【後1】王宮にて2
『まだまだ先のことにございます。城にはお慣れになりましたか? 私どもに何か至らぬことはございませんかマルセル様』
静かな問いかける声に、補佐官が微笑んでいることがわかる。
『……まだ、わからぬ』
『私にご説明できることでしたら、どうぞ何なりと』
『……かくありたいと思い浮かべるものはある。……だがそこに至るために王がなすべきことが、必要な政の形が、未だにわからぬ。優秀なる教師を幾人もつけてもらいながら、余は実に、……己が、……な……情けない』
『……』
『……』
『……大変無礼ながら、御身にお触れしてもよろしいでしょうか』
『……許す』
沈黙に、きっと今子供は泣いていて、誰かの手に撫でられているのだと思う。
『……恐れながら私は、わからぬことが悔しい、情けないと思われるそのお心を、御身に誇っていただきたくてたまりません。マルセル様が恥とお考えのそのお気持ちは、真剣に、心からそれを理解したいと強く望み必死に腕を伸ばすものだけにしか宿らぬ、実に尊きものにございます。御年8歳にして王というものを、政をそこまで真摯にお考えになるこの一途なお心のなんと得難く、美しきことでございましょう。生まれながらに尊きお立場に在りながら、このような宝をここにお持ちの稀有なお方を次代の王に戴ける我々アステールの国民は、誠に幸せ者でございます』
補佐官は今きっと、心から嬉しげに目の前の次期王を見ている。
『それはあまりにも壮大にして偉大ゆえ、小さき凡人の私ごときにはとてもお教えできることではございません。ですがマルセル様にならばきっと、かくありたいと思うものに至る日が、必ず訪れると私は確信しております。芽を出し、途中で折れることなく高く茎を伸ばしいずれ花咲くために、種は発芽の前にたくさんの栄養をその身に抱かなくてはなりません。今のマルセル様はきっと、それを充分にお体とお心に溜める時期でございます』
声の位置が低いのは、補佐官がしゃがみこんでいるためであろう。
『未来の王だからと、人よりも早く芽生えねばと焦ったり、花開くことを急ぐ必要などございません。かくありたきと思う理想を見据え続け、いつかそこに至ることを諦めず数多の知識を集め学び続けるうちに、気がつけばこの手のひらは多くのものを守り包めるほどに大きくなり、背伸びせずともそこに届くほどに、背が大きく高くなっておられます。ここは多くのものが幾重にも固く御身をお守りし、そのご成長に必要な多くの知識を持った優秀な教師たちが幾人もおり、そしてなにより目の前にトマス王という実に立派なお手本が、常にある場所なのでございますから。どうか何一つご心配なさらず、かの賢王の傍らで、ここにこの清廉なる美しきお心をお持ちのまま、日々心行くまでお考えになりながらお健やかにお過ごしください。微力ながら私も、陛下の後ろよりマルセル様のそのお姿を常にお見守りしております』
おいおいその賢王をあまり褒めるでない。いつ私の悪口が出るかなと扉の前で中腰で盗み聞きしている私が実にいたたまれぬではないかセレンソンとトマスは思った。
『……陛下のことも、まだよくわからぬのだ。常にお優しく、冷静で、……だが』
『だが?』
『……表に出ぬ、何やら深きものがおありに思え、ときどき、少し怖くも感じることがある』
『……』
ほう、これはなかなか慧眼だとトマスは思った。やはり子供というものは侮れぬ。
純粋な分、本質が見えるのだろう。皮肉っぽく唇の端を上げ、トマスは笑う。
『その並外れた深きところもまた、かの方がお持ちの大変に美しきもののひとつでございますマルセル様。トマス様という御方をよくお知りになれば、きっとその英知、己を律し御するために己に向ける自制の精神の、容赦なき、刃のごとき鋭さ。誰よりも深き深き場所に隠された、国や国民に対する愛情の途方もなき大きさあたたかさが見出されましょう。お側にあればいつか、マルセル様もかの御方をきっと大好きになられます』
温かな声は静かに、包むように響く。
心からそう思っていると、疑り深きトマスさえも何一つも疑えぬ嘘なきその声は、いつもと何ら変わりない。
その者のなかに必ず良きものが、美しきものがあると心から信じるまなざし。
あの日ラント=ブリオートが語った、己を内から照らし続ける尊く得難きもの。己がそれを、日々得ていることをトマスは知っている。
『……よく知る……』
『はい』
『どうやって?』
『お側に在り、お話しになり、そのお言葉を、その思いを辿ることによるかと存じます。……いえお待ち下さいその前に、理解すべきお相手に対する知識と理解が必要でございますね。それであれば私アントン=セレンソン、きっとお役に立ちましょう』
すうと彼が息を吸うような音が聞こえるようだった。
『ではまず御年3歳の、小鳥とのエピソードから」
