【3】ミネルヴァと美の魔術師たち
意外と見つからないものなのだな、とミネルヴァは途方に暮れている。
女らしい赤いワンピース、きれいな形のコート、それらに合うかかとの高い靴。
本以外で目的ある買い物は久々である。衣服ともなれば先日の花嫁衣裳以来だ。結局それは使わなかったけれど。
その前となるといつだったかも思い出せない。
基本ミネルヴァは見た目に頓着していない。髪など実用重視でいつも同じところで伸びれば切ってもらうだけだし、化粧はなんとなく粉をはたいて眉を整える程度、肌の手入れなど一応化粧水をつけるくらいで、基本、そのまんまである。機能的で、汚れてなければいいかなと思っている。
それでなんのトラブルも起きていないのだから、強い肌と髪に生んでくれた、見たこともない母に感謝するべきだろう。
行きつけの服屋もない。なので財布をぎゅっと握りしめたまま、華やかな街をおろおろと歩いている。
これまで努力してこなかったつけだ、とミネルヴァは苦く笑う。
華やかなもの、かわいらしいものなど自分には関係ないと
本当は気になるくせにわざと見ないように、遠ざけていたような気がする。
自分の名前を付けていいものなど、大人になるまで持っていなかった。
孤児院の先生たちは優しかったけれど、ミネルヴァだけのおかあさんではなかった。
何かを求めてはいけない、ピカピカしたきれいなものはミネルヴァのものではないと
物心ついたときからずっと、ミネルヴァは思っていた気がする。
同世代の思い思いに着飾った華やかな格好の人々が溢れる街でひとり焦る。
今日は買いたいのに、とミネルヴァは弱った。
「あれ……?」
横道の奥、ちらりと気になる看板が覗いた気がしてミネルヴァは足を向ける。
入り組んだ煉瓦造りの奥、同じ大きさのお店が三つ。
右は化粧品屋さん、真ん中は服屋さん、左は美容院らしい。
『ビオラの化粧品店』『マダムカサブランカの衣裳店』『デイジー美容院』と飾り文字で書かれたそれぞれの看板に、それぞれ炎の色が違うろうそくのマークが描かれている。
何故だろう、すごく気になる。
よし、とミネルヴァは真ん中の服屋の重たげな扉を開いた。
何故そんなことをしたか?
勘である。
「いらっしゃいませ」
なんとも言えない高さの声が聞こえた。
店の奥に、誰かいる。
大きい。
背が高い。
そして横にも大きい。
人の三倍はありそうな体面積を、紫のきらきら光る布が覆っている。
塗りこめられたように施された化粧。つんと上がった眉、光る赤い唇。
「何かお探し?」
男のような、女のような
やはり不思議な高さの声だった。
不快ではない。むしろ穏やかで、優しい声だと思った。
「……同期の男性と、今夜初めて食事に行くことになりまして」
ドアにしがみついたまま思わず言った。
本当のことを先に言った方がいい気がしたのだ。
これははたして勘なのか。
あるいはこの人の、空気に飲まれたのか。
「あら」
「……赤いワンピースと、コートを、靴を探しています」
「そう。どんなお店に行くの?」
「……わかりません。鶏のトマト煮が美味しいお店で、男同士じゃ入りにくいお店とのことです」
「ふうん」
きらり、と彼女(?)の目が輝いた。
「合わせたいアクセサリーや手持ちの服はないの?」
「……女らしい服も、アクセサリーも持っておりません」
「そう」
さらにきらんきらんと目が輝いた。
のっそりと彼女は立ち上がる。
「ようこそ。わたしのお城へ。素敵な迷子ちゃん」
腕を広げ、嫣然と笑う。
「魔法をかけてあげるわ。……覚悟しな」
最後だけ男の声だった。
「ああ~んいいわ! すっごいいいわ!」
右から声がする。
「いいえもっとセクシーにしましょうよう! 胸元まで開いたのあるでしょう!? この見事な胸を出さなくてどうするの!?」
左からも声がする。
「だまらっしゃい! 一応聞くわ。あなた男は何人知ってるの」
「……一人です」
「その野郎と別れたのはいつ。どっちから」
「つい先日。別の女を妊娠させたから婚約を破棄してくれと」
「なかなかいい修羅場ね! どうせ口先だけ甘いマメ野郎にほだされたんでしょう」
「強がってる美人の、あるあるよね~」
「わかるわぁ」
