13皿目 剣士ギュンター=バルト
黒の大剣を担ぎ、ギュンター=バルトは家路を急いでいる。
今日の護衛任務は割が良かった。前に依頼を受けたところからの紹介の仕事だった。相手は金持ちの商人で、金払いが実にきれいだった。また頼むよという言葉が、お世辞じゃないことを祈る。
ギュンターは剣士だ。少年の頃から近くの道場で習い、兄弟子も、師匠も倒した。16歳になったら、全国を巡る修行の旅に出るのだと決めていた。
現在23歳。もういい歳だが妻も子もなく、定職もない。あるのは親父の残した借金だけだ。
だがそれも今日まで。いや、ついさっきまでの話だ。
16のときに両親が馬車の事故で死に、泣いているところに借金取りが現れた。
全てを捨てて逃げてしまえばよかったのにと言われることもあるが、その借金はギュンターを生んだ後に長らく体調を崩した母の医師と薬代のためのものだと、ギュンターは知っていた。両親の馬車の事故は、二人が初めて町の外に旅行に行こうとした、往路だった。
この町に生まれ結局一度も外に出たことのなかった両親が、天の国に行くのをしっかりと見送ってやりたかった。
父が大工、母が針子という一般的な家で、よくここまで借りたなという額だった。世界に出る夢を諦め、そこから7年。剣だけは捨てずにコツコツと、少しでも割のいい仕事をしようと体を張って、ときには命を懸けて働いた。
ようやく、ようやくだ。
『完済済』と判を押されたそっけない古びた紙を、よく父が座っていたテーブルの上に置く。
やっと終わった。
もうギュンターは、何にも縛られなくていい。
「……」
ぼん
変な音に顔を上げれば、家の中におかしなものがいた。
「……」
「……」
オデンを食っている。
はふ、はふとオデンを食っている。
たまごはさっき食った。今は灰色の、ぐでんぐでんしたよくわからない何かを噛んでいる。表面に細かい切れ込みが入れてある。これがいったいなんなのか本当にさっぱりわからないが、ギュンターは結構好きだ。
よくわからない茶色くてまるいの。熱くてふわふわしてうまい。鼻の頭にじんわりと汗をかいているのがわかるが、うまい。
「……うまいです」
「そうかい」
「……」
「……」
ギュンターは無口だ。
無口というか、言葉を選ぶのが下手だから口を開かないようにしている。そしたらいつの間にか無口になってしまった。
剣の腕には自信がある。今までそれしかしてこなかったからだ。
働いて金を返して、働いて金を返して。
ようやく解放された。もう金を返さなくていい。
「……」
おかわりで盛ってもらった白い三角のものにかぶりつきながら、ギュンターは自分が泣いていることに気付いた。
酒を持ち上げる。最初は冷たいのにして、二杯目は熱いのにしてもらった。
不思議な酒器は、驚くほど小さい。
酒精の強い、がぶがぶと飲む酒じゃないからだろう。手で包んで、香りを楽しみながら、舐めるように飲むべき酒なのだ。これは多分。
「……」
ふわんと香りが鼻を抜け、そのあと熱いものが喉を通り過ぎていく。
ちびちびと飲むたびに、何かが胸に溢れるのを感じる。
思わずじわっと口が開いた。いつの間にか無口になってしまった、ギュンターの重い口が。
「……今日、死んだ親の借金を完済しました。16のころから、7年かけて」
「えらいじゃないか」
「ありがとうございます。……嬉しいはずなのになんでかさっきから、寂しくて、やたらと心細いんです。急に、一人になったみたいで。これまでもずっと一人だったのに」
ふっとフーリィが笑った……ような気がした。
「荷物でも、思い出だったんだろ。ずっと持って歩いてたんなら、なくなりゃ調子も崩すだろうよ」
「……」
「急に軽くなっちまって、ふわふわするのは仕方ないさ。今度はまた別のもんしょってきな。若いんだから」
「……もう23歳です」
フン、と鼻で笑う。
「赤んぼみたいなもんだ」
「……」
そしてまた黙って、食って、飲んで。
腹いっぱいになって、立ち上がって礼をしたらフーリィは消えていた。
誰もいない家はしんとしていた。腹はいっぱいだが、なんだか飲み足りないような、話し足りないような気がした。