「ゴッホーン!」
トマスはわざとらしい大きな咳をしながらノックをせずに扉を開けた。
いや待て待ておかしい。怖い怖い怖い。前は6歳で馬だったはずだ。いったいいつ、どのようにして彼の中の情報は更新された。
二人分の目が瞬き、突然の音の大きな闖入者を見上げている。
「おっとこれは失礼もう誰もいないかと思ってな。こんな時間ではないか早く寝なさいマルセル。セレンソンも帰りなさい。明日は休みであろう」
「……」
「その顔はなんだセレンソン。マルセルもだ。さあ寝なさい寝なさい。子供はよく寝ないと背が伸びんぞ」
「それはまったく陛下のおっしゃる通り。確かなことでございます。おやすみなさいませマルセル様。また明後日お話しいたしましょう」
「……おやすみなさい」
大いなる権力に大好きな補佐官との会話を打ち切られ、しょぼくれた顔で子供が廊下に去っていく。
彼も豪奢で大きなベッドには慣れているだろうが、そこがとても冷たく寂しいものであることをトマスはよく知っている。
高位貴族の男子たるもの、簡単に弱音を吐くわけにもいかぬことも。
まあそのうち心許した相手にそれを吐くだろうことは、容易に予想ができるが。
補佐官が立ち上がり恭しく礼を取ってからトマスを見上げる。
「お疲れ様でございましたトマス様。会議は無事整いましたか?」
「ああ。予想通りリエンサ・バクノロ間の案が通った。なお会議中、ウマイオ=アッポンジオが私が言おうとしていた実にいいセリフを一番いいところで持っていってくれた」
「流石はアッポンジオ様、実に間のいい男。せっかく今か今かとお待ちでしたのに誠に残念でございましたね。それでも無事結論が出、良うございました」
そう言う彼の頭の中に、リエンサとバクノロを結ぶ新しい転移紋をくぐって生まれる良きものたちが目まぐるしく動いているのが見える。
「ああ。あそこが最も無難にして各部門に平等に益がある。なんだかんだ言って最初はあそこしかなかった」
「はい。少しずつでございます。お疲れでございましょう茶をお淹れします。甘みがあり、喉によろしいものを」
「よい。今日はこのまま帰りなさい」
「では……執務室にて少しだけよろしいでしょうか。このまま帰宅しようと思っておりましたが、口頭で説明を加えたい箇所が一つございます。お疲れのところ申し訳ございません」
「よい。手短にな」
執務室の椅子に腰を下ろし書類を読み込む。短い説明を聞きなるほどと頷く。確かに文書だけでは齟齬を招きかねない点であった。
「よし。ああそうだセレンソン」
「は」
「後継者も無事迎えどうやら落ち着きつつあるようだから、今のうち念の為に言っておこう」
トマスは書から顔を上げ補佐官を見た。
「私はその日の訪れが何時であろうと、天の国の門への道は必ず一人で歩む。そのとき私はもう王の衣を脱ぎ、ただのトマスだ。そうなった私にはもう足元を照らすランプも、裾を持つ手も、ひとりの補佐もいらぬ。必ず私はただのトマスとして、そこを一人で歩む」
「……」
「君にその日、私のために嘆くこと悲しむことを禁ずる。その日君は他の誰よりも揺れず誰よりも冷静に、先代先々代を知る経験豊富な補佐官として私に代わり重たきものを被り纏うこととなるあの者の傍らに立ち、その身が間違っても地に倒れることなきよう、確かに支えるように。そして先王の横に並び女王の日に見たあの光景を、皆に広く一日でも長く語り伝え続けるように。それこそが私が心より望むシャルディスであり、私は君に、それを私に捧ぐことを所望する」
「……」
トマスを見据えながら唇を引き結び押し黙る己の若き補佐官を、トマスはじっと見る。
「返事が聞こえぬぞ補佐官アントン=セレンソン。王トマスの命である。直ちに答えよ」
「……承知いたしました。陛下の、ご命令とあらば」
「よろしい。ならば以上だ。明日はゆっくりと休め」
「……明日はセントノリスの者たちと、川原にて肉パーティーをいたします」
「いつも楽しそうだな君たちは。肉が美味いうちに、それを存分に楽しみなさい」
「はい」
きっと数々の言葉を飲み込んで、彼はトマスを見てそれでも微笑み、礼をし去った。
釘を刺しておかねばどこまでも付き従う気でいたのかもしれない己の補佐官の忠心に、トマスはひとり笑う。
いつか来るその日、必ず彼は今日のトマスの今の命を思い出すことであろう。そしてトマスの言葉を一言たりとも決して違えない。無論、人前では。
彼は優秀にして忠実なる、トマスの補佐官であるから。
様々なことが去来し今日一日で何やら急に老け込んだような気さえするが、いやいやまだ早い。王トマスの治世は、まさにこれからなのだから。
考えねばならぬことが山ほどある。明日は何から片付けようかと、今飲みたい、気分に合った温度の茶が手元にない、喉の渇いた王は考えている。




