☆ミ のれんがけ前の星祭り6 ★5/21NEW!★
「お疲れさまでした」
「ああ。お疲れ」
「おはようございます」
「おはよう」
夜勤明けの配達人、オットー=バッハマンは配達完了の報告を受付の男に渡し、息をついた。長距離を夜駆けで走り、さすがのオットーもくたくただ。熱い湯を浴び、部屋を真っ暗にして、ゆっくりと眠りたいと思った。今日、明日は休みだ。
入れ違いに入って来た赤い制服の男たちに挨拶をして、家に戻ろうとしたオットーの背中の後ろで、バタバタと慌ただしい音がした。
「赤! スーテラン西15-20、ファレーズ北66-8、ハイランド南59-9!」
飛び込んできたのは別区画の担当配達人だ。リレー式で、急ぎこちらの受け持ちの赤をまとめて持って来たのだろう。入れ違いで入ってきた男達の顔がわずかに硬くなった。
赤。しかもよりにもよってファレーズ北66-8。断崖絶壁をわずか縫うように走る細く危険な道の先だ。あそこには変わり者の研究者が一人ぽつんと住んでいる。今から何を置いて全力で駆けても裾野に立つ時点でもう暗いだろう。
来た順に、受付の男がその赤を配達人たちに渡そうとする。順に行けばそれを受け取ることになる、30代の配達人、アンガスの顔が暗い。
こないだ娘が生まれたんです、と、彼は先日嬉しそうに語っていた。長年子宝に恵まれず苦しんだ末での、初めての子。可愛くて、可愛くて仕方がないですと。その後妙に落ち込んでいるようなので仕事の相談を口実に呼び出し話を聞けば、この仕事をやめるよう、妻に涙ながらに頼まれたと彼は言った。妻の実家は田舎だけど、広い果実畑があって、家族で食っていくには困らない。家族でそこに行かないか。身を削り命を賭けるような仕事はもう、この子のためにもどうかもうやめてくれないかと言われたのだと。
10代から続けたこの仕事を誇りに思っている。だが、その中で何度も命の危険を感じたことも事実。
この仕事が好きだ。だけどまだ生まれたてほやほやの娘の、成長の先を見たい。この子が少女になり、娘になり、嫁に行く日まで、自分はこの子の父でありたいと、妻と子の幸せそうな寝顔を見て強く思ったと。
スーテランの赤を受け取った配達人の後ろで死刑宣告を待つような顔をしているその男の前に、オットーは身を滑りこませ、奪うようにそれを受け取った。
「あそこの研究者と久しぶりに話がしたい。譲ってくれるかアンガス」
「……」
ホッとした顔をしたことに、自分でも気付いたのだろう。オットーを見て彼は真顔に戻り、それからくしゃりと顔が子どものように歪んだ。
上がりかけた手で拳を握っている。いいえ私が行きますと言いたそうで、言えない震える唇を噛んでいる。ぽんとその肩をオットーは叩いた。
「サンドールを頼むアンガス。君は長距離のペース配分が上手い。三人とも赤に出払えば通常の配達ができん。私が一つ受け持つので、ミックがそれをやるということで問題ないな」
受付の男を見る。彼は肩をすくめてみせた。
「はい。赤の配達を最優先していただけるのならありません」
「よし」
外していた制服のボタン留め直し、帽子を整え手袋をはめ直す。この際髭が伸びているのは許していただこう。仕方のないことだ。
「……バッハマンさん」
「なんだ」
「……寝てませんよね」
「走りすぎて頭が興奮状態でな。もう一件くらい行きたかったところだ。ただし馬、イルハングは譲ってくれ。あいつは山が得意だからな」
「……すいません」
「アンガス」
「はい」
「妻と子を大事にしろ。彼らには今、お前が必要だ」
「……」
ぽろりと落ちたものを、彼は袖でぬぐった。
「……サンドール、は、……任せてください」
「ああ。よろしく頼む。グランツには飼葉をたっぷり頼む。ゆっくり寝かせてやってくれ」
「はい」
気のなさそうな受付の男の返事を背中に聞き、オットーは扉を開ける。朝日が眩しく目を差すが、そのうち慣れる。
あまり体は大きくないが、頼もしく引き締まり足の太い馬に鞍を付け、跨る。そして走る。