「だまらっしゃいブスども。それで今夜の男はどんな男?」
「同じ軍の……同期の軍人です。……背が高くて、誠実そうな人です」
「ほらね」
ふふんと笑ってマダムカサブランカが残りの二人を振り返る。
「これがベストよ」
「ぐっ……」
「さすがお姉さま……」
ふわりとした衣装を身に纏う髪を七色に染めた細目の女性(?)が褒めたたえ、痩せた猫背の体を黒のロングドレスで包んだ女性(?)が悔しそうに言う。
ミネルヴァは今店の、大きな鏡の前に立っている。
纏うのは深みのあるワインレッドの、手首まで袖のあるワンピースである。
柔らかく光沢のある生地で、細身なのに苦しくない。
首元が浅く、背の方がわずかに深く切れ込んでいて、少しだけ涼しい。
変にひらひらしたりレースだったりだったりしたら嫌だなと思っていたが、マダムカサブランカはどうやら一目でミネルヴァの好みを見破ったらしい。シンプルで、無駄がなく、それでいて女らしい。
そっとミネルヴァは自分の開いた首元をさすった。
「……首元が……」
「寂しいかしら?」
「いえ、いつも詰襟なので、なんだかすうすうとして」
「女の子でも軍服なの?」
「はい。支給品で、男物のしかないから。一番小さいサイズのを、詰めたり、短くしたりしてもらって」
「いやだわ、いえいいわ。禁欲的ね」
「ぞくぞくするわ」
うふふと女たちは笑う。
「そうね、少し寂しいかも。でもそれでいいのよ」
マダムカサブランカの分厚くあたたかい手が、ミネルヴァの開いた首元を撫でる。
男の人の手だとわかっているのに、少しも嫌な感じがしない。
ただただ美を
彼女の求めるずっと先のものを見ているとわかるからだろうか。
「普段男物の固い服で隠しているこの綺麗な白い肌。ここを自分の贈ったもので飾りたい。色付けたい。宝石でも、他のものでも。横にいる男にそう思わせてあげなさい。そう思える女を見つめながら食事を共にできる男の、いったいなんて幸せなことかしら」
「……ただの食事です」
「じゃあ練習だと思いなさい。なんでも練習は大事でしょう?」
「……はい」
なんだか本当に魔法にかけられているような気がする。
あれよあれよという間にコートも、靴も決まり
七色の髪の女性に髪を梳かれ、くるくるとねじりながら少しだけ顔の脇に垂らされる。
最後に黒のロングドレスの女性から、顔にぽんぽんと色を乗せられた。
いつもは前髪で隠した額が出ている。
濃い化粧ではなくほんの少し、頬と目の上がいつもよりほんのり色づき
唇がより赤く、艶やかに光っている。
ふーっとロングドレスが満足げなため息をつく。
「若くて元がいいと手間がかからないわね。こってり重ねた油絵みたいなあんたらみたいなのとは雲泥の差だわ」
「んまあ」
「失礼しちゃうわ」
ぶうぶうと野太い声が響く。
最後に差し出された伝票を見れば、化粧代含めぎりぎり想定の範囲内だった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。いい仕事をすると気持ちがいいわあ」
うっふっふと地の底から響くような声で笑う。
じわりとなんだか泣きそうになった。
「……また来てもいいですか。服も、お化粧も、似合う髪型も、何もわからないんです。今までずっと、さぼっていたから」
「大歓迎よ。伸びしろしかない素直なお客様、私たち大好きよ」
ボーンボーンと時計が鳴り、はっとした。
待ち合わせまで、もう時間がない。
家に一度戻って着ていた服を置いてこようと思ったのに、とミネルヴァは焦る。
見かねたマダムカサブランカが声をかける。
「いいわよ。置いておきなさい。預かっておいてあげる」
「でも……」
「女がでかい荷物持ってきたら艶消しでしょう! エスコートすることもできないじゃないの!」
「エスコート!?」
されたことのないミネルヴァは目を白黒させる。
ッターンとマダムカサブランカが舌打ちをした。
「ビオラ!」
「はい」
ロングドレスの女性がすっと背を伸ばす。
ウェーブのきいた黒く長い髪をかき上げ後ろで結わう。
あっという間に彼女は背の高い彼になった。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