まだ夕方だ。
外に飲みに行ってみようか。そんなことをギュンターは初めて思った。
今までよそ見をしてこなかった。楽しいことや面白いことは自分には関係ないと、ただ働いて、働いて。
もっと器用な人間ならよかったのにと思う。ギュンターは大剣を背負い外に出た。
夕暮れの町を歩く。
暗くなり始めた町の掲示板の前で、裸足の、乞食のような薄汚れた服を纏う男が地べたに這うようにしながら必死で手を動かしている。
「……なんだ?」
前にいた気のよさそうな親父が振り返る。
「王宮が出してる『玉石問』だよ。知らないのか?」
「知らない」
「先々月くらいに始まって、最初はちょっと流行ったんだ。毎週あそこに張り出される問題を解いて、答えと名前と住所を書いてあの箱に入れると採点されて、うまく解けたやつはそのうち国の、なんかいい仕事にありつけるかもしれませんってやつ」
「へえ……」
「あんなんやったって無駄だ無駄。みんな最初は面白がったけど問題が全然意味がわかんねぇし。この町でまだ続けてんのはあいつと、ほら来たあのガキくらいだ」
「……」
走ってきた顔まで煤まみれの少年が、這う男の横に立つ。
穴が開くほど必死で掲示板の紙を見上げ、やがて同様に地べたにしゃがみ込んで手を動かす。
人々はその光景を見慣れているのだろう。驚きも注目もせずに通り過ぎている。
同じ町のなかのこんな景色さえ、今までギュンターは、一度も見てこなかった。
「……」
痩せて薄汚れた乞食のような男と、あの歳でもう仕事をしているのだろう煤まみれの少年。
彼らが町の片隅で這いつくばって文字を書く姿は、決して美しい光景であるはずがなかった。
でも、きっと今この瞬間この町にこれよりも美しいものはないだろうと、ギュンターは思う。
彼らは今全身全霊で戦っている。
知をもって。情熱をもって。
真剣に、その命すら燃やすように、目を輝かせて。
人の目も、歳も身分も関係なく。己の持つものすべてで。
お前は戦っているかギュンター=バルト。
全力で己の道を求めたかと、問われているような気がした。
「……」
ギュンターは目をぬぐう。今日は何年振りかの、よく泣く日だ。
酒場に行こうとしていた足の向きを変え、家に引き返した。
胸にむらむらと燃え始めた炎を感じながら、せっせと旅支度をした。
翌朝
両親の墓に花を添えた剣士ギュンター=バルトは、乗合馬車を待っている。
いい年して旅慣れていないギュンターは、いかにも旅慣れておりますという雰囲気の人間たちの中で明らかに浮いていた。だが、気にしないと決めている。はじめは誰だって、初心者だ。
「もし」
「……はい?」
声をかけられてギュンターは振り向いた。蛇と目が合う。
どうやらギュンターが知らないだけで、しゃべる蛇が世界にはいるようだと思ったところで、その蛇の向こうに男がいることに気づいた。
男か女か一瞬わからない異国的な顔立ちの銀髪の男が、蛇の向こうで微笑んでいる。
深い湖のような目と、耳元と首元の宝石が光る。
「アサルハルムにお向かいですか」
「……はい」
なんでわかったのだろうとギュンターは思う。有名な闘技場がある町だ。
男は眉を寄せ悲壮な顔をした。
「……残念ですがあなたはそこに辿り着きません。善良で真面目なあなたは、途中人助けを行うつもりで悪人たちに騙され身ぐるみ剥がされ、トナウの大河に落とされ命を落とします。なおその場合、あなたの頭蓋骨には実においしいウナギが住むようです」
「……」
ギュンターは固まっている。
蛇が舌を出す。
これこそが詐欺かもしれないとは思うものの、目の前の男には何か、神秘的なものがあった。
「……どうしたら」
にっこりと男は笑う。
「もしよろしければ、旅慣れるまで旅慣れたものに用心棒として雇われるのはいかがでしょう。道が分かれるその日まで」
「……」
「互いにあてなき旅。しばしの間でも相棒がいたほうがきっと心強い」
笑う男をギュンターは見ている。
ゆらり、ゆらりと蛇の首が揺れている。
答えなど聞かなくてもわかっているという確信を持った様子で、男が微笑みながら蛇を撫でている。