走る。走る。太陽の光の中を焼かれながら。夕日の中を。世界を覆い始めた宵の帳の中を。振り落ちる星の中を。前だけを見て。
オットーはずっとそうやって走ってきた。運ぶべき荷だけ持って。己が負うべきだった大切なものを家にほったらかしにして。
オットーの家には何もなくなってしまった。振り向くことを忘れ人の荷ばかりを大切に運んでいるうちに。今のオットーには腕の中のこの運ぶべき荷のほか、もう何も残っていない。
今持っているなら絶対に手放すな。大切なものを置いて自分だけ走りすぎるな。その分、もう何もない自分が運び、その分走り、届けるから。
失ってからでは遅いのだと、それを失った愚かな男は知っている。
走る。キラキラと星が降っている。
『お父さん』。手に星窓のランプを持った小さな男の子が、仕事に出かけようとする自分を何度もそう呼んで引き留めようとしたのはいつだっただろうと、山を本格的に昇り始める前に仮眠した休憩所で、暗闇の中オットーは思った。
『お父さん』。もう誰かにそう呼ばれることはない。『あなた』と、優しい声で呼ばれることも。
外を見る。天気は崩れていない。道の修正は不要。休ませていた馬に歩み寄り、その首を撫でる。
「よし。もう一走りだ。行くぞ」
そして走る。オットーは配達人だからだ。
届けるべきものを届けるべき相手に届けるため、星降る中を配達人オットー=バッハマンは走る。
☆★☆★☆★☆★
降り落ちる星々を、家の窓から、ぼんやりとアマンダは見ている。
若い日はこれを野営地で見上げた。明日はどこに行こうかと、仲間たちと酒を飲み、地図を広げ、胸いっぱいに夢を膨らませて。
久々に晴れたので昼間盛大に干した服を畳みながら、ぼんやりとそれを見る。
夕飯のときにお義父さんがスープを零してしまったので、また洗い物が増えた。明日も今日ぐらい晴れてくれればいいのだけれどと思う。
さっき見たらお義父さんはもう寝ていた。夫であるエンリクはまだ帰ってこない。また飲みにでも行っているのだろうか。飲めないというのに。
畳む最中に穴を見つけ、裁縫道具を出し、つぎはぎをする。子どもたちが小さかったことはこんなのばっかりだったわと笑い、当時の小さかった服を思う。もう、あのきゃらきゃらとした鈴のような笑い声は、もう二度とこの家には響かない。おのおの立派に大人になり、家を出てくれたことを、アマンダは幸福に思うべきなのだろう。
「……」
おかあさん、お祭りに行こう。そんなふうに腕を引かれることも。若く逞しい剣士にミネットを差し出され求愛されることも。露出の多い服で張りのある肌をむき出しにし、美しかった長い髪を揺らし、笑い声をあげて星の下で踊ることも、アマンダの人生にはもう二度とない。
灯りを絞った暗い部屋、起き出したお義父さんが外に出やしないかとヒヤヒヤ耳をそばだてながらちくちくと針を動かすくたびれた女が、今のアマンダなのだ。
「……?」
頬に手をやる。涙が伝っていた。
「……いやねえ」
ふふっとアマンダは自分を笑う。
「わたしも歳を取ったのね」
明日はお隣さんとお茶でもしようとアマンダは思った。たわいもない話、夫の愚痴。そういったもので、アマンダは残りの時間を埋めるしかない。飲み込み、問題を起こさずに静かに老いていく。それがきっとアマンダが選んだ平穏というもの、幸せというものなのだ。
「……」
静かな部屋。ううんと唸る声が聞こえたのでアマンダは針を針山に刺し、義父の様子を見るために立ち上がった。
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北の大国ロクレツァ
「……また、何もお召し上がりにならなかったか……」
王の部屋から皿を下げたメイドの手元を覗き込み、長剣使いラシッドは暗く呟いた。
王は部屋から出てこない。食も全く進まず、酒ばかり。第一王子バシール様の死後、ずっとこんな様子だ。かつては肉ばかりを何皿でも平らげ『暴食王』とも呼ばれたはずの王カンダハルの食欲は、一体どこへ行ってしまわれたのだろうと思う。