低く甘い声で言われて手を伸ばされ、思わずミネルヴァはその手に自らの手を重ねてしまった。
「……」
彼らは魔法使いなのだ、やっぱり。
「ここからは、腕を」
思わず耳たぶが赤くなるような声とともに彼が自らの右腕を緩やかに曲げる。手のひらを導かれ、そっと腕の上に置かれた。
「素敵ですよお嬢さん。貴方は実に姿勢が良くて、凛としてとても美しい」
振り向いて微笑み、最後の褒め殺しまで完璧だ。
「よし。行っといで! 取りに来るのはいつでもいいよ!」
「はい! 行ってきます! ごめんなさい!」
「ごめんなさいと言いたくなったらありがとうと言い換えなさい!」
「はい! 心得ましたありがとうございます行ってきます!」
「めかしこんだら女は走るんじゃないわよ!」
「ごめ……ありがとうございますがんばります!」
外に出る。
出たら消えてしまうかもしれないと思ったお店は当然だが消えなかった。
ちゃんと三つ並んでそこにあった。
はあっと吐いた息が白い。
コートの前を合わせ、ミネルヴァは転ばないように慎重に歩く。
大丈夫、街の地図は俯瞰で頭に入っている。ここからなら走らなくてもなんとか待ち合わせには間に合うはずだ。
待ち合わせ場所のベンチが見えてきたが、そこにまだ彼の姿はなかった。
待たせていなくてよかった、と時計を見上げれば、ちょうど待ち合わせの時間を打つところだった。
「わ」
「失礼!」
角でぶつかりそうになった人がいてそちらを見れば
他でもない待ち合わせ相手の、クリストフだった。
俊敏にかわしたうえで相手が転ばないよう受け止めようとしたのだろう、わずかに腰を落として腕を伸ばしている。
汗をかき、こんなに寒いのに、コートを脱いで腕まくりまでしている。
「……走ってきた?」
「うん。ちょっといろいろ手こずって。待たせてごめん」
彼は腕を下げ体を起こす。
白い息を吐いて謝るが、ミネルヴァだって今来たのだ。
取り繕うためでも、機嫌を取るためでもなく
真剣に誠実にそう言っていることが、目の色と声の響きでわかる。
「ううん、急がせてごめ……急いでくれてありがとうクリストフ。私も、今来たところだから、心配しないで」
「……」
彼はじっとミネルヴァを見ている。
「……」
「……」
彼が何も言わないので、ミネルヴァも黙って見上げている。
彼はミネルヴァから目を離し、おもむろに自らのまくっていた袖を下げ、襟を正し、コートを羽織って首元の金具を留め背を軍人らしく凛々しく伸ばした。
そして緩やかに曲げた腕をミネルヴァの前に出す。
「……足元が、暗いから。もし迷惑でなければ」
「……ありがとう」
ミネルヴァはその腕に手を伸ばし、教わった通りに軽く置く。
さっき教えてもらわなかったら、きっとこれが何かもわからなかった。
クリストフはビオラのように甘く振り向いて囁いたり、褒めたりはしない。
姿勢正しく前を見て、それでもミネルヴァを気遣い歩幅を短くして歩む。
見上げた彼の耳が赤いのは、まだ体が熱いせいだろうか。
「……今日は寒いから、あたたかい葡萄酒を飲もうかな。香辛料のうんときいたやつ」
「……熱いの?」
「ううん、ちょっとぬるいの」
言った瞬間に彼の顔がこちらを向いた気がしたので顔を上げた。
「……ちょっとぬるいの、か」
ふ、とその表情が柔らかくなる。
何か秘密を共有したような気がして、ミネルヴァも笑った。
本当に今日は、慌てたりへこたれたり驚いたり、忙しい一日だった。
一歩歩むごとにそれが遠ざかり、楽しみになってくる。
どんな話をするのだろう。
名店の鶏のトマト煮は美味しいだろうか。
ミネルヴァには今知りたいこと、やりたいことがたくさんある。
やってきたことは捨てない。続けてきた努力はやめない。でも
もっと広い視点で世界を、人の心を見られるようになりたい。
ミネルヴァの知らない魔法は、きっとこの世界にたくさんあるのだろう。
願わくば今夜は
そっと先を行く男を見上げた。
『ここを自分の贈ったもので飾りたい』
まさか、とミネルヴァは首元をコートの上からおさえて首を振った。
せめて彼が、楽しいと思える時間を過ごしてくれますように。
道の先に、明かりの灯る暖かそうなお店が見えてきた。
ッターン!




