから靴も合わせて新調するとしよう。
背の高い彼と歩くのだ。少しかかとの高めの靴を履いたっていい。
あんまり真っ赤じゃ恥ずかしいので、少し落ち着いた赤か、煉瓦色がいい。
女らしい服に合う、きれいな形のコートも探してみよう。
たまにはしっかりお化粧をしてみたっていいじゃないか。
そこまで考え、ミネルヴァは笑った。
「なんだかデートみたい」
「……うん。そうだね」
支払いをしようとしたら気が付かない間に支払われていたので、最初は二人分を。頑として受け取ってくれないので今度はきっちり自分の分の額をなんとかクリストフに渡した。
待ち合わせの時間と場所の約束をして、別れる。
遠ざかっていく背中に小さく手を振ったらちょうどよく振り向かれ、笑いながら手を振り返された。
なんだろうな
ぽかぽかする。
よし、とミネルヴァは歩き出す。
未来に向かって
とりあえずは直近の鶏のトマト煮に向かって、財布を握りしめて
ミネルヴァは軽やかに街へと歩き出す。
あのクリストフがかっこ悪りぃ!(笑)