贅を尽くした料理も、薬膳の粥も、まるで手を付けられず、熱を失って固まっている。
「……」
「ラシッド様。見張りを交代いたします。お休みください」
「……ああ……」
歩み寄ってきたのは浅黒い肌の、編んだ黒髪に穏やかな顔立ちの男、アブドゥル。一回りほど年下の、一途に主を案じる実直にして真面目な、忠臣中の忠臣である。
彼も皿を見て眉を寄せた。ラシッドもきっと今、このような暗い顔をしているのだと思う。
そんなラシッドを見てアブドゥルは、ラシッドを勇気づけるがごとくその表情を和らげた。
「……時が、薬でございます。ラシッド様」
「……ああ」
「お支えする側の我々が、今倒れるわけには参りませぬ。どうかあたたかなものを召し上がり、ゆっくりとお眠りください。陛下が元気になられ、『いざ戦じゃ!』とおっしゃったとき、我々こそが陛下のため、先陣にて斬り込みに行くのですから。我ら、戦闘王カンダハルが五矛の穂先でございます」
「……ああ。そうだなアブドゥル。…………そうだ」
かつて目を爛々と輝かせ自分たちにそう指示を出した、戦闘王の輝くばかりの精悍な顔を思い描き、ラシッドは頷く。
「そういう日が必ずまた来ると、……我々だけは、何があろうと、心より信じねばならぬな」
「はい。きっと。きっとまた来まするラシッド様」
「……有難う、アブドゥル」
「いいえ。お元気になられましたなら、どうか、お笑いになってくださいラシッド様。貴方様の大きな笑い声は耳に快く、人の心を勇気づけ明るくしてくださる、まことによきものでございます。こんなときだからこそ、どうか」
「……」
筋肉でしかものを考えられない武骨な男ばかりの中では実に珍しい、細やかな心遣いを持つ彼の肩をぽんと叩き、ラシッドは長剣を下げ自室に向かう。
窓の外を星が落ちている。不吉なそれを目に映すまいと、ラシッドは目を外した。
忌々しい。隣国ではこれを吉兆として喜ぶそうだが、ラシッドは子どものころからこれが大嫌いである。
落ちる、というのがそもそも気に入らない。整然と、持ち場の決まったものが乱れるのもだ。ラシッドには学はないが、自分なりの理というものはある。
酒でも飲んで寝てしまおうと思った。明日起きたときひょっとしたら、王の心の闇が晴れ明るい方へと進み、かつてのような陽の王に戻っていらっしゃるかもしれぬ。
大丈夫。あの方はお強い。きっとこの悲しみを乗り越え、かつてのようにお笑いになる。
今は夜。ただ、夜なだけなのだ。この暗闇さえ乗り越えてしまえば、きっと。きっとまた、明るい太陽が地の端から昇るだろうと、根拠もなく思いながら、ラシッドは重い脚を引きずるようにして歩んだ。
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ベエ、ベエ、ベエ
降り落ちる星の下、柵の中。パルパロたちが鳴いている。
☆彡☆彡☆彡
朝。
春子はお稲荷さんを見ている。がんもどきを供え、しゃがみこんで、じっと。
昨日のなんちゃら流星群は結局あの後降り始めた雨のせいで見られなかった。『濡れちゃうよ。濡れちゃうよ』と傘もなく千鳥足でヘロヘロ退散していった酔っぱらいどもを見送り、春子も家に帰った。
立ち上がり、見つめる。大きく振りかぶって柏手を打つ。
沈黙。
目を開ける。もちろん、苔むしたお稲荷さんの色あせた前掛けが揺れているだけだ。
「フン」
鼻息。
背を向け数歩歩み、前触れもなくだるまさんが転んだの鬼のようにパッと振り向く。
「……」
何も変わりない。いつも通りそこにあるのは、すました顔の、古くて侘しいお稲荷さんだ。
そりゃそうだ、と春子は思う。また鼻息を吐いてから前を向き直し、屋台を引いて歩き出す。
春子は今日もおでん屋。ただの、昔ながらのおでん屋店主である。
☆彡☆彡☆彡
~のれんがけ前の星祭り.了~(一皿目 春子に続く)




